6世紀の東南アジア クメール人国家の成立

復習 7世紀の東南アジア

 7世紀、マレーシアのシュリーヴィジャヤ王国の全盛期。唐の僧侶である義浄は全盛期のシュリーヴィジャヤ王国に滞在した。

6世紀の国際情勢

 6世紀(501年〜600年)、日本は古墳時代。中国の南朝に朝貢を行っていた。仏教が伝来したのもこの時代。

 中国は、魏晋南北朝の戦乱の時代。北朝は北魏の時代である。一方、南朝は貴族を中心とした六朝文化の全盛期。5世紀末、北朝の隋王朝が南北を統一。

 インドは、グプタ朝の時代。インド北東部に拠点を置き、上座部仏教が信仰されていた。

 中東では、ササン朝(イラン)と東ローマ帝国が互いに覇権を争っていた。

 ヨーロッパでは、東ローマ帝国のユスティヌス帝が地中海を再統一。多くのゲルマン民族国家が滅亡した。

クメール人国家の成立

真臘

 6世紀から、クメール人の農耕民族がカンボジア北部に国家を形成し始めた。これが真臘(しんろう)の始まりである。

 真臘は、7世紀にはカンボジア南部の扶南(ふなん)を征服。8世紀末に一時シャイレーンドラ朝(インドネシア)の支配を受けるが、9世紀にアンコール朝として独立。12世紀に全盛期を迎える。

当時の南ベトナム

 義浄が訪れたマレーシアは、シュリーヴィジャヤ王国の全盛期であった。シュリーヴィジャヤ王国は、多くの港市国家の連合体であった。その中心はスマトラ島南部のバレンバンである。

 11世紀、南インドのチョーラ朝が侵攻。これにより、シュリーヴィジャヤ王国の衰退が始まった。14世紀、ジャワ島のマジャパヒト王国によって、事実上滅亡。15世紀のマラッカ王国へつながる。

南朝と北ベトナム

北ベトナム

 北ベトナムは、紀元前1世紀に漢の武帝が征服。以後、歴代中国王朝が支配した。

 この北ベトナムは、2回独立を回復している。1回目は1世紀の後漢の時代である。微姉妹(はい・ばー・ちゅん)の反乱である。

 もう1つが、41年の反乱である。

北ベトナムの独立

 魏晋南北朝の時代。ベトナムは南朝の歴代王朝が支配していた。南朝は、中央から役人を派遣して統治していた。

 41年、南朝から派遣された役人が反乱を開始、北ベトナムに李朝(前李朝)を建国。歴代の南朝は、遠征軍を派遣するも失敗。603年、隋王朝に敗北するまで独立王朝は存続していた。

南朝

 魏晋南北朝時代、北ベトナムは南朝の支配を受けていた。

 南朝は、4世紀初頭に、匈奴によって晋王朝が滅亡。晋王朝の残党が、建康(けんこう、現在の南京)に晋王朝を再興。これが南朝の始まりである。多くの貴族は華北の戦乱(五胡十六国)を避けるために南朝へ移動した。そのため、南朝は貴族中心に政治が進む。貴族文化が花開いた。

 5世紀に入ると、日本も安全な南朝に朝貢  するようになる。

チャンパー

 ミャンマーでは、北部にピュー人、南部にモン人が居住していた。インド北東部のグプタ朝やヴァルダナ朝の影響を受け、上座部仏教を信仰していた。