2世紀のローマ帝国 五賢帝と東地中海

2世紀は、東西の2大帝国の全盛期である。ローマ帝国と漢王朝(後漢)である。バルカン半島やトルコ(小アジア)を含む東地中海世界はローマ帝国の属州となっていた。

五賢帝とは

 五賢帝とは、1世紀末から2世紀末の5人のローマ皇帝の時代である。この時代がローマの全盛期であり、比較的に平和な時代でもあった。

 ローマ人が支配した地域は属州と呼ばれ、ローマから総督が派遣された。その地域は1世紀にほぼ確定した。地中海の沿岸はすべてローマ帝国の属州となった。西欧はすべてローマ帝国の属州となり、ライン川が国境となった。東欧では、バルカン半島全域がローマ帝国領となりドナウ川が国境となった。また、中東はパルティアと東西で分割統治され、この国境でたびたびパルティアと戦争になった。また、北アフリカもローマ帝国領となった。

 皇帝制度は紀元前1世紀に成立した。五賢帝時代は、皇帝同士の血縁関係はなく、次の皇帝は前皇帝の養子になっていた。主に戦争で活躍した優秀な軍人が指名された。次の皇帝の指名は、もめることが多かったが五賢帝時代は話し合いで何とか解決していた。しかし、3世紀に入るとこの交渉が大いにもめ、軍人皇帝時代を迎えることになる。

 五賢帝は、ネルウァ帝の時代に始まる。トラヤヌス帝時代に最大領土を獲得した。ただ、ハドリアヌス帝の時代には広大な属州を守ることが限界であった。その後、政治家(元老院)出身のアントニヌス帝、軍人としても政治家としても評価の高いマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が皇帝についた。

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は、実子を皇帝につけた。しかし、次の皇帝が悪政を行い、国民の信を失い五賢帝の安定期は終焉した。

2世紀の世界

 2世紀、東にも巨大帝国が存在した。漢王朝(後漢)である。この時期、漢王朝とローマ帝国の交易でインド(クシャーナ朝、サータヴァーハナ朝)は大いに栄えた。とくに、南インドのサータヴァーハナ朝は、ローマ帝国の属州エジプトと季節風貿易を展開していた。

2世紀の東地中海 

 トラヤヌス帝の時代、ルーマニアを征服した。多くの戦争奴隷の売却で富を獲得。ローマの都市建設の資金とした。トラヤヌス広場はその時のものである。

 また、晩年にはイラクへ遠征。パルティアからイラク(クテンシフォン)を奪い、ペルシャ湾岸まで領土を拡張した。

 トラヤヌス帝が亡くなると、同じスペイン出身の軍人ハドリアヌス帝が即位した。ハドリアヌス帝は、平和外交に努めた。反乱が起きていたイラクをパルティアへ返却した。

 ハドリアヌス帝は、ローマ帝国のすべての属州を訪問した。そしてローマの属州に多くの都市を建設した。イングランドにはハドリアヌスの長城を建設した。特に、アテネの復興には多くの尽力を尽くした。

 ハドリアヌス帝は、イェルサルムの都市建設を進めた。このとき、ギリシャ神話の神殿を建設し第二次ユダヤ戦争が勃発した。ローマ帝国はこの反乱鎮圧に多くの犠牲を払った。

 ハドリアヌス帝は、敗戦などローマでの支持を失いつつあった。そのため、スペイン系の軍人に皇帝を譲り渡すことができず、南フランス出身の政治家

2世紀のキリスト教

 アントニヌス帝は、キリスト教保護令を出し国民の信を集めようとした。

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