17世紀前半の日本 徳川家康が江戸幕府を開く

前回の復習 17世紀後半の日本

 江戸時代は、17世紀初頭から19世紀半ばまでの時代である。17世紀後半は、犬将軍こと徳川綱吉の時代である。文治政治が始まる。儒教や仏教が重視され、戦国時代のような殺伐とした雰囲気は薄れ、平和な江戸時代の雰囲気はこの時期に生成された。

17世紀前半の国際情勢

 中国では、明清交代の時代。明王朝が滅亡した。

 ヨーロッパでは、全ヨーロッパ巻き込んだドイツ三十年戦争が展開されている。

流れ)武断政治

関ヶ原の戦い

 98年、天下人豊臣秀吉が死去。幼い関白である豊臣秀次を残していた。秀次を守るため、五大老五奉行制度を設けた。五大老は、徳川家康ら有力大名たち。関東の徳川家康、加賀(金沢)の前田利家、越後(新潟)の上杉景勝(上杉謙信の養子)、中国の毛利輝元、宇喜多秀家(毛利元就の息子)である。豊臣家を脅かすとしたら、この五家と予測された。五奉行は、石田三成ら豊臣側近の文官たちであった。

 99年、五大老の1人、前田利家が死去。五大老の権力闘争が激化する。

 1600年、徳川家康が五大老の1人上杉家の討伐に向かうと、五奉行の一人、石田三成が五大老の1人と毛利輝元を立てて挙兵した。そこで始まったのが関ヶ原の戦いである。

 当時は、どちらが勝つかが予測できなかった。そのため、多くの戦国武将がどちらにつくか決断を迫られた。家康も三成も互いの陣営に裏切るようにお手紙作戦を繰り返した。5月、関ヶ原で両軍が激突した。しかし、多くの武将は、戦局を見守った。小早川秀秋が、西軍から東軍へ寝返ると、東軍優勢の状況が成立。わずか半日で、東軍が勝利した。

 東軍の徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利。西軍の総大将であった毛利氏や五大老の1人上杉氏の発言力が著しく低下。徳川家康の世が成立した。

江戸幕府の成立

 03年、朝廷は、室町幕府滅亡後、空位であった征夷大将軍に徳川家康をつけた。江戸幕府の成立である。

 05年、家康は将軍の地位を秀忠に引き継ぐ。これにより、将軍職は徳川家が世襲することを示した。徳川家康は、駿府に転居。大御所として政治に関与した。

大阪冬の陣、夏の陣

 14年、大坂冬の陣。方広寺鐘銘事件をきっかけに、江戸幕府は豊臣討伐を全国の大名に指示した。これが大阪冬の陣である。徳川家康は、イングランドのエリザベス女王からもらった大砲を使用。武士は、この兵器に驚いた。豊臣家もこの大砲の威力を知り、一旦講和した。

 15年、大坂夏の陣が発生。豊臣秀次が、牢人を集めて反乱を起こそうという噂が立つ。牢人とは、失業した武士のことである。関ヶ原の戦いで西軍につき改易された人々がその大部分であった。四国の長宗我部家や、信州の真田家(真田幸村)らがその一例である。

 この大阪夏の陣は、徳川家が勝利。豊臣家は滅亡した。豊臣家が治めていた大阪は、幕府の直轄地とした。

 将軍秀忠は、元号と慶長(けいちょう)から元和(げんな)に改元。武家諸法度(元和令)や禁中並びに公家諸法度などの法整備が進められた。

 16年、徳川家康が死去。

 19年、将軍秀忠が上京。広島の福島正則を武家諸法度違反で改易(お家取り潰し)にした。また、大阪に大坂町奉行と大阪城代を設置した。

 広島は、戦国時代末期、毛利家の所領であった。毛利家は、関ヶ原の戦いで減封。広島を没収された。その地に入ったのが関ヶ原の戦いで功績を上げた福島家である。福島正則は、豊臣恩顧の武将で軍事面で評価されていた。19年に改易されると、その地には浅野家が入った。浅野家は、五奉行の1人で司法を担当。文官として台頭した。関ヶ原の戦いでは、東軍についた。これにより、紀伊の所領を得る。福島家の改易で、紀伊から広島への転封になった。ちなみに、赤穂事件の浅野内匠頭は、この浅野家の分家である。

 23年、将軍秀忠は、家光に将軍職を譲り、大御所になる。翌24年、元和から寛永に改元を行う。

島原の乱

 29年、紫衣事件で多くの公家が処罰される。

 30年、寛永の大飢饉が起こる。

 31年、大御所秀忠死去。家光の親政が始まる。

 32年、熊本藩の加藤家を改易。

 加藤家は、豊臣恩顧の加藤清正を藩祖とする家である。豊臣秀吉の九州平定時に熊本(肥後)を拝領する。その後、熊本城を築城する。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、小西行長の領地であった熊本(肥後)南部を獲得した。

 加藤家改易後は、小倉藩(福岡県北九州市)の細川家が移封された。この細川家は、三管領の1つの細川家に養子に入った家である。室町幕府の奉公衆で台頭した。

 35年、武家諸法度を改定(寛永令)。参院交代が導入される。

 37年、島原の乱がおこる。島原は、もともとキリシタン大名が統治していた。しかし、その大名が改易。新しいお殿様を迎える。新しい殿様は、増税を実施。これが島原の乱につながる。幕府は、オランダの支援を受け、この反乱を鎮圧した。

由比正雪の乱

 40年、寛永の大飢饉が発生。これはヨーロッパにも影響を与えた。イギリスのピューリタン革命やフランスのブロンドの乱につながった。

 50年、庶民の間でお陰参りが流行。

 翌51年、将軍家光が死去。牢人(失業した武士)による倒幕計画が発覚した。これが由比正雪の乱である。

政治

幕藩体制

大名とは、

 江戸幕府は、幕府と藩の連立武家政権である。藩とは大名が統治した領地である。ちなみに藩という言葉は、明治時代から使われ始め、大名は、江戸幕府から直接1万石以上の領地を与えられた武士である。江戸時代の大名は、3種類に分けられる。外様大名、譜代大名と譜代である。

 外様大名は、関ヶ原以後に以後に徳川家の家臣になった大名である。主に2種類いて、前田、毛利、上杉、島津などの元戦国大名と福島、加藤、浅野などの豊臣秀吉によって大名になった人々で構成される。江戸や京都から遠くに配置された。ただ、戦国時代から有力者なので、石高の大きい大名が多い。

 この時期、関東の有力大名は、すべて移封になったいる。越後(新潟)の上杉家は東北の米沢藩に、常陸(茨城)の佐竹家は、秋田に移封になっている。また、徳川家から養子を受けた結城家は、越前(福井)に移封。改姓して越前松平家を開いた。

 余談だが、佐竹家は茨城の美女を秋田に連れ去ったから秋田美人が多いと言われている。

 譜代大名は、関ヶ原以前からの徳川家の家臣だった家臣である。一番信頼できる関心である。石高は小さいが、関東(江戸)や近畿(京都・大坂)近郊などの要所に置かれた。江戸幕府の要職も譜代大名が担った。

 親藩は、将軍の分家である。その筆頭は、徳川家康の息子を藩祖とする御三家である。

 ちなみに、1石は当時の成人男性が1年間に食べるコメの量である。

幕府と大名の関係

 大名と将軍の関係は、御恩と奉公で結ばれている。御恩は、将軍が大名に領地を保証することである。

 奉公は、軍役である。小田原征伐や大阪冬の陣や夏の陣への参戦がその例である。

 しかし、江戸時代には戦争はない。その代わりにおこなわれたのがお手伝い普請である。江戸城の建築は、大名たちによって作られた。

武家諸法度

 15年、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡。ここから大名統制を本格化した。

 15年、一国一城令を出した。大名は、原則として本城以外の城の破壊を命じた。これは、大名の反乱を防止し、戦国時代への逆戻りを防止した。

 同15年、武家諸法度が出された。これは大名が守るべきルールを示したものである。豊臣秀吉時代に行われたものを継承した。

 大名同士の同盟を防止するため、結婚や養子は幕府の許可制にした。このため、大名の急死によるお家取り潰し(改易)が急増した。また、城の修繕も幕府の許可制にした。

 翌16年、大御所家康が死去。

 19年5月、秀忠が上京。翌6月、広島藩の福島家を武家諸法度違反(幕府の許可なき城の修繕の実施)により、改易。

参勤交代

 23年、秀忠は、将軍職を家光に相続。大御所になる。32年2月、大御所秀忠が死去。江戸幕府の課題は、将軍家光の権威付けが課題になった。

 35年、武家諸法度を改定した。これは、寛永令と言われる。ここで制定されたのが参勤交代制度である。江戸に子女を人質として住まわせ、大名は1年毎に江戸と領地を軍事パレードで往復することとされていた。

 参勤交代によって、各藩は大きな財政負担を追うことになった。しかし、参勤交代の目的はそこにはない。本来は、大名が謀反を起こさない用意に領地に常駐させず、領地と江戸を往復させることにあった。戦国時代は、応仁の乱で在京守護大名が領地に戻れなかったことで、領地にいた守護代が戦国大名になった。そのため、家臣が下剋上をしないように、定期的に領国で統治させるようにする一方で、定期的に江戸で将軍に拝謁させた。

江戸幕府(中央)

 江戸幕府の組織は、最初から存在したわけではない。最初に背率下の老中制度である。成立当初の江戸幕府の政策は、戦国時代と変わらず、譜代大名になった徳川家の有力家臣団の合議によって決められた。これが、老中の始まりである。

 32年、家光の将軍後継問題が発生。これにより、大老職が置かれるようになった。最初の大老は、譜代大名筆頭の彦根藩の井伊家から出された。

 33年、老中の補佐として、六人衆が設置された。主に、旗本・御家人の統制を担った。49年、六人衆は老中に統合された。62年の家綱の時代に、若年寄を設置した。

 35年、寺社奉行を設置。寺請制と本山末寺制度で寺社管理の重要性が高まっていた。その関係で、将軍直下の寺社奉行が設置した。

江戸幕府(地方)

京都所司代

 地方機関の筆頭は、京都所司代である。京都所司代は、朝廷の管理だけでなく、西国大名の監視や京都周辺8カ国の訴訟を担当した。

 00年に、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利すると、西軍の反乱をふせぐために、京都所司代が設置された。

遠国奉行

 遠国奉行は、幕府直轄地の重要拠点に置かれた。城代と町奉行(奉行)で構成された。遠国奉行は、老中の下に置かれ、旗も元が就任した。。しかし、西国の前線基地である大坂城代のみ将軍直下とし、将軍直下の組織とされた。

 城代は、将軍家が保有する城を将軍の代わりに警護する役職である。

 最初に置かれたのは、京都郊外の伏見城である。関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた畿内の唯一の徳川家の拠点である。大阪冬の陣・夏の陣でも前線基地になった。

 次に拠点になったのが、かつての豊臣家の居城である。大阪城である。15年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、19年から幕府の管理下に置かれ、城代が置かれた。これにより、関西の拠点は大阪城になり、伏見城は廃城になった。

 同19年、駿府城代も置かれた。駿府は、徳川家康が大御所として拠点にしていた。15年に大御所家康が亡くなると、城代が置かれた。

 25年、京都の二条城にも、京都所司代から分離して城代が置かれた。二条城は、織田家や豊臣家など、天下人は二条城を建造していたが、現在も存続しているのは徳川家のもののみである。

 遠国奉行は、幕府の経済的拠点に置かれた。最初に置かれたのは、以下の四箇所である。

  • 堺 日本最大の商業都市。のちに大阪町奉行に統合される。
  • 山田(伊勢) 伊勢神宮前の門前町
  • 佐渡 日本最大の金山
  • 長崎 貿易都市

 その後、京都所司代から、奈良奉行などが分離したが、関西は、大坂町奉行と京都町奉行に統合された。

将軍と大御所

大御所政治

 徳川家康は、03年に将軍を受ける。しかし、05年に将軍職を秀忠に譲った。将軍は、徳川家が代々世襲することを世に示した。さらに、表舞台の仕事を秀忠に任せ、戦略を担うこと担った。

 秀忠も同様に、大御所政治を行った。

将軍の子どもたち

 家康は、多くの子どもを授かった。しかし、江戸時代まで生き残ったのは、5人である。

 次男は、秀吉の養子になる。その後、常陸(茨城)の結城家の容姿になる。江戸幕府が成立すると、越前へ移封。越前松平家になる。越前松平家は江戸時代まで続く。

 三男は、将軍宗家になる秀忠である。

 九男〜十一男は、徳川御三家を開いた。(後述)

 秀忠は、浅井三姉妹の江姫と結婚。2人の跡取りを生まれた。家光と忠長である。家光は、将軍家を相続。忠長は駿河徳川家を開いた。しかし、家光の時代に、忠長は改易。駿河徳川家を1代で断絶した。

 秀忠には、隠し子が存在した。それが、保科正之である。家光の時代に会津藩主になり、家光の代わりに4代将軍家綱の後見役になった。

 三代将軍家光は、子宝に恵まれなかった。そのため、大奥が設置された。晩年になり、5人の男子が生まれ、うち、3人が成人した。長男は、家綱として将軍を相続。弟2人は、甲府徳川家(山梨県)と館林徳川家(群馬県)を開いた。5代将軍は、館林徳川家の綱吉が就任。6代将軍には、甲府徳川家の家宣が就任。両家は、将軍家相続に伴い断絶した。

徳川御三家

 秀忠の弟たちは、それぞれ家を立てた。これが徳川御三家である。将軍家が断絶した場合は、この家から将軍を出すことになっている。8代将軍吉宗は、紀伊徳川家からだされた。

 御三家筆頭は、尾張徳川家である。9男義直が開いた。尾張(名古屋)は、織田信長の出身地。豊臣政権期には、権威付けに使われた。豊臣秀次(秀吉の甥で元関白)や福島正則が治めた。関ヶ原の戦いで、福島正則が加増に伴い、広島へ転封。跡地に入ったのは、義直の兄(秀忠の弟)の忠吉が就任。ただ、忠吉の家が断絶。代わりに入ったのが義直であった。

 義直は、当初、武田家の旧領である甲府(山梨)に入った。信直が尾張藩へ転封になると、甲府はその後、家光の弟の忠長や家綱の弟が治めた。

 紀州徳川家は、10男頼信が開いた。紀州(和歌山県)は、雑賀衆と呼ばれる国人や寺社勢力が強い地域である。そのため、統治が難しい地域である。豊臣政権の時代には、秀吉の弟である秀長が統治した。ちなみに秀長は26年大河ドラマ豊臣兄弟の主人公である。関ケ原の戦いが終わると、五奉行の一人、浅野家が統治した。19年、福島家が改易。これに伴い、浅野家が広島へ転封。浅野家の後を次ぐ形で、紀州徳川家が開かれた。

 頼宣は、当初、水戸藩主になる予定であった。しかし、浅野家が広島へ転封したのに伴い、紀伊藩主になった。

 水戸徳川家は、11男頼房が開いた。その役割は、2つある。1つは、佐竹家・結城家の旧領の統治。もう一つは、東北諸藩のに対する防衛である。水戸藩主は、当初、頼宣が付く予定であった。しかし、頼宣が紀伊藩主になったことに伴い、頼房が水戸藩主になった。

 水戸藩主は、現地に赴かず江戸に在府していた。そのため、副将軍と呼ばれた。

大奥

 大奥は、将軍の妻子の住まいを指す言葉である。将軍が公務を行う部屋を「表向き」。将軍が執務を行ったり、プライベートを過ごす空間を「中奥」と言われた。

 家光が子宝に恵まれなかったことから、女性を集めだした。その中心人物が、「春日局」である。

朝廷

戦国時代の京都

 15世紀なかばの応仁の乱で、京都は荒廃した。そのため、公家は困窮した。そのため、公家は戦国大名向けに2つのビジネスを開始した。1つは、礼儀作法の家庭教師である。もう一つは、官位の販売であった。

 その代表格は、豊臣秀吉である。豊臣秀吉は、五摂家の一つの近衛家の養子になり、関白に就任。天皇の命令として惣無事令を出し、全国の戦国大名を従わせた。

 そのため、幕府は朝廷が外様大名と結びつかないように警戒した。ちなみに、幕末の舞台は、江戸では京都になった。倒幕派の長州と薩摩が革新派の公家と結びついた。

京都所司代(監視役)

 最初に設置されたのは、京都所司代である。これは鎌倉幕府の六波羅探題に習ったものである。安土桃山時代に織田信長が設置。徳川家康もこれを継承した。

 京都所司代は、朝廷の監視の他に、豊臣家などの歳国大名の監視。畿内の統治を行った。関西の役職は変遷したが、以下のようにまとまった。

  • 大阪城代、二条城城代
  • 大阪町奉行、京都町奉行(都市の管理)
  • 京都代官(皇室領・公家領と京都周辺の幕府領の管理)

禁中並公家諸法度(法律)

 次に行われたのは、法律の設定である。15年に豊臣家が滅亡。皇室や公家に対して、禁中並公家諸法度が出された。内容は以下の通りである。

  • 天皇は、学問を第一とすべし(1条)
  • 大臣(三公)、摂政、関白は、五摂家に限定される。
  • 官位、改元などは、朝廷の重要な行為は、幕府の承認を必要とされた。

 09年、公家のスキャンダル事件(猪熊事件)が発生。これを受けて、11年に、後陽成天皇が大尉。後水尾天皇が即位した。これを起草したのは金地院崇伝である。

武家伝奏

 武家伝奏は、室町時代からある朝廷の役職である。江戸時代になって、その役割は高まった。これは、禁中並公家諸法度でも、その役割の重要性が記載されている。

 15年、禁中並公家諸法度に基づいて、慶長から元和に改元した。

 20年、秀忠の娘を後水尾天皇に入内させた。23年、家光に将軍宣下。24年、元和から寛永の改元した。

紫衣事件

 紫衣とは、天皇が認めた僧侶しか切れない衣である。

 しかし、戦国時代は紫衣の許可が乱発されたため、その権威が低下していた。これを受けて、禁中並公家諸法度では、紫衣を授与するには幕府の承認を必要としていた。

 27年、後水尾天皇は、幕府の承諾を得ず、慣例に従って高僧に紫衣を許可した。将軍家光は、これを禁中並公家諸法度違反として無効にした。これに対して、高僧が幕府に抗議。

 29年、大徳寺の沢庵僧侶などが流刑に処せられた。さらに、後水尾天皇は譲位。秀忠の孫で後水尾天皇の次女が明正天皇が即位した。

 32年、大御所秀忠が死去。将軍家光の親政が始まる。

外交)朱印船貿易

江戸時代の外交政策の変遷

戦国時代の貿易

 戦国時代は、大航海時代と同時期に当たる。ポルトガルやスペインなどの南蛮貿易が始まった頃である。

 東アジアでは、明王朝の末期で貿易を統制する力はなかった。また、日本も戦国時代で海外の海賊を取り締まる余力はなかった。そこに台頭してきた南シナ海の海賊たちは、(後期)倭寇と呼ばれた。この自由貿易のなかで東南アジアの国々が台頭してきた。その1つがタイのアユタヤ朝である。

 16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮出兵を実施。日本と中国(明王朝)、日本と朝鮮(李朝)は戦争状態担った。そのため、直接取引はできず、東南アジアなどの仲介国を利用して交易を行うようになった。

江戸幕府の貿易顧問

 関ヶ原の戦いのあった00年、大分(豊後)でオランダ船が漂着した。この船に乗っていたのが、オランダ人のヤン=ヨーステンとイングランド人のウィリアム=アダムスであった。2人は、徳川家康の外交顧問として江戸に入った。

 主な業務は、スペインとの交渉であった。当時のスペインは、西洋一の大国で、アメリカやフィリピンを植民地にしていた。豊臣秀吉や徳川家康はそれを警戒していた。一方で、スペインは優れた鉱山技術を持っていた。それはほしかった。

 当時は、オランダ独立戦争の真っ只中であった。オランダは、スペインの代わりに鉱山技術と貿易を提供。スペインを排除することに成功した。

朱印船貿易

 03年、徳川家康が将軍宣下を受け、江戸幕府を開く。翌04年、貿易に規制をかけた。それが朱印船貿易である。同04年、糸割符制度を導入。中国産生糸を輸入できる商人を5名に限定した。

 09年、西国大名の大船を没収した。これにより、西国大名は、軍艦を持てなくなったほか、海外との交易もできなくなった。

 朱印状を持った商人のみにしか海外渡航を認めなかった。表向きの理由は、後期倭寇との区別をするためであったが、実際は、江戸幕府が貿易を独占するためであった。この朱印状は、関西や博多・長崎などの西国の商人に与えられた。

 この中には、どうする家康(23年大河ドラマ)にも登場した京都商人の茶屋四郎次郎も含まれていた。長崎の末次平蔵、摂津(大阪西部)の末吉孫左衛門、京都の角倉了以もいた。

 江戸幕府の初期の貿易政策は3つである。

  • 貿易利益の独占(室町幕府の勘合貿易のように)
     →西国の外様大名から貿易利権をうばう。
  • キリスト教の規制(12年の禁教令)
  • 海賊対策(後期倭寇)

 当時のアジアでの交易規模は、大きくトップのポルトガルに匹敵するほどであった。日本の優位性は、石見銀山など銀の保有量にあった。日本は大量の日本産銀を輸出し、中国産生糸を輸入していた。

奉書船と鎖国政策

 15年、豊臣氏が滅亡。

 16年、中国船以外の外国船の寄港地を長崎奉行の管理下の長崎と平戸に限定した。

 23年、秀忠が家光に将軍職を譲る

 その前年22年、元和の大殉教を実施。23年、アンボイナ事件でイングランドが撤退。翌24年、スペイン船の来航を禁止した。

 30年、漢訳洋書の輸入を禁止した。

 31年、大御所の秀忠が死去。家光の親政が始まる。

 33年、海外渡航に、朱印状の他に老中発行の奉書が必要になった。(奉書船貿易)。

 35年、日本人の海外渡航・帰国を禁止。

 明王朝の国交回復交渉が失敗。民間の中国船の寄港地も長崎に限定した。

島原の乱

 37年、島原の乱が発生した。38年に鎮圧された。

 島原の乱は、宗教反乱であるが、その原因は重税にあった。

 島原は、キリシタン大名の有馬氏が統治していた。しかし、有馬家が転封。新しい殿様を迎えることになった。

 30年、寛永の飢饉が発生。新しい殿様は飢饉による減収を重税で賄おうとした。32年、熊本(肥後)の加藤家が改易。

 重税に苦しむ百姓と加藤家や有馬家の元家臣が結びつきおきたのが島原の乱である。

 幕府は、西国の大名に命令し、鎮圧に向かわせた。原城の籠城戦では、オランダの軍艦による砲撃も行われた。

鎖国の完成

 39年、ポルトガル船の来航禁止。ちなみに、40年にスペインのポルトガル併合が終わる。

 41年、平戸のオランダ商館を、長崎の出島に移す。これで鎖国が完成する。

各国との外交

スペイン

 スペインは、ポルトガルと同君連合になり、西洋一の大国なり、ポルトガルの植民地も利用できるようになり、アジアからアメリカ大陸まで世界各地に拠点を持つ海洋国家になった。

 豊臣政権期の96年、スペイン船が高知県(土佐)に漂着。積荷を没収した。さらに、翌97年、スペイン人宣教師26名を磔(はりつけ)にし処刑した。余談だが、キリスト教においては、重罪は身体がなくなる火炙り刑が行われた。磔は、イエス=キリストと同じ処刑方法のため、名誉な処刑方法であった。当時の日本で言う切腹に相当する死刑の方法であった。そのため、江戸時代初期の日本とスペインは、国交が断絶していた。

 09年、スペイン領フィリピンの元総督が千葉県(上総)に漂着。翌10年、大御所の家康は、京都の豪商である田中勝介をスペイン領メキシコに派遣。スペインとの国交を回復した。

 13年、仙台藩主伊達政宗が、支倉常長をスペイン本国に派遣。20年に帰国したが、直接貿易には至らなかった。

 22年、元和の大殉教を実施。24年、スペイン船の渡航が禁止される。

オランダ

 スペイン・ポルトガルの人々は、南蛮人と呼ばれた。これに対し、イングランド・オランダの人々は、紅毛人と呼ばれた。

 イングランドのエリザベス女王は、徳川家康に大砲を献上した。

 06年にオランダ商館が、09年にイングランド商館が長崎の平戸に建設され、両国との貿易が始まった。

 オランダは、多くの失業した武士を東南アジアへ派遣した。その代表が山田長政である。

 22年、イングランドは、東南アジアのアンボイナ事件に敗北。日本から撤退した。

中国・ポルトガル

 中国は、明王朝の時代である。豊臣政権時の朝鮮出兵で日本は明王朝との国交は断絶していた。中国との貿易は、マカオに拠点を持つポルトガルと行っていた。

 中国からの輸入品の筆頭は、生糸(シルク)であった。この時期、生糸の価格は高騰した。そのため、04年、糸割賦制度を導入。ポルトガルとの価格交渉力を高めて安く購入しようとした。

 その裏で、琉球や朝鮮を通じて明王朝との国交回復交渉を実施するも失敗。民間の中国船との交易を長崎

朝鮮

 朝鮮は、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵で、関係は悪化していた。

 しかし、対馬の宗氏を通じて、09年に国交を回復。釜山に倭館がおかれた。

 以後、朝鮮から江戸幕府に通信使が派遣された。

琉球

 沖縄県は、琉球王国という独立国であった。

 09年、幕府の命を受けて、鹿児島(薩摩藩)の島津家に琉球王国へ侵攻。琉球王国は、表向きは冊封国とし、実質は、島津家の統治下にあった。

 薩摩藩は、琉球王国を通じて新たな収入源を2つ得た。1積めば、琉球産の黒砂糖である。2つ目は、琉球王国を通じた密貿易である。これは、幕府が黙認していたと言われている。

 表向きは独立国なので、幕末、ペリーは江戸幕府とは別に琉球王国と交渉を行っている。また、パリ万博では、日本とは別に琉球王国として薩摩藩が出展している。

 江戸幕府は、朝鮮とは別に琉球王国を通じで明王朝との講和交渉を実施した。しかし、失敗に終わった。

 琉球王国は、江戸に謝恩使(琉球王国の代替わり時に派遣)と慶賀使(将軍の代替わり時に派遣)を送った。

経済

商業

都市

 都市は、7割が武家地、2割の寺社地と1割の町人地で構成された。

 町人は、3つの階層に分かれた。トップは、家持と言って土地を所有していた。その下が、地借である。地借は、家持から土地を借りて、家を立てて住んでいた。その下が、店借である。家やその一部を借りて生活している。長屋住まいは、店借の代表である。

 町の管理は、町奉行が行った。町奉行は、行政・消防・警察・裁判(司法)を実施した。

 ただ、小さいことに関しては、町の自治を認めていた。名主(町年寄)が町法(町掟)に従って行った。この自治に関与できたのは、家持(土地所有者)のみであった。

交通

 陸上交通は、三都(江戸・京都・大阪)を中心に整備。東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道が整備された。ただ、防衛の関係で橋はほとんど整備されなかった。

 35年の寛永令で参勤交代制度が整備されると、陸上交通の整備は加速した。

 東海道の箱根(神奈川)や中山道の碓氷には、関所を設置。寺社奉行の発行する通行手形を必要とした。「入り鉄砲に出女」といって、鉄砲などの武器を江戸に送り込むと、江戸で人質になっている妻子の逃亡を防止した。

 街道には、1里(約4km)ごとに1里塚が設置された。これは、地名とし残っているところも多い。

 街道には、宿駅という宿場町が整備された。東海道53次は、この宿駅の総称である。都内では、新宿(甲州街道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光街道)、品川宿(東海道)が有名である。

 街道近郊の町や村は、伝馬役という賦役が課され、人や馬を提供した。

商業

 各戦国大名は、商業に力を入れた。楽市楽座はその一例である。

 江戸時代初期の商人は、2種類に分かれる。1つは、村の有力者(豪農)である。豪農は、農民が作った商品を販売した。彼らは、地域間の価格差を利用して、利益を上げていた。

 しかし、交通網が整備されると、地域間の価格差が縮小。商業で利益を挙げられなくなった。

 一方、都市部の商人は、地方からの商品の購入のほか、朱印船貿易で利益をあげていた。しかし、鎖国政策が始まると、国内取引を重視した。

農業政策

豊臣政権期の農業政策

 16世紀末の豊臣秀吉の太閤検地で、土地の所有関係は整理され、耕作人と土地の関係が明確になった。

税金)年貢

 江戸時代の藩や幕府の主たる財源は、農家からの年貢(税金)であった。現在は、源泉所得税として給与から天引きされ、会社代わりに納付した。江戸時代は、村単位で納付した。これが村請制である。農家は村のトップである名主に年貢を持っていき、名主が代表して、藩や幕府に治めた。

 また、五人組制度が導入され、年貢の納入などを連帯責任にした。

江戸明治昭和令和
主たる税金年貢地租所得税消費税
負担者農家地主会社員消費者
納付する人もの
納付の仕方村で集めて納付地主本人が納付会社が給与から徴収販売店が販売時に徴収

年貢は5種類あった。

  • 本途物成(ほんとものなり)
     通常の年貢。石高の4割から5割で徴収。検見役が収穫高をみて、年貢を決定した。殿様が変わると収穫高が厳しくなることが多く、一揆の原因になった。その一例が島原の乱である。
  • 小物成(こものなり)  米以外の生産物にかかる税金
  • 国役(くにえき)    河川の土木工事などの労働
  • 助郷役(すけごうえき) /伝馬役(でんばえき)
     人馬の差し出し。宿場町周辺の農民が負担する。この地域の農民は、それ以外の税金が安くなっていた。

村の自治

 村は、3つの階層で構成された。村のトップは、村方三役と呼ばれた。村のトップである名主と、その補佐役の組頭、名主の監査役(チェック担当)の百姓代で構成された。

 その下に、年貢を負担する本百姓(ほんひゃくしょう)がいる。彼らは、検地帳に名前が記載されている。ここまでが村の構成員で、村の政治に関与する。

 その下に、土地を持たない水呑百姓がいた。水呑百姓は、本百姓から土地を借りて小作をするか、本百姓の業務をサポートした。

 村は、名主を中心に本百姓たちが集まって自治を行った。そこで、村掟が成立。ここで決められた刑罰の一つが村八分である。その他に、治安維持や入会地(村の共有地)の管理を行った。さらに、村の経費は、村入用(むらいりよう)と呼ばれ、本百処たちが負担した。

法令)田畑永代売買の禁

 40年、寛永の大飢饉が発生。ここから、幕府の本格的な農業政策が始まった。

 43年、田畑永代売買の禁を発令。田畑を売却処分することを禁止した。これにより、本百姓が水呑百姓に転落して税収が減ることを防止した。

 同じ年、田畑勝手作りの禁を発令。生糸などの商品作物の生産を許可制にした。商品作物は収益が高いが多額の初期投資を必要とした。そのため、失敗して困窮する農家も多かった。そのため、これを許可制にした。

 49年、慶安の御触書。農民の心得を説き、過度な贅沢を禁止した。

文化

宗教政策

 江戸幕府の宗教政策の特徴は、3つある。

 1つ目は、宗教反乱の防止である。安土桃山時代、戦国大名は一向宗による一向一揆に苦しめられた。そのため、反乱を起こしそうな宗教勢力への信仰を認めなかった。

 2つ目は、植民地化の防止である。スペインは、宣教師を使って、東南アジアのフィリピンを植民地にした。日本でも、九州でキリシタンによる寺社の破壊活動が起きていた。そのため、豊臣政権以降、キリスト教(カトリック)の禁止を行った。

 3つ目は、宗教権威の復活である。応仁の乱で公家が困窮。中書の寺社の支援を受けた。これにより、宗教の権威付けがおかしくなっていた。

 15年、大阪夏の陣で豊臣家を滅亡。本山末寺制度構築。

 16年、大御所の家康が死去。翌17年、将軍秀忠は、日光東照宮を建立。

 22年、元和大殉教を実施。カトリック宣教師を多数処刑した。翌23年、秀忠は、将軍職を家光に譲る。

 35年、寺社奉行を設置。宗教政策を担うとともに、寺社を通じで戸籍の管理も行った。

寛永文化

 江戸初期の文化は、寛永文化という。中心は、京都と大阪である。戦国時代が終わり、平和な世になった時代に成立した文化である。文化の特徴は、以下の2つである。

 1つ目は、室町以前の文化と桃山文化の融合である。江戸幕府は、室町以前の秩序を利用した。そのため、五摂家などの有力貴族が力をつけた。そのため、室町以前の文化が復興した。いっぽうで、桃山文化の名残も残っていた。ただ、鎖国政策によって南蛮文化は影響は受けなくなった

 2つ目は、町人が中心の文化。桃山時代同様、文化の中心は、町人(豪商)であった。茶道がその中心である。

 03年、阿国歌舞伎。

 17年、吉原遊廓の建設が始まる。 

 25年、狩野探幽が二条城の襖絵を描く。

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