16世紀後半のフランス ユグノー戦争でブルボン朝成立

フェリペ2世を撃退

 フランスでは、47年アンリ2世が即位。57年、スペインでフェリペ2世が即位すると、スペイン・イングランド連合軍がフランスへ侵攻。58年、フランスはイングランドに勝利。
 同58年、イングランドエリザベス1世女王が即位すると、フランスとイングランド・スペインは講和した。イングランドは大陸にあった唯一の領土カレーをフランスへ割譲した。

 当時スペインは、 神聖ローマ皇帝カール5世が引退。スペインと神聖ローマ帝国(ドイツ)の同君連合は解消された。しかし、スペインは新大陸のポトシ銀山から大量の銀を獲得していた。さらに、オランダや南イタリアを領有していた。そのため、16世紀後半もスペインは大国であり続けた。

 一方、イギリスは、フェリペ2世の妻、メアリ1世が治めていた。2人の間に子どもはなく、58年に亡くなる。イギリスを引き継いだのは異母妹のエリザベス1世であった。エリザベス1世が即位すると、スペインとの同盟は解消。フランスと講和した。

ユグノー戦争

ユグノー戦争勃発

 ユグノーとは、カルヴァン派のことである。カルヴァン派は商工業者を中心に普及した。アンリ2世は、ユグノーを弾圧。60年、シャルル9世が即位。幼い皇帝を母カトリーヌが支えた。62年、シャルル9世は、カルヴァン派を認める勅令を発する。これに対しカトリック教徒の諸侯が反発。ここにユグノー戦争が始まる。

カルヴァン派とは

 16世紀は、宗教改革の時代である。この時キリスト教に2つの宗派が誕生した。北ドイツのルター派とスイスのカルヴァン派である。ルター派は北ドイツの諸侯を中心に北海沿岸に信者を増やした。一方で、カルヴァン派はフランスを通じて西欧へ広まった

 カルヴァン派は、勤労や禁欲を奨励した。そのため、貯金も推奨した。そのため、商人を中心に広まった。フランスのカルヴァン派は、ユグノーと呼ばれた。しかし、カルヴァン派はオランダやイギリスへも広まった。

 当時、オランダは、スペイン領であった。オランダの領主はカルヴァン派にかなり寛容であった。カール5世時代もカルヴァン派は容認されていた。しかし、16世紀後半、フェリペ2世の時代へ移ると状況は一転した。フェリペ2世は、敬虔なカトリック教徒であった。そのため、プロテスタントの大弾圧を行った。これに反発したオランダ国民が起こしたのがオランダ独立戦争である。この戦争は17世紀前半までつづいた。

 一方、イングランドはエリザベス1世の時代である。イギリスはイギリス国教会制度を導入していた。しかし、その宗派は特に定まっていなかった。エリザベス1世時代はカルヴァン派とカトリック派が共存していた。しかし、17世紀に入ると状況は一変した。カトリックを信仰するスチュアート朝の時代に入った。カルヴァン派は各地へ亡命した。その一つが新大陸へ向ったピグリム=ファザーズである。そして、この対立がイギリス革命につながった。

サンバルテルミの大虐殺

 68年、オランダ独立戦争がはじまる。フランス国内の宗教対立は、カルヴァン派のオランダとカトリックのスペインの対立が相まって泥沼化した。72年、パリでカルヴァン派の大虐殺がおこなれた。サンバルテルミの虐殺である。ユグノー戦争の泥沼化でフランス全土は荒廃。

 フランスは、ユグノー戦争の影響で17世紀初頭に不況となった。同盟国のオスマン帝国もこの時期から衰退期に入り始めた。一方で、フランスの代わりに台頭したのが、イギリスとオランダである。この2国はアジア各国の植民地化を始めた。

ブルボン朝の成立でユグノー戦争が終わる

 74年、アンリ3世が即位。アンリ3世に後継者がいなかったため後継者争いが始まった。カトリック教徒のギース公アンリとユグノーブルボン家アンリである。81年、オランダ提督ウィレム1世は独立を宣言。84年、イングランドは、新大陸ヴァージニア植民地を開発。同84年、日本の遣欧使節団がスペイン国王フェリペ2世に謁見。このころ、パリはカトリック派が優勢であった。88年、フランス国王アンリ3世がカトリック側のギース公アンリを暗殺。しかし、89年、アンリ3世は熱狂的なカトリック教徒によって暗殺された。残ったブルボン家アンリがアンリ4世としてフランス国王になった。ブルボン朝の始まりである。 

ナントの王令で宗教の自由を認める

89年、アンリ4世が即位してブルボン朝が始まる。この200年後にフランス革命が勃発する。ただ、フランス国民の大部分はカトリック教徒である。そのため、93年アンリ4世ユグノーからカトリックへ改宗した。そして、93年、アンリ4世はナントの王令を出し、カルヴァン派を容認し、ユグノーを保護した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました