カテゴリー
トルコ・ギリシャ史

6世紀の東ローマ帝国 ユスティアヌス帝の地中海統一

ユスティアヌス帝の死後の世界

アヴァール人の侵入

 アヴァール人は、アジア系の騎馬民族である。南北朝時代の中国をしばしば行っていた柔然と同じ部族であるという説があったが真偽は不明である。

 5世頃に南ロシアに現れ、6世紀に東欧に侵入した。アヴァール人は、バルカン半島の北西にあるパンノニア平原に拠点を置いた。ここは現在のハンガリーにあたる地域である。

ササン朝イランとの和平

 東ローマ帝国は地中海への侵攻を繰り返すとともに、ササン朝ペルシアとの国境紛争が絶えなかった。当時のササン朝ペルシアも全盛期であった。当時の皇帝はホスロー1世である。この間、2国間で何度も和平条約条約が締結されたが、それでも国境紛争は絶えなかった。

 ユスティアヌス帝が地中海へ侵攻を繰り返しているころ、ササン朝ペルシャは、東ローマ帝国のシリアへの侵攻を行った。40年、東ローマ帝国領シリアの都市アンティオキアを占領。多額の賠償金と多くの捕虜を東ローマ帝国から奪った。

 57年、ササン朝ペルシャは突厥とともに中央アジアのエフタルを滅ぼした。63年、ホスロー1世と50年にわたる和平条約を締結。

 ホスロー1世は、東ローマ帝国のインド交易の拠点イエメンを占領。これにより、東ローマ帝国は重要な収益源を失った。代わりにインド交易を握ったのがアラビア商人である。

ユスティアヌス帝の地中海再統一

ヴェネツィアとランゴバルド王国

 ランゴバルド族は、ゲルマン民族の一つである。東ゴート族と同じアリウス派を信仰していた。ランゴバルド族は、東ローマ帝国軍として、イタリアの東ゴート族と戦った。その結果、イタリア北東部に定住するようになった。この地域は今でもロンバルディア地方と呼ばれている。

 ユスティアヌス帝がなくなると、ランゴバルド族は東ローマ帝国から独立。ランゴバルド王国を建国した。イタリアは東ローマ帝国とランゴバルドで分割統治された。8世紀、ランゴバルド王国は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)をイタリアから撤退させた。

 ヴェネツィアが誕生したのもこのころである。イタリア西北部の先住民がランゴバルド族の侵攻から逃れるた島がヴェネツィアであった。ヴェネツィアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下で商業都市として発展した。ただ、ビザンツ帝国の衰退とともに自治権を拡大。

生き残ったゲルマン民族

 多くのゲルマン民族が、ユスティアヌス帝の侵攻を受けて滅亡した。しかし、存続した部族もあった。

西ゴート王国(スペイン)

 スペイン(イスパニア)の西ゴート族は、ユスティアヌス帝の侵攻を受けたものの存続することができた。しかし、スペインの南半分は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領になった。西ゴート族は、7世紀初頭に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を追放。スペインは再統一された。しかし、8世紀初頭、イスラム勢力の進行により滅亡した。

アングロサクソン族(イギリス)

 イギリスのアングロサクソン族もユスティアヌス帝の侵攻を免れた。このころ、アングロサクソン七王国時代である。アングロサクソン族はこの頃、キリスト教(ローマ=カトリック、ベネディクト派)に改宗している。しかし、11世紀半ばにノルマン人の支配下に入る。

フランク族(フランス、ドイツ)

 そして、現在でも残っているのがフランク王国である。フランク王国はフランス北部に定住していた。5世紀にキリスト教(ローマ=カトリック)に改宗。8世紀、イスラム勢力の侵攻を受けるも撃退。イタリアのランゴバルド王国を滅亡させ、大帝国を建国することになる。それが、現在のフランスとドイツである。

南部のゲルマン民族を一掃

 6世紀、ユスティアヌス帝によって多くのゲルマン民族が滅亡した。

東ゴート族(イタリア)

 東ゴート王国は、5世紀末オドアケルを暗殺して建国された。それを裏から支えていたのは、東ローマ帝国であった。拠点はラヴェンナである。

 ユスティアヌス帝は、34年にヴァンダル族を滅亡させると、イタリアの直接統治を模索した。ユスティアヌス帝はランゴバルド族を使って東ゴート族へ侵攻。イタリアは東ローマ帝国の属州となった。

ヴァンダル族(北アフリカ)

 ヴァンダル族は、北アフリカに拠点を置いていた。34年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)によって滅亡した。北アフリカは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の属州となったが、7世紀にイスラム勢力の支配下に入る。現在でも北アフリカはイスラム教を信仰している。

ユスティアヌス帝の功績

 ユスティアヌス帝は、領土拡張しただけでなく、政治面で数々の功績をのこした。

ローマ法大全

 ユスティアヌス帝は、支配機構を整備するために「ローマ法大全」を編纂した。「ローマ法大全」は、この後のヨーロッパ諸国の法体系の見本となった。特に19世紀初頭の「ナポレオン民法」も、「ローマ法大全」を手本とした。

 ユスティアヌス帝は、国内産業の保護を務めるとともに、東方から伝わった養蚕を奨励した。

アテネのアカメディアの閉鎖

 ユスティアヌス帝は、敬虔なキリスト教徒であった。異端とされたエジプトのコプト教会派やシリアの単性論者は厳しく取り締まった。また、ユダヤ人の迫害も行った。

 その一環として、アテネのアカメディアが閉鎖された。アカメディアは紀元前4世紀のギリシャに建設された学園である。プラトンが開設した。アカメディアが閉鎖されると多くの学者がササン朝へ流れた。

ハギアソフィア大聖堂の建設

 ユスティアヌス帝のキリスト教の敬虔さは、建造物にもあらわれた。コンスタンチノーブルではハギア=ソフィア大聖堂を再建した。ハギア=ソフィア大聖堂は、ビザンツ様式の代表的な建築物となった。

 また、イタリアのラヴェンナにはサン=ヴェターレ聖堂も建築された。

ブルガリア人

 ブルガリア人は、中央アジアで生活していた騎馬民族である。6世紀、トルコ系騎馬民族が中央アジアに大帝国突厥を築くと、ブルガリア人はバルカン半島へ移住した。

突厥(トルコ民族)

 このころのトルコ民族はどうなっていたのだろうか。トルコ民族は6世紀半ば、中央アジアに突厥という国を建国。魏晋南北朝の混乱期の中国の北、モンゴルまで領土を広げた。

 突厥は、ササン朝ペルシャと結び、中央アジアのエフタルを滅ぼした。

 6世紀後半、突厥は東西に分裂。東突厥は隋王朝(中国)に服従。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です