前回の復習 11世紀の日本
15世紀の日本は室町時代。金閣寺を建立した足利義満の時代で始まる。15世紀なかばに応仁の乱が発生。戦国時代へ向かっていく。
10世紀の国際情勢
13世紀は、モンゴルの世紀である。
日本では、鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入っていく。
中国では、元王朝が中国から撤退。北元と呼ばれるようになる。明王朝が成立した。
流れ 遣唐使廃止後の日本
菅原道真と遣隋使廃止
9世紀は、藤原北家が他氏排斥を行っていた。9世紀末は、宇多天皇の世。宇多天皇は、藤原北家を嫌っていて、菅原道真を重用していた。10世紀は、藤原北家の時平と菅原道真の対立から始まる。
94年、菅原道真の進言により、遣唐使は中止された。ちなみに、07年に唐王朝は滅亡した。
99年、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位。藤原時平(北家)が左大臣(公卿のトップ)、菅原道真を右大臣(公卿のNo2)とした。
01年、左大臣の時平が、右大臣の菅原道真を大宰府に左遷。03年に、道真は大宰府でなくなる。
02年、醍醐天皇は、口分田不足の対応で、「延喜の荘園整理令」を出す。多くの荘園が廃止された。そのため、荘園領主は、廃止されないように、有力貴族に寄進するようになった。寄進地系荘園の登場である。
05年、紀貫之らにより、「古今和歌集」が完成。
08年、「延喜格式」を施行
09年、時平は、摂政・関白になることなく死去。弟の忠平が後継者となった。
14年、口分田システムを廃止する。
道真の祟りと平将門の乱
20年代になると、日本は不幸に見舞われる。多くの人は、これを菅原道真の祟りと恐れるようになった。
23年、皇太子が崩御。
30年、内裏の清涼殿に落雷。多くの公卿がなくなる。朱雀天皇が即位。摂政に藤原忠平(北家)が就任した。
35年、関東で反乱が起こる。平将門の乱である。
39年、瀬戸内海では、下級貴族の藤原純友が海賊を率いて反乱を起こす。藤原純友の乱
40年、平将門の乱と藤原純友の乱が鎮圧。
摂関政治の時代へ
46年、朱雀天皇が譲位。村上天皇が即位。村上天皇は、朱雀上皇の支援を受け、摂政・関白を置かない親政を行った。
60年、内裏が焼失。皇后の家が臨時の内裏になる。里内裏の始まりである。
63年、村上天皇が崩御。冷泉天皇が中継ぎとして即位。忠平の嫡男の実頼が関白に就いた。
69年、藤原実頼は、安和の変で源高明を左遷。ライバルが消えたため、摂政関白が常設になり、藤原北家で独占していくようになる。
同69年、冷泉天皇が譲位し、円融天皇が即位。実頼が継続して摂政に就いた。
70年、実頼、没。甥の伊尹が摂政を引き継ぐ。
84年、円融天皇が譲位。花山天皇が即位。このころ、藤原北家(摂関家)では、藤原兼通と藤原兼家の権力闘争が展開された。
86年、花山天皇が譲位。一条天皇が即位。藤原兼家が摂政に就いた。
88年、尾張(名古屋周辺)の農民たちが、受領の横暴を訴える。
90年、兼家は、長男の道隆に関白の職を譲る。以後、兼家の家系が中心になっていく。関白道隆の娘の定子が一条天皇の中宮になる。
95年、疫病の流行で道隆らが次々なくなる。生き残ったのが道隆の子の藤原伊周と道隆の弟の道長であった。
政治 摂関政治
摂関政治のステップ
摂関政治の仕組みは、以下のステップで構築された。
- 政治力を使って、自分の娘を中宮(天皇の正妻)にする。
- 天皇の寵愛を受けて、自分の娘が天皇の息子(皇太子候補)を授かる。
- 里内裏で、皇太子候補である孫を育てる。
- 政治力で、自分の孫を皇太子にする。
- 皇太子が天皇になり、外祖父になる。
- 孫から、摂政・関白の役職をもらう。
- 摂政・関白の地位を使って、公卿を自分の身内で固め、更に政治力を高める。
摂関政治において、自分の娘が天皇の寵愛を受けることが重要であった。そのため、中宮には、和歌などの高い教養が求められた。そのために女御に雇われたのが、『枕草子』の作者である清少納言や『源氏物語』の作者である紫式部であった。
役職
公卿
平安時代の政治は、陣定による合議で政治が動いていた。金貞に参加する上級貴族が公卿となる。現代で言えば、公卿が内閣。陣定が閣議と言える。
公卿は、太政大臣、左大臣、右大臣の3大臣に大納言を加えて行われていた。しかし、のちに令外の官である中納言や参議も参加することになった。
少納言は、律令制にある役職であり、実務を担当し、陣定には参加しなかった。
太政大臣・摂政・関白
太政大臣は、律令の役職で、太政官の最高位である。常設の役職でなく、皇族以外の者が着くことができなかった。しかし、9世紀半ばに藤原北家の藤原良房が皇族以外では初の太政大臣になった。以後、断続的に藤原北家の太政大臣が誕生。69年の安和の変で藤原北家が政治を独占すると、20年以上藤原北家の太政大臣が続いた。太政大臣は、中国では相国(しょうこく)と呼ばれた。そのため、太政大臣は、〇〇相国と呼ばれた。平清盛も平相国とよばれた。
摂政は、天皇が幼少などの理由で単独で政治を行うことができないときに、政治をサポートする役職である。律令制の前から存在する役職であるが、律令には規定されていない役職である。この役職も、皇族しかなることができなかった。8世紀半ばに太政大臣の藤原良房が摂政になった。
関白は、成人した天皇をサポートする役職である。天皇が政治すると摂政を関白にした。8世紀半ばに成立した役職で、令外の官(律令に規定さていない役職)である。
平安時代初期(8世紀〜9世紀)は、太政大臣が摂政関白を兼ねていた。しかし、一条天皇が即位するとき、兼家は太政大臣になれなかったので、右大臣をやめて摂政になった。これにより、太政大臣と摂政・関白は別の役職になった。
9世紀末、道長は、伊周に配慮して、関白に内覧になった。これは、摂政関白の業務のうち、天皇に提出する書類を事前にチェックする役職である。
太政大臣は、1885年に内閣制度が成立すると廃止された。12世紀に平清盛が太政大臣になったが、基本的には、摂関家がになった。しかし、江戸時代になると武家官位として徳川将軍家が就任することがアッた。
摂政と関白は、藤原摂関家が独占した。鎌倉時代以降は、五摂家が
天皇と皇位継承
摂関政治になると、家系図が重要になる。とくに、外祖父(母方の祖父)が重要になる。9世紀の天皇を見ていきます。
醍醐天皇は、97年に12歳で宇多天皇から譲位を受ける。30年に譲位することなく、崩御した。母は、藤原冬嗣のひ孫である。関白藤原基経の女が養母になった。
中宮は、関白基経の娘で、2人の天皇(朱雀天皇と村上天皇)が生まれている。また、1人の女を右大臣藤原師輔に嫁いでいる。このほかに、醍醐天皇の妹2人とも結婚している。醍醐天皇の息子には、安和の変で失脚した源高明も醍醐天皇の息子である。14世紀、後醍醐天皇は、醍醐天皇の治世を目標にしてが後醍醐天皇と名乗った。
朱雀天皇は、30年にわずか7歳で即位。父である醍醐天皇の危篤によって即位した。外祖父は基経。摂政には、基経の子の忠平が摂政に就いた。
女御には、自分の姪と左大臣藤原実頼(摂政の忠平の子)の娘が就いたが、皇太子は誕生しなかった。
46年(24歳)のときに弟の村上天皇に譲位した。
村上天皇は、46年に20歳で即位。外祖父は、基経。関白に忠平が就任した。忠平がなくなると、関白は置かなかった。
忠平の息子である実頼(兄)と師輔(弟)はそれぞれ娘を嫁がせたが、中宮になったのは師輔(弟)の娘である。2人の天皇(冷泉天皇と円融天皇)が誕生した。また、異母弟が臣籍降下し、村上源氏になった。
67年に41歳でなくなった。醍醐天皇と村上天皇は摂政関白を置かない政治を行った。そのため、道長独裁の時代に冷遇うされていた人々は、この時代をなつかしんで、延喜・天暦の治という。
天皇親政をめざした後醍醐天皇は、息子を後村上天皇とした。
67年、冷泉天皇が即位。父である村上天皇の崩御にともない、18歳で即位。外祖父は藤原師輔である。関白は、師輔の兄である実頼が就任した。
中宮は、朱雀天皇の内親王(冷泉天皇のいとこ)が入内。ただし女御には、師輔の女と師輔の2人の息子(伊尹・兄と兼家・弟)がそれぞれの女が入内した。伊尹の女には1人の親王、兼家の女には3人の親王が生まれた。
冷泉天皇は病弱のため、皇太弟問題が生じた。左大臣である源高明(冷泉天皇の叔父)の女が入内した親王と右大臣である藤原伊尹(師輔の子)が入内した親王で後継者争いが起きた。
そのような中で起きたのが安和の変である。安和の変で源高明が失脚。同年、円融天皇に譲位した。
59年、兄である冷泉天皇の譲位により、円融天皇が10歳で即位。外祖父は、藤原師輔。摂政は太政大臣である藤原実頼(師輔の兄)が就任した。
円融天皇は中継ぎの天皇と考え、伊尹も兼家も中宮を入内させなかった。関白藤原兼通の女と関白藤原頼忠の女が中宮として入内。しかし、親王には恵まれなかった。右大臣の藤原兼家の次女が女御として入内。親王が誕生する。
84年、中継ぎとしての役割を終え、譲位した。この時、冷泉天皇系と円融天皇系が交互に天皇を立てることになった(両統迭立)。
84年に花山天皇が即位。外祖父は、藤原伊尹。関白は、藤原頼忠(藤原伊尹のいとこ)。
女御に、藤原為光(藤原師輔の子)の女が入内。86年、流産でなくなる。花山天皇は、この悲しみを受けて、出家を考える。この情報を利用して、藤原兼通がクーデターで花山天皇を出家させる。
86年、クーデターで一条天皇が即位。円融天皇の親王で、外祖父は、藤原兼家(道長の父)。当時右大臣であった藤原兼家は、右大臣を辞任して摂政になった。
道隆(道長の兄)の女である定子が中宮。親王を1人が誕生。その後、道長の女である彰子が中宮に入内。2人の親王が誕生した。
藤原北家(摂関家)
今度は、藤原北家の視点から皇室を見ていく。
藤原時平は、父が藤原基経、母は、仁明天皇の孫(光孝天皇の同母姪)である。醍醐天皇(97年に即位)のときに左大臣に就任。醍醐天皇は、親政を行ったので、関白にならなかった。右大臣の菅原道真を大宰府に左遷している。09年、時平は39年に死去。菅原道真の祟りと噂されている。
宇多天皇の親王と醍醐天皇の親王に后を嫁がせたが、2人とも天皇になることはできなかった。宇多天皇の親王にうまれた孫は、宇多源氏の源雅信になり、その娘は藤原道長に嫁いでいる。醍醐天皇の親王に生まれた孫は、臣籍降下し醍醐源氏になっている。
次の氏の長者は、藤原忠平である。時平の同母弟である。14年に右大臣、24年に左大臣に就任した。30年、朱雀天皇が即位。幼少のため、忠平は摂政に就任した。41年、朱雀天皇の元服にともない、関白に就任。46年、村上天皇が即位。引き続き関白に就任。49年、没。
后は、宇多天皇の内親王と文徳天皇の孫と結婚した。宇多天皇の内親王からは藤原実頼が、文徳天皇の孫からは、藤原師輔が誕生している。
次の氏の長者は、実頼である。村上天皇は、忠平がなくなると関白を設置しなかった。村上天皇即位時(46年)に左大臣に就任。
村上天皇の時代に、実頼(小野宮流)と師輔(九条流)の兄弟間で外祖父争いが起こる。それぞれが、自分の娘を入内。勝利したのは弟の師輔である。師輔の娘は3人の親王が誕生する。
67年、冷泉天皇が即位。病の関係から関白制度を復活。外祖父である師輔は60年に死去。実頼が関白に就任した。
このあと、冷泉天皇の後継者争いが問題になった。源高明(醍醐源氏)が入内した為平親王と藤原家から入内している守平親王である。69年、安和の変で源高明を失脚させ、守平親王を即位させた。円融天皇である。翌70年、実頼は亡くなった。
実頼の本妻は、時平の娘(実頼のおば)である。3男1女に恵まれた。息子は、敦敏、頼忠、斉敏である。娘は村上天皇に嫁いだが、親王が誕生しなかった。その他に2人の娘がいて、朱雀天皇と源高明(宇多源氏)に嫁いでいる。
異母弟の師輔は、道長の祖父である。本妻は、藤原南家の人である。4男4女に恵まれた。息子は、伊尹、兼通、兼家(道長の父)、忠君である。長女は、村上天皇に入内、3人の親王を誕生させた。次女は有力皇族に、三女は源高明(醍醐源氏)に、四女は冷泉天皇に嫁いだ。また、師輔は、醍醐天皇から3人の内親王を妻にもらい、時平の孫も妻にしている。兼家の異母弟には、為光と公季(閑院流の祖)が誕生している。異母妹には、源高明に嫁いだ源経房の母がいる。
では、ライバルの源高明はどのような家だろうか。父は、醍醐天皇で、母は嵯峨源氏である。藤原実頼から1人の娘を、師輔から2人の娘を妻に迎えている。4人の息子と2人の娘が誕生した。長男と次男は、安和の変で出家。長男の息子(高明の孫)は清和源氏に養子に出ている。俊賢と経房は、その後も政界で活躍した。2人の娘は、為平親王(村上天皇の子)と藤原道長に嫁いでいる。
摂関家の話に戻る。70年に円融天皇が即位。師輔(円融天皇の外祖父)の嫡男(実頼の甥)である藤原伊尹が右大臣に就任。摂政藤原実頼がなくなると、藤原伊尹が氏の長者と摂政職を引き継いだ。しかし、翌71年の病気でなくなる。
多くの息子を生んだが、伊尹が若くして亡くなったため出世したものは少ない。娘は冷泉天皇と冷泉天皇の親王に嫁いだ。花山天皇の外祖父になっている。
71年、藤原伊尹がなくなると、氏の長者と関白の地位をめぐり伊尹の2人弟(兼通と兼家)の対立が起きた。円融天皇は、いとこの右大臣である藤原頼忠(小野宮流)を内覧にして親政を行おうとした。しかし、国母(天皇の母)である兼通・兼家の妹の助言もあり、兼家が摂政に就任した。
兼通は、伊尹の同母弟である。父は師輔、母は藤原南家出身である。妻は、皇室からは、陽成天皇と醍醐天皇の孫を迎えている。また、有力家系の大江家と桓武平氏からも妻を迎えている。
兼通と兼家の後継者争いは続き、兼通は死の間際に後継者を指名した。それは、いとこである左大臣頼忠(小野宮流)である。77年、頼忠が関白に就任した。しかし、外戚関係がないのでかとんじられた。円融天皇も関白の頼忠ではなく、左大臣の源雅信を頼りにしていた。政局は、円融天皇、関白藤原頼忠、左大臣源雅信、右大臣藤原兼家の4人で争うことになる。
84年、円融天皇が花山天皇に譲位。外祖父は頼忠の父である故藤原伊尹である。頼忠が引き続き関白に就任した。
86年、兼家のクーデターで花山天皇が出家退位。一条天皇(円融天皇の親王)が即位した。
頼忠は、小野宮流の人で、兼通・兼家兄弟のいとこである。父は藤原伊尹。母は、藤原時平の娘である。息子は、藤原公任。2人の娘は、円融天皇と花山天皇に娘を嫁がせたが、親王は誕生しなかった。
ではライバルの源雅信は、宇多源氏の1人。宇多天皇の親王で、母は藤原時平の娘である。同母弟には、源寛信と源重信がいる。妻には、光孝天皇の孫、藤原為光(兼家の子)の他、藤原北家と藤原南家から1人ずつ迎えた。この家系から多くの公家の家系を輩出。さらに、近江源氏の佐々木家も源雅信の子孫である。娘は、藤原道長と道長の異母弟の道綱に嫁いだ。
クーデターで一条天皇が即位すると、ついに、道長の父である兼家が摂政に就いた。しかし、太政大臣は、藤原頼忠。左大臣は源雅信である。
兼家は、頼忠のいとこで伊尹・兼通の同母弟。父は九条流の藤原師輔。母は藤原南家の人物である。正室は藤原北家で摂津守の娘である。息子には、道隆、道兼、道長がいる。娘は、超子が冷泉天皇に入内。三条天皇の母になる。詮子は、円融天皇に入内。一条天皇の母になる。その他に妻には『蜻蛉日記』で夫の兼家の愚痴をつづった道綱の母がいる。道綱は、道長たちの異母弟になる。
89年、太政大臣藤原頼忠、没。兼家が太政大臣に就任。翌90年、その地位を嫡男の隆家に譲り、その後亡くなった。
道隆は、90年に、長女の定子を一条天皇に入内。ただ、95年に病気。後継者に嫡男の伊周を関白にしようとしたが失敗。弟の道兼に関白を譲って亡くなった。
道隆は、道長の同母兄。父は兼家。母は藤原北家で中納言で摂津守の娘である。正妻は、式部大輔である高階家の娘である。息子には、伊周と隆家がいる。隆家は、11世紀初頭の刀伊の入寇で活躍した武闘派の公家である。長女の定子は、一条天皇(円融天皇系)の后になり、次女の原子は、三条天皇(冷泉天皇系)の女御になった。三女も冷泉天皇の親王に嫁いだ。道隆の家系は中関白家と呼ばれた。
道隆がなくなると、弟の道兼が関白に就任。就任時にはすでに病で死期が近かった。就任が間もなく亡くなった。そのため、7日関白と呼ばれた。
鎌倉幕府(地方)
守護
地頭
六波羅探題
将軍家
63年8月、幕府側の薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家とともに、政治の実権をにぎり、長州藩と三条実美ら急進派の公家を京都から追放した。これが八月十八日の政変である。
翌64年、長州藩は、池田屋事件を契機に、京都に攻めのぼるが、会津・薩摩連合軍に敗退。(禁門の変、蛤御門の変)。
幕府は、この事件を受けて、第1次長州征伐を行う。同じ頃、四国艦隊下関砲弾事件が発生。長州藩は、高杉晋作ら攘夷派を弾圧。幕府に恭順な態度を示した。
北条氏と執権
朝廷
一方、日米修好通商条約は、批准(勅許)が取れずにいた。65年、イギリスなどの連合艦隊は京都に近い開港場の神戸おきに艦隊を派遣。朝廷は、ようやく勅許を出し、批准された。
翌66年、幕府は関税の引き下げに合意した。
外交)蒙古襲来
東北地方
永楽帝
間宮林蔵
経済 公地公民制の崩壊
前史)奈良時代の経済
6世紀なかばの大化の改新で公地公民制が確立。日本国民に国が口分田を配布。租庸調の税金が課された。
しかし、口分田が不足。7世紀に墾田永年私財法が成立。各地に荘園が作られる。これにより、税収が激減。
醍醐天皇の延喜の荘園整理令
02年、醍醐天皇は、班田収授制を拡幅するために延喜の荘園整理令を出す。これにより、違法な荘園を没収した。さらに、班田収授のために作られる正確性を確保するため、口分田の配布を6年毎から12年毎に変更した。
02年、班田収授を実施した。これが最後の班田収授(口分田の配布)となった。
班田収授を諦める。
延喜の荘園整理令から12年後の14年、班田収授の年になった。三善清行は、後醍醐天皇に班田収授がむずかしいことを指摘した。
10世紀以降の税金システム
9世紀末から、税金の徴収は、国司に一任するようになる。ノルマである税金を朝廷に収めれば、それ以上は自分の給料にすることができた。この頃から、国司は受領(ずりょう)と呼ばれるようになる。
国司は、班田制を無視し、有力農民に田畑を耕作させ、税金と労役を貸すようになった。国司は、田畑ごとに有力農民を割り当て、田畑の大きさに応じて税金を徴収した。
- 受領(ずりょう) 国のトップで、税金を徴収する担当者
- 田堵(たと) 受領に税金を納付する有力農民
- 大名田堵(だいみょうたと)有力農民
- 官物(かんぶつ) 田堵が受領に税金として治める農作物
- 臨時雑役(りんじぞうえき)
- 名(な) 徴税単位に分けられた田畑
- 名主(なぬし) 名ごとに割り当てられた田堵
受領以外の国司は、現地に赴かず収入だけ受け取る様になった。これは、遙任(ようにん)と呼ばれた。
10世紀後半になると、受領の過酷の取り立てが問題になった。88年には、尾張(愛知県東部)の国司が訴えられた。
10世紀の荘園
10世紀に入ると、国司になった中小貴族の中には地方に土着したものも現れた。
有力農民や土着した中小貴族の子孫の中には、国衙から臨時雑役を免除されるものもあられた。彼らは、開発領主とよばれた