前回の復習 1820年代のフランス
1820年代のフランスは、復古王政の時代である。ルイ18世の時代はフランス革命の理念を尊重していた。しかし、シャルル10世が即位すると、貴族を優遇した政治がおこなれた。これにより、七月革命が起こる。
1810年代の国際情勢
日本は、江戸時代後期。化政文化の時代。江戸は好景気を迎えた。
中国は、清王朝の時代。アジア三角貿易で、アヘンが問題になっていた。イギリス使節のアマーストが
ナポレオン戦争
ロシア、大陸封鎖令を破棄
ナポレオンは、イギリスに対して経済制裁を行った。これが大陸封鎖令である。
10年、ロシアは大陸封鎖令を破棄。イギリスと密貿易を開始した。
12年5月、ナポレオンは、ロシア遠征を実施した。
ロシア遠征の失敗
12年5月、ナポレオンは、ロシア遠征を開始。
12月、ナポレオンは、冬将軍に敗北。
復古王政では、立憲君主制が採用され、ナポレオン時代の政策が継承された。所有権の不可侵や法の下の平等、出版の自由が保証された。議会は二院制で、世襲議員による貴族院と七月王政でも存続された制限選挙による衆議院で構成された。
復古王政で政治の中心は、フランス革命で権利を失った貴族たちであった。貴族たちは、保守的な政策を行い、旧共和派や旧ナポレオン派の粛清を行った。
第4回対仏大同盟
12年12月、ナポレオン皇帝がロシア遠征で失敗。
13年3月、イギリス・オーストリア・ロシアを中心に第4回対仏大同盟が結成された。
ライプツィヒの戦い
13年10月、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)。ナポレオン皇帝は、対仏大同盟軍に敗北した。
フランス側には、フランス軍とライン同盟軍が参戦した。対仏大同盟側には、イギリス、プロイセン、オーストリアとスウェーデンが参戦した。
翌14年、対仏大同盟軍は、パリに入城した。
ウィーン会議と百日天下
ナポレオン、エルバ島に流刑
14年4月、ナポレオン退位。
5月、ナポレオンは、エルバ島に流刑。亡命中のルイ18世がフランスに帰国。国王に即位する。(復古王政)
ウィーン会議
14年9月、オーストリアの宰相メッテルニヒがナポレオン戦争の講和会議を招集した。ウィーン会議である。各国の代表は以下の通りである。
この会議で、タレーランが提唱したのが正統主義である。これは、国際関係をフランス革命以前に戻すというものであった。
百日天下
15年2月、ナポレオンがエルバ島を脱出。皇帝に復位した。
フランスはエジプトを、ロシアはオスマン帝国をそれぞれ支援した。しかし、イギリスは、フランスの巨大化を恐れて、オスマン帝国の支援に回った。
緒戦は、オスマン皇帝が戦死する大敗する。それを受けて、ロシアは外交戦に展開した。ロシアは、旧五国同盟のプロイセンとオーストリアに、オスマン帝国支援に回った。
フランスは、孤立化を恐れエジプトの支援をやめた。
ワーテルローの戦い
15年6月、ワーテルローの戦いに敗北。ナポレオンは退位。
ワーテルローは、ベルギー郊外である。この戦いには、イングランドとプロイセンが戦った。
翌7月、対仏大同盟軍がパリに入城。ルイ18世が復位した。
その後のナポレオン
7月、ナポレオンは、友好国のアメリカに亡命するも失敗。
10月、ナポレオン3世は、南大西洋の孤島セントヘレナ島に流刑。21年5月、51歳のナポレオンは、流刑先のセントヘレナ島でなくなった。
ウィーン体制
領土の推移
15年6月、ワーテルローの戦いで、ナポレオンが敗北。このときに、ウィーン議定書が締結された。内容は以下の通りである。
- フランス、スペイン、ナポリ王国とポルトガルは旧君主が復位する。
- フランスの国土は、1792年(オーストリアに宣戦布告した年)当時のものとする。
- ロシアは、フィンランド(北欧)とベッサラビア(東欧・黒海沿岸)を獲得。ポーランド王を兼務。ポーランドは、ナポレオンによってワルシャワ大公国が成立していた。
- プロイセンは、ザクセンの北半分とドイツ西部のラインラント(飛び地)を獲得した。
- オーストリアは、ポーランドとベルギー(南ネーデルラント)を放棄。代わりに北イタリア(ヴェネツィア、ロンバルディア)を獲得した。
- ドイツは、ナポレオン設立したライン同盟を解体。ドイツ連邦を形成した。神聖ローマ帝国は復活しなかった。フランクフルトに議会を設置。議長国はオーストリアとした。
- イギリスは、オランダにジャワ島を返還する代わりに、スリランカと南アフリカを獲得した。また、東地中海のマルタ島とイオニア諸島を獲得した。
- スイスは永世中立国になった。
- スウェーデンは、ロシアにフィンランドを、プロイセンに一部領土を割譲。かわりに、デンマークからノルウェーを獲得した。
- オランダは、王国が復活。ベルギー(南ネーデルラント)を獲得した。
神聖同盟
ロシアのアレクサンドル1世の提唱で神聖同盟が結成された。これは、国際連合の19世紀前半ヨーロッパ版と言えるものである。第2のナポレオンに備えて結成されたものである。ヨーロッパの主要国はすべて参加したが、3カ国が参加しなかった。
イギリス、ローマ教皇国とオスマン帝国である。
しかし、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で足並みが揃わず、実際は機能しなかった。
四国同盟
イギリスは、ロシアに対抗して、四国同盟を結成した。これは、国際連合の常任理事国のようなものである。参加国は、イギリス、ロシア、オーストリアとプロイセンで構成された。
18年にフランスが参加し、五国同盟になる。
しかし、22年、スペイン立憲革命の対応で、イギリスが離脱。これにより、四国同盟は解体した。