ローマ帝国

貴族と平民

紀元前10世紀初頭 イタリア半島への居住が始まる。ローマはエルトリア人の支配下に入った。

紀元前6世紀末 都市国家ローマがエルトリア人の王を追放。国王をたてず、貴族による共和政をとった。

ローマの人々は家柄によって、貴族(パトリキ)と平民(プレプス)である。

  • 国会 → 元老院 貴族のみで構成
  • 首相 → 執政官(コンスル)貴族から選出で定員2名、任期は1年

イタリア統一戦争で、平民が軍事で活躍するようになった。平民は、貴族に対して参政権を求めるようになった。

 紀元前5世紀、護民官と平民会が設置された。

  • 護民官は、平民の役職。元老院やコンスルに対して拒否権が行使できる。
  • 平民会は、平民だけで構成される議会。ただし、元老院の商人を必要とした。

紀元前5世紀半ば、成文法(十二表法)が成立した。法に基づいて裁かれるようになった。

紀元前4世紀半ば、執政官(コンスル)の1人が平民になった。(リキニウス・セクスティウス法)

紀元前3世紀初頭、平民会の決議に、元老院の承認が必要なくなった。(ホルテンシウス法)

独裁官、戦争などの非常時に設置される役職。独裁権を行使された。戦争時に元老院の承認なって取ってられないものね。

従来の貴族に、富裕な平民が加わって新しい支配階級が誕生した。ローマの共和政は、ギリシャの共和政と違い貧富の差に関係なく政治に参加することができた。

ポエニ戦争

前章では、紀元前2世紀までの政治を見てきた。ここでは、同じ時代に軍事・外交を見ていきます。

共和政ローマが成立した6世紀、イタリア半島には、エルトリア人、ローマ以外のラテン人、ギリシャの植民市などがあった。

紀元前3世紀前半、イタリア半島を統一した。

 共和政ローマは、ギリシャと違い、ローマが直接統治した。ローマは征服した都市を3つのランクに分けて権利と義務を与えた。(分割統治)

 紀元前3世紀半ば、ポエニ戦争が始まる。ポエニ戦争とは、北アフリカのフェニキア人国家カルタゴとの戦争である。ローマのスキピオとカルタゴのハンニバルとの激闘はこの戦争である。紀元前3世紀半ばはイタリアを統一したばかりである。

 紀元前2世紀半ば。共和制ローマはポエニ戦争に勝利。カルタゴは滅亡した。また、カルタゴと同盟関係にあったギリシャ(マケドニア)も居和声ローマの支配下になった。

 アレキサンダー大王の後継国で残っているのは、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアのみである。

 ここから、戦争が及ぼした経済・社会の変化を見ていきましょう。

 中小農民は、相次ぐ戦争で農地は荒廃。田畑を捨てて、無産市民となりローマへ移住した。ローマには属州から安い穀物が流入。無産市民は困窮せずに済んだ。さらに、征服戦争を望むようになった。

 ローマ帝国が戦争で征服した地域は属州と呼ばれた。属州の統治は、元老院議員が行った。彼らは徴税請負人を使うようになった。彼らはのちに騎士と呼ばれるようになった。元老院議員や騎士は、属州の徴税で富を蓄えた。

 元老院議員や騎士は、中小農民から土地を買い集め、奴隷を使って大規模農場経営を行った。これをラティフンディアという。これにより、ローマ市民の間に経済格差が生じるようになった。

 また、政治面で対立するようになった。元老院を中心とした旧貴族の門閥派と、無産市民と騎士から構成される平民派である。

皇帝になれなかったカエサル

紀元前2世紀半ば、ポエニ戦争が終結

紀元前2世後半、グラックス兄弟の改革。

 護民官になったグラックス兄弟は、大土地所有を制限。大土地所有者の土地を没収し、無産市民に分配しようとした。しかし、失敗した。

 有力政治家は、自分の支持者を中心とした軍隊を持つようになった。これを私兵という。この私兵による内乱が勃発するようになる。これが内乱の1世紀の始まりである。

 紀元前1世紀初頭、平民派のマリウスと門閥派(元老院派)スラが私兵を率いて戦った。同じ頃、イタリアの同盟市もローマ市民権を求めて反乱(同盟市戦争)を起こした。さらに、剣闘士奴隷の反乱(スパルタクスの乱)も発生した。

 紀元前1世紀半ば、これらの反乱は鎮圧された。この鎮圧で台頭したのがポンペイウス・クラッススとカエサルである。彼らは、政治同盟(第1回三頭政治)を結び、元老院と門閥派に対抗して政権を握った。

 その後、カエサルが独裁を行ったが、暗殺された。

 その後。カエサルの部下であったアントニヌス・レピドゥスとオクタウィアヌスによって第三回三頭政治が行われた。

 紀元前3世紀後半、プトレマイオス朝エジプトのクレオパトラと結んだアントニヌスをオクタウィアヌスがアクティウムの海戦で破った。

 オクタウィアヌスは、内乱を鎮めるとともに、エジプトを属州にし地中海を再統一した。

五賢帝の時代

 紀元前1世紀後半、オクタウィアヌスが皇帝になり帝政を引いた。この政治体制は元首政という。

 紀元前1世紀末か2世紀世紀末までの約200年間をパックス=ロマーナ(ローマの平和)と呼んだ。特に1世紀末から始まる五賢帝の時代はローマの最盛期であった。1世紀初頭のトラヤヌス帝の時代には最大版図を獲得した。国境付近まで道路と水道が整備された。ロンドン、パリ、ウィーンなどの都市もこの時に建設された。

 都市の上層市民に、ローマ市民権を与え、帝国支配に協力させた。3世紀初頭のカラカラ帝の時代に、属州の全自由民にローマ市民権が与えられた。

 また、エジプトを拠点に、中国・東南アジア・インド(サータヴァハナ朝)と季節風交易を行った。

3世紀の危機

 2世紀末の五賢帝時代の末期になると、帝国財政が行き詰まりを見せた。

 3世紀初頭のカラカラ帝の時代には、属州の全自由民にローマ市民権を与えた。

 その後、属州の軍隊が独自に皇帝をたてて、ローマの元老院と争うようになった。これが軍人皇帝の時代である。

 この頃には、社会構造が大きく変化した。特に西方の諸都市は重税で衰退を始めた。都市の上層市民は都市を離れて大農場経営を始めた。重税を逃れた都市の下層市民は、この農園に逃げ込み小作人(コロヌス)となった。奴隷の供給の行き詰まりでラティフンディアが衰退し、コロヌス(小作人)による生産体制(コロナトゥス)が普及した。 

オリエント式専制君主制へ

 3世紀末、ディオクレティアヌス帝が即位。

  • ローマ帝国を四分割して統治した
  • 税制改革を断行した。
  • 皇帝を神格化したオリエント式専制君主制を導入した。
     → 皇帝の神格化を否定したキリスト教の迫害を行った。

 4世紀初頭、コンスタンティヌス帝が即位

  • キリスト教の公認
  • コロヌス(小作人)の移動を制限
  • 巨大な官僚体制と財政の肥大化による重税

 重税による属州の反乱と4世紀後半のゲルマン民族大移動で帝国は衰退。

 4世紀末、テオドシウス帝は帝国を2分割した。

 5世紀後半、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ帝国が滅亡。

 15世紀半ば、オスマン帝国による東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡。

キリスト教の成立

 キリスト教を始めたイエスが生まれたのは、紀元前1世紀末のパレスチナである。当時のパレスチナはローマ帝国の属州であった。支配層はユダヤ教パリサイ派の神官であった。パレスチナの人々はローマ帝国の重税とユダヤ教の祭祀のための費用で苦しんでいた。

 1世紀、イエスは、ユダヤ教パリサイ派の形式主義を批判した。パレスチナの上層市民はこれを迫害したが、貧困層を中心にイエスを支持するものが現れた。パリサイ派はローマ総督に訴えイエスを処刑した。現在その地にはふっぼ 1世紀、イエスは、ユダヤ教パリサイ派の形式主義を批判した。パレスチナの上層市民はこれを迫害したが、貧困層を中心にイエスを支持するものが現れた。パリサイ派はローマ総督に訴えイエスを処刑した。

 その後、残されたイエスの弟子たちによってイエスが復活したという信仰が生まれた。これがキリスト教である。その中心人物は、ペテロパウロであった。かれら、キリスト教を広めた人たちは使徒と呼ばれた。

 3世紀の軍人皇帝の混乱期には、奴隷・女性や下層市民を中心に社会的弱者を中心にひろまり、上層市民でも信者を増やしていた。

 また、『新約聖書』がまとめられ、『旧約聖書』とともにバイブル(経典)となった。

キリスト教の迫害

 ローマは、ギリシャと同じ多神教の国である。皇帝も神の一人とされた。しだいに、皇帝崇拝儀礼が行われるようになった。

 キリスト教は、一神教で神以外のものを神として崇めることを否定していた。そのため、皇帝礼拝を拒否した。そのため、キリスト教とは反社会集団とみなされた。

 1世紀半ばのネロ帝の時代には、キリスト教の大迫害が行われ、ペテロやパウロもこの時に処刑された。その後のローマ皇帝もキリスト教の迫害を続けた。

 3世紀、軍人皇帝時代の混乱でキリスト教の迫害がそれほど行われなかった。そのため、この時期にキリスト教徒多く誕生した。

 3世紀末のディオクレティアヌス帝の時代。皇帝の神格化のために、キリスト教の大迫害を行った。

 4世紀初頭のコンスタンティヌス帝の時代。ミラノ勅令でキリスト教が公認された。ニケーア公会議三位一体説アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした。アリウス派は、ゲルマン民族の中で広まった。

 4世紀半ば、ユリアヌス帝の時代。古来の多神教の復活を試みるが失敗した。

 4世紀末、テオドシウス帝の時代。キリスト教を国教化し、それ以外の宗教を禁止した。この時代以降、キリスト教の組織化が進み、キリスト教を重視した中世キリスト教文化が形成された。

 5世紀初頭、エフェソス公会議ネストリウス派が異端とされた。ネストリウス派はササン朝ペルシャに広まった。7世紀にササン朝が滅亡すると中国の唐王朝に広まった。

文化

 ローマの文化は、精神面ではギリシャ文化の模倣に終わった。しかし、建築などの実用文化では優れた文化を残した。ローマではラテン語を使用。その後も、宗教や学術ではラテン語が主流になった。中世の貴族では、ラテン語は古典として一つの教養とされた。バチカン市国では現在でもラテン語が公用語である。

 建築では、コロッセウムやパンテオン、アッピア街道が作られた。

 また、法学も整備された。十二表法をベースにローマ法がヨーロッパの法律の基礎となった。6世紀、東ローマ帝国のユスティアヌス帝は『ローマ法大全』で当時の法律をまとめた。