中国史概論
この章では、3世紀までの中国の歴史を見ていきます。中国の歴史をざっくり見ていくと以下のようになる。
- 古代 中国文明→周王朝→春秋戦国の戦乱期→漢王朝→魏晋南北朝の戦乱期
- 中世 唐王朝→五代十国の戦乱期→宋王朝→元王朝→明王朝
- 近代 清王朝
- 現代 中華民国 と日中戦争 → 中華人民共和国
地理
中国は、2つの大きな河川を中心に形成された。北の黄河と南の長江である。
華北(北部) | 黄河 | 畑作(麦)が中心。 ラーメン、餃子 |
江南(南部) | 長江 | 稲作(米)が中心 チャーハン |
内陸部 → 草原や砂漠が多い
沿岸部 → 温暖で多雨のため、稲作が盛ん。
黄河の巨大河川の治水工事 → 古くから巨大王朝が成立
稲作が盛ん → 階級社会が早期に成立。
北方(モンゴル)→ 草原が多い → 牧畜で生計
東北部(満州族)→ 森林が多い → 狩猟・採取で生活。
中国文明
紀元前6000年ごろ
黄河流域 → 涼しくて少雨 → アワなどの雑穀を栽培 → ラーメンや餃子が中心
長江流域 → 温暖で多雨 → 稲作が盛ん → チャーハンが中心
紀元前5千年紀 北部で仰韶文化
彩陶 → 柄のある土器
数百人規模の集落が作られる。
長江流域では、人口の水田が作られる。
紀元前3千年紀 北部で竜山文化
黒陶 → 高温で焼くため、黒光りする。
集落は、争いや交流により、政治的に統合されていく。
巨大な墓もこの時代から作られ始める。
周王朝
夏王朝 → 文献などに登場するが実在がいまだ証明されていない。暴君が登場し、殷王朝によって滅ぼされたといわれている。
紀元前16世紀 殷王朝成立。
王都のもとに多くの邑(ゆう)が従属
邑とは、城壁に囲まれて都市。
王都は、黄河流域にあり、殷墟という遺跡になっている。
甲骨文字を使用
占いで政治を行う。
同じ祖先をもつものの集まり氏を中心とした氏族集団をまとめる。
多くの城壁都市が作られる。これを邑(むら)という。
青銅器を使用。祭祀などに使用された。
紀元前11世紀 周王朝が成立。
周王朝が殷王朝を滅ぼす。
都は、鎬京
殷王朝のある場所(殷墟)から西に進んだ渭水盆地に作られる。
山で囲まれ、黄河につながる渭水という川が流れる。
この地は後の長安になる街である。
官僚は、親族が務めた。しかし、実力者(功臣)は婚姻により一族に加えた。
地方は土着の首長に封土を与えて、諸侯として領有させた。
王や諸侯の下には、卿(けい)・太夫(たいふ)・士(し)などと呼ばれる家臣がついた。
彼らは、給料ではなく王や諸侯から領地(封土)をもらい生計を立てた。
封土→ 上のものが下のものにあたえた領地
封建制→封土によって結ばれた主従関係
封土は、代々相続された。血縁関係で結ばれた集団(宗族・そうぞく)が形成された。彼らは、宗法(そうほう)を定めて結束を図った。
春秋戦国の戦乱期
春秋戦国時代の歴史
紀元前8世紀後半、異民族の侵入で都の鎬京が崩壊。都を洛邑(らくゆう)に移す。それまでの時代を西周時代といい、これ以降を東周時代という。
また、ここから春秋の戦乱期に入る。
有力諸侯は、王の権威を利用して近隣の諸侯をまとめて覇者と呼ばれるようになった。(春秋五覇)
その中で最も有力であったのは、洛邑周辺を統治した晋であった。
周王朝は衰退したが、その権威はまだ健在で、周王の権威を使って戦争が終結することが多かった
紀元前5世紀末、春秋時代から戦国時代に変わる。
晋で後継者争い、有力な家臣がそれぞれ国を作った。
趙・魏・韓
春秋五覇 → 戦国の七雄
この頃から、覇者は周王を無視して王を名のるようになった。
諸子百家
時代背景
戦国時代から鉄製農具の使用が始まる。
農業生産の向上 → 小規模農家の誕生 → 氏族の統制が崩れ、実力主義の時代へ
青銅の貨幣の登場(2021年の共通テストで出題)→ 商人が登場
世襲制→実力主義
概要
実力主義の世の中になったので有力者は富国強兵のために勉強をするようになった。
孔子の儒家
斉の国の近くの魯の国の出身
周王朝の時代を理想
氏族制度を重視し、先祖を敬うことを説いた。家族が大切。(現在の実力主義社会を否定)
孔子の言動は孔子の死後に弟子によって『論語』にまとめられた。
儒家の分派
孟子の性善説
人は生まれながらにして善である。
礼(子が親を敬 うこと)を前提に、
万人の持つ血縁的な愛情を重視
筍子の性悪説
人は生まれながらにして悪である。
礼(子が親を敬うこと)による規律を重視
反儒家の3思想
- 墨家 墨子→ 家族以外も無差別に愛せ
- 道家 老子、荘子(老荘思想)→ あるがままが大事(無為自然)
- 法家 商鞅、韓非、李斯 → 法律と刑罰によって社会秩序を守れ
思想以外の学問も発達
- 名家(人事)
- 兵家(軍事)…孫子
- 縦横家(外交)…蘇秦、張儀
- 陰陽家(天文学と星占い)
- 農家(農業)
ギリシャ哲学と異なり、 戦時中の学問であるため、根拠よりも実用性が重視された。
書物
屈原『楚詩』、楚の国の詩を集めた
『詩経』、中国最古の詩集。黄河流域の詩を集めた
孔子『春秋』、孔子がまとめた歴史書(年代記)
五経 →『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』
キングダム(秦の始皇帝)
秦は、周の西にあった諸侯で、春秋五覇や戦国七雄の一つであった。
紀元前5世紀末 戦国時代に入る
紀元前4世紀、秦王朝が法家の商鞅を採用。
紀元前3世紀後半、秦が中国を統一。
政は、王のトップとして皇帝と名乗った(始皇帝)
地方統治、中央が派遣する管理が治めた(郡県制)
周王朝は、地方分権(封建制)
商業を重視、貨幣や度量衡などを統一
宗教、焚書坑儒
焚書 医薬・占い・農業関係以外の書物をすべて焼き払う
坑儒 儒家の人を殺す
都は、咸陽(かつての鎬京の近郊)
北方の騎馬民族である匈奴(きょうど)の防波堤としてセイ戦国時代に作られた長城を修復した。(万里の長城)
紀元前3世紀末、わずか15年で秦王朝が崩壊。
始皇帝が亡くなった。都の咸陽には大きな墓が作られた。これが兵馬俑(へいばよう)である。兵馬俑には、大量の兵士や騎馬の人形が置かれた。
始皇帝の死後、農民反乱(陳勝呉広の乱)が発生。この能美運反乱は、急激な改革や大規模な土木工事で拡大した。これにより秦王朝は滅亡した。
紀元前3世紀末、項羽と劉邦の4年にわたる戦い(水滸伝)の末、漢王朝が成立。
漢王朝
漢王朝の歴史
建国者劉邦の時代(紀元前2世紀初頭) → 武帝の時代(紀元前1世紀) → 光武帝の時代(1世紀) → 漢王朝の衰退(黄巾の乱と三国志)
劉邦(高祖)の時代(紀元前2世紀)
ほかの5国へ配慮 → 郡国制 (郡県制<秦王朝>と封建制<周王朝>)
都は、長安(咸陽の近く)
武帝の時代(紀元前1世紀)
武帝の即位前に諸侯の反乱(呉楚七国の乱)を制圧
地方統治 ほぼ郡県制に近い。皇帝に権力が集中
対外戦争、匈奴との戦争のために大月氏と同盟しようと張騫を西域(中央アジア)へ派遣。同盟締結は失敗したが、匈奴を撃退。朝鮮では、衛氏朝鮮を滅ぼし漢四郡(楽浪郡など)を設置。ベトナム征服(日南郡)
財政政策 塩・鉄・酒の専売(この時代お茶はない)、均輸(地方間の価格差の是正)・平準(物価が過度に下落したら買い支える)法を制定した。
武帝の死後
宦官(後宮(皇帝の私邸)につかえる去勢された官僚)や外戚(皇帝の奥さんの一族)が政治を取り仕切る
外戚の王莽が新王朝をたてる。儒家を重視。
赤眉の乱で新王朝が滅亡。
光武帝が、漢王朝を復興。
光武帝(1世紀)
都を洛陽(東周時代の洛邑)へ移す
内政重視
儒学を学んだ豪族(新興の農場経営者)を重視
光武帝の死後(2世紀)
儒家を学んだ豪族 VS 宦官外戚 → 党錮の禁
2世紀末の宗教反乱である黄巾の乱が発生、3世紀初頭に滅んだ。黄巾の乱を指揮したのは、太平道の張角である。
漢王朝期の社会と文化
豪族の登場(農業政策)
戦国時代に小規模農業が可能になり氏族制度が崩れる。格差がうまれ、没落農民が現れる。有力農民は、没落農民から農地を購入。小作人として働かせた。彼ら農場経営者が豪族と呼ばれるようになった。漢王朝は、豪族に対して土地保有の制限をしようとしたが効果はなかった。
郷挙里選(官吏採用)
武帝の時代になると、中央集権化がすすみ中央官僚が多数必要になった。そのため、地方長官の推薦による官吏登用制度が導入された。これが郷挙里選である。
光武帝の時代になると、豪族の人々が郷挙里選によって中央政界に進出するようになる。
光武帝の死後になると、豪族たちと宦官・外戚との対立が起こる。
儒家(宗教政策)
秦王朝、法家を重視。焚書坑儒で儒家は弾圧された。
劉邦の時代、法家や道家が主流であった。
武帝の時代。儒家の董仲舒の提案で、儒家が官学(国教化)された。
五経を定めた。(キリスト教でいうニケーア公会議)
五経博士が設置される。
これらの学問は豪族を中心に広まった。
光武帝の時代。五経の解釈を重んずる訓詁学が発展し、多くの注釈書が作られた。訓詁学を大成させたのは、鄭玄である。
紙の普及
光武帝の時代には、紙が普及した。蔡倫が製紙法を改良したからである。
武帝の時代、司馬遷がまとめた歴史書『史記』が作られた。
光武帝の時代には。班固がまとめた『漢書』が作られた。
歴史書の雑学
紀伝体は人物重視で書かれた歴史書で、皇帝の実績(本紀)と功臣などの実績・伝記(列伝)で構成された。『史記』や漢書』は、紀伝体で描かれた。
これに対する歴史の記述法で、編年体がある。編年体は、年月順に記載された。孔子の『春秋』は編年体で作られた。
漢王朝の外交
漢王朝期に、皇帝を頂点とした統治制度が確立。20世紀初頭の辛亥革命まで続いた。
これを支えたのが官僚制度と儒学(儒家の思想)である。
西洋では、秦(chin)を語源とした、チャイナやシィンで呼ばれる。
一方で、日本などは、「漢字」など、漢を語源とした表現が多い。
西洋(中央アジア・西アジア・ヨーロッパ<ローマ帝国>)の情報も多くもたらされた。漢王朝はローマ帝国の存在を認識していた。
武帝の時代の張騫や光武帝の時代の班超はその一例である。班超の部下である甘英はローマ帝国へ向かおうとして、途中のパルティアで引き返した。
2世紀中ごろ。ローマ皇帝「大秦王安敦」の使者を名のる人がベトナム(日南郡)を訪れる。
光武帝の時代には、日本(倭)からも朝鮮(楽浪郡)へ使者を送り、金印を持ち帰っている。