復習 9世紀の東南アジア
9世紀末に唐王朝が滅亡。五代十国の戦乱期に入った。北ベトナムでは1000年間に渡る中国王朝の支配が終わる。北ベトナムの混乱を受けて、中ベトナムのチャンバーが最盛期を迎える。
8世紀の国際情勢
8世紀(701年〜800年)、日本は奈良時代。唐の影響を大きく受けた時代。奈良には大仏、全国には国分寺が建てられた。仏教の影響が大きかったのもこの時代。
中国では、8世紀の安史の乱で唐王朝は衰退。増税として、両税法や塩などの専売を実施。これを受けて、黄巣の乱が発生。9世紀末唐王朝は滅亡。五代十国の戦乱期へ入った。日本もこれを受けて遣唐使を廃止している。
インドは、7世紀なかばにヴァルダナ朝が滅亡。ラージプートの戦乱の時代へ入っていった。
中東では、アッバース革命でイスラム帝国ことアッバース朝が成立。
ヨーロッパでは、フランク王国宰相カール=マルテルがイスラム勢力を撃退。ピピンの寄進があり、カールの戴冠につながる。
8世紀の諸島部 シャイレーンドラ朝の全盛期
8世紀の諸島部は、ジャワ島のシャイレーンドラ朝の全盛期である。
シャイレーンドラ朝は、ジャワ島中部の国である。大乗仏教を信仰。歴代の王は、ボロブドゥール寺院を建立した。
シャイレーンドラ朝の始まりは不明である。スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を起源とする説とジャワ島の豪族を起源とする説がある。
シャイレーンドラ朝は、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国と婚姻関係を締結。同盟関係を結んだ。
67年、唐王朝の支配下にあった北ベトナムへ侵攻。74年、中部ベトナムのチャンバーに侵攻。さらに、カンボジア(真臘)の宗主国になった。
8世紀の半島部
北ベトナム 唐王朝の支配
北ベトナムは、紀元前1世紀に漢の武帝が征服。以後、歴代中国王朝が支配した。唐王朝は、安南都護府をハノイに設置。北ベトナムを支配した。
67年、シャイレーンドラ朝(ジャワ島)の侵攻を受ける。
南ベトナムとカンボジア 真臘の分裂
カンボジアでは、7世紀にクメール人国家である真臘(しんろう)が存在した。この国は、ラージプート時代のインドの影響を受けていた。そのため、真臘ではヒンドゥー教が信仰されていた。
8世紀初頭、真臘は、北方(内陸部)の陸真臘と南(沿岸部)の水真臘に分裂した。
74年、ジャワ島のシャイレーンドラ朝が侵攻。802年、真臘は、シャイレーンドラ朝の支配下に入った。
一方、南ベトナムでは2世紀に成立したチャンパーがあった。9世紀に入ると、全盛期を迎える。
ミャンマー ビルマ人の侵入
8世紀以前のミャンマーは、北部のピュー人と南部のモン人が居住していた。先住民は、インドのグプタ朝、ヴァルダナ朝の影響を強く受けていた。彼らは、グプタ朝と同じ上座部仏教を侵攻していた。
7世紀にヴァルダナ朝が滅亡。8世紀になると中国雲南地方からビルマ人が侵入した。ビルマ人が11世紀に最初の王朝パガン朝を開く。
雲南地方 南詔が建国
雲南地方は、中国南西部のエリアをさす。北はチベットで南は東南アジアで、東南アジアに流れる川の大部分が雲南を源流としている。内陸部で、気候は東南アジアに近い。緑豊かな地域である。
38年に南詔が建国。51年、唐王朝とアッバース朝との間でタラス河畔の戦いが起こると南詔が急拡大した。唐王朝は南詔を警戒するようになる。これを受けて、52年に南詔は、チベット(吐藩)の冊封国になる。54年、唐王朝が南詔へ侵攻。南詔・吐藩連合軍で応戦。長安で安史の乱が起こり、唐王朝軍は徹p性した。93年、南詔と唐王朝は和解した。
南詔は、9世紀に全盛期を迎える。東南アジア各地に侵攻。
10世紀、南詔は内紛で滅亡。大理国が建国される。