(前史)近代の中東
前回は、14世紀のモンゴル帝国の衰退期から18世紀まで中東の歴史を見ていきました。
この頃は、東西に分かれた歴史をたどった。中央アジアや中国に近い東半分は、トルコ系のティムール朝とイラン系のサファヴィー朝が統治した。一方で、ヨーロッパ側の西半分ではオスマン帝国が成立。栄華を誇っていた。
オスマン帝国
第2次ウィーン包囲の失敗
オスマン帝国の衰退は、17世紀から始まった。
17世紀後半、第2次ウィーン包囲失敗。この後、オスマン帝国はハンガリーから撤退する。
18世紀後半から、ロシアとの戦争が始まる。ロシアに大敗、黒海の北岸を奪われる。
ギリシャ独立戦争
19世紀に入ると、バルカン半島で独立運動が活発化する。
20年代のギリシャが独立するとさらに独立運動は活性化した。
サウジアラビアとエジプト
ワッハーブ王国
18世紀半ば、アラビア半島でイスラーム教の改革運動が始まった。この運動は、ムハンマド時代のアラビア人を中心としたイスラム教を復活させようという運動である。これは、イスラム原理主義の考えである。この思想を支持する人たちをワッハーブ派と呼んだ。
ワッハーブ派の人々は、アラビアの豪族サウード家を結んでワッハーブ王国を建国。これがのちのサウジアラビアである。
ちなみに、18世紀に入ると、イスラーム教の中心はイラン人やトルコ人になっていた。彼らは、神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝を行うようになった。ワッハーブ派はこれらを否定した。
シリア(東地中海)では、キリスト教徒を中心に、アラブ文化の復興運動が起こった。
ムハンマド=アリー
エジプトは、ナポレオン戦争期(18世紀末)にフランスに占領された。この時、ナポレオン軍とたたかった英雄がムハンマド=アリーである。
ムハンマド=アリーは、エジプト民衆の支持をあつめて、エジプト総督になり、オスマン皇帝もこれを追認した。
ムハンマド=アリーは、旧勢力のマムルークを一掃。フランスの支援で近代化と富国強兵を進めた。
エジプト独立戦争
30年代、ギリシャ独立戦争の報酬をめぐり、ムハンマド=アリー(エジプト)と、オスマン皇帝が対立。エジプト=トルコ戦争が勃発した。
争点は2点である。シリアの領有権とエジプト総督の世襲権である。
エジプトは、フランスの支援を受けた。一方で、オスマン帝国はロシアの支援を受けた。
この戦争は、イギリスの仲介で終結。40年のロンドン会議で、ムハンマド=アリーはエジプト総督の世襲権を獲得。しかし、シリアの領有権は認められなかった。
エジプトの植民地化
エジプトは、戦争と近代化政策で多額の対外債務を負った。さらにスエズ運河建設の難航がこれに拍車をかけた。
それでも、60年代の南北戦争で綿花価格が暴騰。これで何とか持ちこたえることができた。
しかし、70年代、南北戦争の終結と73年不況で綿花価格が暴落。イギリスとフランスの財務管理下に置かれた。
75年、スエズ運河株をイギリスに売却。
80年代に入り、ウラービーの乱が発生。普仏戦争敗北後のフランスはこれに対応できず、イギリス軍が単独でこれを鎮圧した。これにより、エジプトはイギリスの植民地になった。
オスマン帝国の改革
タンジマート(西洋化改革)
20年代のギリシャ独立戦争、30年代のエジプト=トルコ戦争をうけて、オスマン皇帝も改革の必要性を重視した。
39年、新皇帝アプデュルメジト1世が即位。タンジマート(西欧化改革)が開始された。
しかし、この改革によって外国資本への従属が進んだ。
ミドハド憲法
73年、ヨーロッパが不況になる。ヨーロッパの金融資本は外国への投資を縮小させた。オスマン帝国もこれにより財政難になった。
76年、宰相ミドハト=パシャは、外国人投資家の信頼を得るために憲法を制定した。ミドハト憲法である。皇帝アブデュルハミト2世もこれを承認した。
この5年後の81年に、日本では国会開設の勅諭が出され、89年に大日本帝国憲法が制定された。
ミドハト憲法は、78年にロシア=トルコ戦争が始まると停止。専制君主制へ戻った。
オスマン帝国は、ロシア=トルコ戦争の敗戦でバルカン半島の大部分を失った。
イラン
カジャール朝(イラン)
サファヴィー朝
18世紀末にカジャール朝が成立。
1828年、カフカス地方をめぐり、ロシア帝国と戦争。カジャール朝は、ロシア帝国に敗戦。トルコマンチャーイ条約を締結。カフカス地方の東アルメニアを失う。ロシアに治外法権を認め、関税自主権をうしなった。
1848年、ハーブ教徒の乱がおこる。
アフガン
18世紀半ば以降、アフガン王国は独立を保つ。
19世紀初頭、カジャール朝(イラン)が侵攻。その後、ロシア帝国も侵攻。
38年から、アフガン戦争が勃発。80年まで断続的に続き、イギリス(イギリス領インド)の保護国になる。