1820年代のフランス 七月王政とエジプト=トルコ戦争

前回の復習 1830年代のフランス

 1830年の七月革命で、七月王政成立。富裕層を中心とした王政で、これによってフランスの産業革命が始まった。

 今回は、七月王政の前の反動政治を見ていきます。

1830年代の国際情勢

 日本は、江戸時代後期。化政文化が花開いた時代である。

 中国は、清王朝の時代。アジア三角貿易で、アヘンが問題になっていた。

革命の半世紀

 19世紀後半のヨーロッパは、革命の世紀である。18世紀末にフランス革命が起きたあとも、フランスでは革命が続いた。その革命は、ヨーロッパに波及した。フランス革命から第二帝政までの流れは、次のとおりである。

  • 1789年 フランス革命が勃発。
  • 1799年 ナポレオンが実権を握り、フランス革命が終結
  • 1804年 ナポレオン戴冠式。第一帝政へ
  • 1815年 ウィーン体制で、復興王政へ
  • 1820年 スペイン立憲革命
  • 1830年 フランス七月革命、七月王政へ
  • 1848年 フランス二月革命、第二共和政へ
  • 1852年 フランス、第二帝政へ

反動王政

ウィーン体制

 15年、ウィーン議定書でブルボン王朝が復活。ルイ18世が即位した。

 18年、イギリス、ロシア、プロイセンとオーストリアの四国同盟に参加。五国同盟になる。

ルイ18世

 ルイ18世は、フランス革命で処刑されたルイ16世の弟である。フランス革命・ナポレオン戦争期は亡命生活でヨーロッパ各国と転々としていた。

 ウィーン体制で、フランス国王に就任した。

 復古王政では、立憲君主制が採用され、ナポレオン時代の政策が継承された。所有権の不可侵や法の下の平等、出版の自由が保証された。議会は二院制で、世襲議員による貴族院と七月王政でも存続された制限選挙による衆議院で構成された。

 復古王政で政治の中心は、フランス革命で権利を失った貴族たちであった。貴族たちは、保守的な政策を行い、旧共和派や旧ナポレオン派の粛清を行った。

シャルル10世 フランス革命の復讐

 24年、ルイ14世が死去。弟のシャルル10世が即位した。シャルル10世は、フランス革命期に貴族とともに亡命生活をしていた。復古王政が始まると、貴族の中心的な存在になっていた。

 24年、王党派貴族の指示で国王に就任した。シャルル10世は、立憲君主制から絶対王政へ移行しようとした。また、棒め貴族の財産の保証を行った。そのため、聖職者や貴族の支持を集めた。一方で、フランス革命で地位を向上させた富裕層(ブルジョワ)などから反感を買っていた。

 30年、シャルル10世は、富裕層の反感を薄めようとアルジェリア出兵を実施。しかし、これにより、国防軍が減り、七月革命につながる。

フランスの戦争

スペイン立憲革命

 20年1月、スペインで立憲革命が発生。

 ルイ14世は、同じブルボン家のスペイン王室(スペイン=ブルボン家)を守るために、五国同盟に出兵を求めた。

 22年、五国同盟の定例会議でスペイン立憲革命へ援軍派遣を協議。イギリスの強い反発で決裂した。ルイ14世は、フランスの単独出兵を実施。これにより、スペイン立憲革命は弾圧された。このことにイギリスは反発した。イギリスは、五国同盟から離脱。五国同盟は事実上崩壊した。

 このスペインの混乱期に、スペインの植民地であったラテンアメリカ諸国が次々独立した。イギリスは、この独立運動を支援。アメリカも、モンロー教書を出して支持を表明した。

ギリシャ独立戦争

 スペイン立憲革命の最中の21年3月、ギリシャ独立戦争が始まった。オスマン帝国領ギリシャのオスマン帝国に対する独立運動である。

 オーストリアは、これに反発。神聖同盟を使って弾圧しようとした。オーストリアは、オスマン帝国と同様にバルカン半島の週数民族を支配している。オスマン帝国の独立運動が時刻に波及することを恐れた。神聖同盟の多くの国がこれに反発し、実現しなかった。

 ロシアが、ギリシャ支援に回った。名目的には、ロシアとギリシャが同じ東方正教会を進行していたからである。実質的な目的は、南下政策(地中海進出)である。地中海沿岸のギリシャにロシアの拠点を作ろうとした。

 27年、フランス(シャルル10世)とイギリスが東地中海への進出を目的に、ギリシャ支援に回った。英仏露連合海軍とオスマン帝国海軍による海戦(ナヴァリノ海戦)が行われた。このとき、イギリスは、蒸気船を投入。英仏連合海軍が勝利。これにより、ギリシャ独立戦争の勝敗も明確になった。

 29年、オスマン帝国は、ロシアと講和。

アルジェリア出兵

 39年6月、シリア奪還のためにオスマン帝国はエジプトへ侵攻した。

 フランスはエジプトを、ロシアはオスマン帝国をそれぞれ支援した。しかし、イギリスは、フランスの巨大化を恐れて、オスマン帝国の支援に回った。

 緒戦は、オスマン皇帝が戦死する大敗する。それを受けて、ロシアは外交戦に展開した。ロシアは、旧五国同盟のプロイセンとオーストリアに、オスマン帝国支援に回った。

 フランスは、孤立化を恐れエジプトの支援をやめた。

ロンドン会議

 27年、英仏露連合海軍がナヴァリノ海戦に勝利すると、ロンドン会議が開催された。

 30年、オスマン帝国は、ギリシャの独立を承認。

 31年、オランダが、ベルギーの独立を承認した。