18世紀後半の東南アジア 3つの新政権

復習 1800年代の東南アジア

 1800年代、フランス革命に乗じて、イギリスがオランダの拠点を次々と侵攻した。長崎のフェートン号事件もこの一つである。ジャワ島も一時イギリスに支配された。

 一方で、ベトナムでは、西山政権が崩壊。阮朝(グエンちょう)が成立した。

18世紀後半の国際情勢

 18世紀後半は、革命の時代である。戦争で言えば、七年戦争に始まり、アメリカ独立戦争を経て、18世紀末にフランス革命が起こる。

 同じ頃、イギリスでは産業革命が進展してきた時代でもあった。

半島部で3つの新政権

ベトナム 西山の乱

 前回の話の通り、19世紀初頭にベトナムでは阮朝が成立した。それを支援したのが新政権のタイのラタナコーシン朝とフランスの宣教師であった。ここでは、阮朝成立前の18世紀後半のベトナムを見ていきます。

 ベトナムは、15世紀に成立した黎朝(れちょう)の時代である。17世紀に入ると王権は弱まり、地方の豪族が権力を振るうようになった。18世紀半ばには、2つの勢力に主役された。北部の鄭一族と南部の阮一族である。

 南部の阮一族を支えていたのが、タイのアユタヤ朝である。18世紀なかば、そのアユタヤ朝にミャンマーの新王朝コンバウン朝が侵攻。南部の阮一族はサポーターを失った。

 71年、阮一族が支配する南ベトナムで農民反乱が発生。85年、阮一族を倒し、西山政権を成立させた。

 89年、清王朝の乾隆帝が氾濫の鎮圧のためにベトナムへ進軍。西山政権はこれと撃退。

 02年、阮一族の残党である阮福暎氏が、タイの新王朝ラタナコーシン朝の支援をうけ、西山政権を崩壊。阮朝が成立する。

タイ)ラタナコーシン朝の成立

 ここでは、18世紀後半のベトナムに影響を与えたタイの王朝交代を見ていきます。

 タイには、14世紀に成立したアユタヤ朝があった。16世紀の大航海時代に全盛期を迎えた。

ミャンマー)コンパウン朝の成立

 転換点は、19世紀初頭のナポレオン戦争である。オランダ王国は、ナポレオンに征服される。東南アジアのオランダの拠点もナポレオンの支配下に入った。

 イギリスは、ナポレオンと戦いながら、世界各地にあるおランド拠点を次々と奪っていった。長崎(日本)で起きたフェートン号事件もその1つである。

 東南アジアも例外ではない。ジャワ島などが一時イギリスに占領された。

イギリスオランダの進出

 14年、ナポレオン戦争の講和会議が行われた。ウィーン会議である。イギリスはこの会議でジャワ島などのオランダから奪った拠点の返還を行ったが、見返りに一部の植民地をそのまま領有した。セイロン島(インド)や南アフリカなどである。

 イギリス=オランダ協定もこの流れで始まった交渉である。

オランダ、マラタム王国を滅ぼす

阮朝

 21年、スマトラ島でパドリ戦争が勃発。ジャワ島の反オランダ派も勢いづいた。

 24年、イギリス=オランダ協定でジャワ島がオランダに返還される。オランダは、植民地経営を重視するようになる。そのために農地改革を実施。地主層や農民から大きな反発を受けた。

 25年、王位継承問題が発生。これをきっかけに、王族の1人を担いだ反オランダの反乱が発生。これがジャワ戦争である。

 オランダは、パドリ戦争とジャワ戦争のWパンチで疲弊。31年、ベルギー独立を容認することになった。

 30年、ジャワ戦争はようやく鎮圧。農地改革を再び実施。これが強制栽培制度である。

イギリス、クック船長

 18世紀半ば、イギリスは7年戦争に勝利パドリ戦争とは、21年にスマトラ島南部で起きた反オランダ植民地化の反乱である。

 クック船長、   この戦争を主導したのは、パドリ派と呼ばれるイスラム教の改革派の人々である。かれらは、聖地メッカの巡礼の際に、ワッハーブ派の影響を受けた人々である。

 ペナン島、ブルネイ王国、    21年にパドリ戦争が起きると、スマトラ島へ波及。25年ジャワ戦争が始まった。

フランス宣教師の支援

 ビルマ戦争は、19世紀におきたインド(イギリス)とミャンマー(コンバウン朝)との3度に渡る戦争である。最初の戦争は20年代に起きた。この戦争により、ミャンマーのコンバウン朝は滅亡。イギリス領インドに併合される。

  • 第1回 24年〜26年
  • 第2回 52年 インド大反乱のきっかけになる戦争
  • 第3回 85年〜86年 コンバウン朝の滅亡

 当時、ミャンマーはコンバウン朝の時代である。一方、イギリス東インド会社は、インド北西部のベンガル地方に拠点をおいていた。その東隣がミャンマーである。

 ミャンマーは、アッサム地方を占領。イギリス東インド会社はこれに激怒。24年、ミャンマーへ侵攻した。

 26年、ミャンマーは、イギリス東インド会社に敗北。占領地を変換するとともに多額の賠償金が課された。国王はこれにより、病弱になり廃位。多額の賠償金と戦費によって、ミャンマーは財政難になる。

前王朝)西山政権

 19世紀後半、イギリスは原住民のスルタンからペナン島を獲得する。05年、ラッフルズが東南アジアへ進出。ペナン島に商館を建てる。19年、ラッフルズはシンガポールを探検。

 24年、イギリス=オランダ協定で、マレー半島とマラッカ島を獲得。

 26年、ペナン島、シンガポールとマラッカ島の3つをまとめた海峡植民地が成立する。

オース

 オーストラリアは、ジャワ島、ニューギニア島の南にある大陸である。

 イギリスがオーストラリアに入植したのは、18世紀後半のクックの探検の時代である。当初はアメリカに代わる流刑植民地の取り扱いであった。

 オーストラリアで牧羊業が盛んになり、植民地の重要性が高まった。23年、流刑植民地の扱いを取りやめ、一定の自治を認めた。29年、イギリスはオーストラリア全土の領有を宣言した。

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