18世紀前半の東南アジア
18世紀の東南アジアの大陸部は、大きな転換期を迎えていた。東南アジアの中心国家であったタイのアユタヤ朝が衰退。ミャンマーのタウングー朝、ベトナムの黎朝も大きな影響を受けていく。
今回は、冒頭で大陸3国(ミャンマー、タイ、ベトナム)の王朝の変遷を見ていきます。
17世紀後半の国際情勢
日本は、江戸時代。家綱(第4代)と綱吉(第5代、犬将軍)の時代である。戦国時代らしい武断政治から江戸時代風の文治政治への移行する時代である。
中国は、清王朝の時代。康煕帝が即位。中華統一を果たし、黄金時代に入る。インドはムガル帝国の時代。アウラングゼーブ帝が即位。シズヤを復活させる。
フランスは、ルイ14世の黄金期。ヴェルサイユ宮殿が建築される。イギリスは、市民革命の時代。ピューリタン革命や名誉革命が起こる。
前近代の東南アジアの王朝
東南アジア大陸部
東南アジア史は、暗記項目が少ないため差が付きやすい論点である。順番通りに覚えれば、比較的スムーズに覚えられる。
- 国名と位置
- 歴代王朝名
- 各王朝の成立時(世紀で大丈夫)
- 各王朝の宗教と特色
- 有名な国王(建国者など)
- インド史、中国史、ヨーロッパ史との紐づけ
大陸部の位置関係
東南アジアの国は、大陸部と諸島部にまず分ける。
大陸部の国は、東(中国側)から西(インド側)に並べると次のとおりである。
- ベトナム
- ラオス(北)とカンボジア(南)
- タイ
- ミャンマー(ビルマ)
イスラム時代以降、国際交流の中心は海上交易であった。そのため、大陸部は、諸島部ほど海外の影響を受けていない。そのため、植民地になるのも、大陸部のほうがあとになる。
ベトナムの歴代王朝
ベトナムは、中国に一番近いため、何度か中国に征服されている。
- 中国属国時代(紀元前3世紀〜10世紀)
- 李朝(10世紀〜13世紀)
- 陳朝(13世紀〜14世紀)
- 黎朝(14世紀〜18世紀)
- 西山政権(18世紀後半)
- 阮朝(1800年代〜1880年代)
- フランスの植民地へ
タイの歴代王朝
タイは、インドや中国などの大国から遠いため、現在まで独立国を維持している。
ミャンマー(ビルマ)の歴代王朝
ビルマは、インド(ベンガル地方)に近い国である。そのため、インドでもベンガル地方の影響を大きく受けた。その影響でインドの植民地になった。
- 先住民ピュー人とモン人
- パガン朝(11世紀〜13世紀)
- ペグー朝(13世紀〜16世紀前半)
- タウングー朝(16世紀前半〜18世紀なかば)
- コンバウン朝(18世紀なかば〜1880年代)
- イギリスの植民地へ
衰退する国際都市アユタヤ
アユタヤ朝
アユタヤはタイの首都バンコクの北へ電車で1時間半のところにある街である。チャオプラヤ川の川中島で、アユタヤ町時代の歴史遺産が数多くある。
アユタヤ王朝時代のアユタヤは、首都であると同時に国際交易の拠点であった。アジア(日本、中国)人や西洋人の居留区が設けられていた。
アユタヤ王朝は、14世紀に成立したタイの王朝である。国際都市アユタヤの繁栄を背景に国力を拡大させた。16世紀の大航海時代に国際交易が発展すると全盛期を迎えた。
しかし、17世紀後半になると暗雲が立ち始めた。
日本の鎖国政策
大きな転換点は、1630年代に行われた徳川家光の鎖国政策である。戦国時代から江戸時代初期の日本は、東アジア最大の交易国である。この国が、突如として国際交易から撤退した。
鎖国と言っても、下記の通りに続いていた。
- 長崎 オランダと清王朝
- 琉球 琉球王国経由の清王朝などとの中継貿易
- 対馬 朝鮮王朝との交易
- アイヌ
当時世界最強の江戸幕府の鎖国政策は徹底して行われた。そのため、密貿易は全く行われなかった。密貿易を行う最大手は、薩摩の島津家と長州の毛利であった。島津家には、琉球での交易を黙認。毛利家には、倉庫業で長崎での交易の利権の一部を与えた。この2つの家は、鎖国の恩恵を受けていた。そのため、幕末には攘夷運動主力になった。
日本の交易の中心が、オランダになった。これにより、東南アジアの後期の中心がタイのアユタヤからジャワ島(インドネシア)のパタヴィア(ジャカルタ)へ遷っていった。
交易の中心はジャカルタ(パタヴィア)へ
オランダは、18世紀前半に東南アジアで確固たる地位を築いた。
- 日本(長崎)鎖国政策で日本との貿易を独占。
- モルッカ諸島 アンボイナ事件でイギリスを追放
香辛料貿易を独占
その頃、ジャワ島では多くの小国が覇権を争っていた。オランダは、失業した戦国時代の日本の武士を傭兵として雇い入れた。傭兵を使って、勢力を伸ばしていた。
ジャワ島では、オランダの拠点ジャカルタ(パタヴィア)があった。しかし、バンテン王国は、近くにバンテン港を開港。イギリス船などはこちらに入港して東南アジアの交易を続けていた。
オランダは、バンテン王国を支配して、イギリスと東南アジア市場から撤退させたかった。しかし、オランダにはその余裕はなかった。ヨーロッパでは英蘭戦争が起きており、ジャワ島でも新マラタム王国との戦争が起きていた。
しかし、チャンスが訪れた。バンテン王国で後継者争いが発生。83年、王の息子が反乱。オランダは反乱軍を支援。反乱軍が勝利。バンテン王国は親オランダ国になり、オランダ船以外の船がジャワ島へ入稿することができなくなった。
これにより、イギリスは東南アジア市場から撤退。イギリス船やフランス船が少なくなり、アユタヤは衰退していった。
それ以外のオランダの拠点は以下の通りである。
- 南アフリカ 喜望峰(インド洋への玄関口)
- インド セイロン島に拠点を置く。
- スマトラ島 中南部を支配。北部はアチェ王国
清王朝の海禁政策
東アジア2番手の交易相手は明王朝である。明王朝は44年に李自成の乱により滅亡した。女真族の清王朝が北京に入った。66年に康煕帝が即位。73年に三藩の乱が起こると、貿易拠点の中国南部や台湾が戦場になる。さらに、清王朝は遷界令(せんかいれい)を出し、貿易制限を実施した。これにより、貿易は大幅に縮小した。
オランダは、明王朝との交易拠点として台湾を支配した。しかし、61年、明王朝の残党である鄭成功が台湾に上陸。オランダ人を追放した。
ベトナム 清王朝との代理戦争
ベトナムでは、北部の鄭一族と南部の阮一族が対立していた。
北部の鄭一族は、首都ハノイを拠点にし、黎朝を支え、新王朝に朝貢を行っていた。
一方で、阮一族は、中部のフエに拠点を置き、ベトナム中南部を支配した。これを支援したのがアユタヤ朝であった。
フランスのルイ14世に活路を求める
アユタヤ朝は、前述の通り日本の鎖国政策などにより交易利権をオランダに奪われていった。
そこで活路を求めたのがフランスのルイ14世である。アユタヤ朝はフランスに使節を送り、親交を深めた。
ルイ14世は、絶対王政の象徴で、ヴェルサイユ宮殿を作るなどフランス=ブルボン朝の全盛期を生きた国王である。
ルイ14世は、重商主義をとり、積極的に海外進出に努めた。
- インド イギリス革命中のイギリスの隙を狙い、次々と拠点を建設した。
- アメリカ カナダやミシシッピ沿岸に植民地を建設した。そのため、ミシシッピ川沿岸は現在でもルイジアナと呼ばれる。
18世紀に入ると、スペイン継承戦争に事実上敗北。七年戦争にも敗北。アジア・アメリカから撤退した。
英蘭戦争と東南アジア
ピューリタン革命
49年、イギリスでピューリタン革命が成功。国王は処刑され、クロムウェルを中心とした共和政が成立した。
航海法と英蘭戦争
51年、クロムウェルは、航海法を制定。オランダ船などの外国船のイギリス入港を禁止した。これにより、英蘭戦争は勃発した。
53年、クロムウェルが護国卿に就任。国王派とオランダが接近するのを防止するため停戦に至った。
復古王政が成立すると。63年に第2次英蘭戦争が起こる。
第三次英蘭戦争と英蘭戦争
72年、フランスのルイ14世が英蘭戦争に介入。イギリスと密約を締結。英仏連合軍と第三次英蘭戦争が勃発。
長期に渡る戦争で、イギリスは財政難になる。議会が反発。イギリスはオランダと単独講和。イギリス王室はオランダに王女を送った。この戦争をきっかけにオランダとフランスが対立する。アユタヤ朝がルイ14世に使節を送ったのもこの頃である。
88年、イギリス王室が議会と対立。議会は、国王を追放。オランダに嫁いだ王女メアリを女王に迎える。これにより、オランダはイギリスと同君連合になる。また、イギリスはここからフランスと対立するようになり、1801年のスペイン継承戦争へ突入する。