1910年代の中国 中華民国 辛亥革命で中華民国建国

前回の復習 1920年代の中国

 1920年代の中国。中華民国の時代。国民党と共産党が成立。また、北部では軍閥が中央政府を無視して政治を行っていた。

1910年代の国際情勢

 1910年代は、第1次世界大戦の時代。14年に始まった第1次世界大戦によって多く転換していく。

辛亥革命

原因は鉄道国有化

 清王朝は、財政は緊迫していた。95年の日清戦争と00年の義和団の乱で多額の賠償金が課せられたためである。

 現在、中国は、借金を担保にアジアアフリカ地域に租借地を持っている。10年頃の清王朝は逆に、ヨーロッパ各国に租借されていた。

 清王朝は、財政難を打開するためにある政策を実施した。鉄道の国有化である。清王朝は、鉄道を国有化し、それを担保にして海外から借款(借入)を行おうとした。

 国民は、これに反発。辛亥革命へとつながる。その中心は、鉄道事業を運営していた民族資本家(中国人の資本家)や地方の有力者である。

革命の流れ

 当時の清王朝は、現在と同じ北東部の北京(ペキン)に都をおいている。19世紀の中国の反乱は、都から一番遠い中国南東部の四川省から始まることが多い。四川省は、3世紀の三国時代に劉備の蜀が都をおいていた。

 11年6月、四川で暴動が発生。これを受けて、アメリカにいた孫文が帰国。10月、鎮圧軍の一部が革命派に合流。武昌蜂起。中華民国の建国を宣言。翌12年元日、孫文が臨時大総統(選挙を行うまでの臨時のトップ)に就いた。

清王朝の終焉

 清王朝から寝返った袁世凱は、孫文から内閣総理大臣を拝命。2月、北京に戻り、ラストエンペラーこと宣統帝を退位させる。これにより、250年以上続いた清王朝は幕を閉じた。

第二革命 袁世凱政権vs孫文国民党

李鴻章の後を継ぐ者

 袁世凱は、清王朝は、末期に奉天など北部を守る北洋軍と上海(浙江省)などを守る南洋軍に分かれていた。

 袁世凱は、北洋軍のトップであった。北洋軍は下関条約で全権を担った李鴻章など日本との関わりが強い。袁世凱は李鴻章の後継者に当たる。

 清王朝末期、正規軍はほぼ機能停止状態になっていた。有力者が独自に軍隊を結成する私兵の部隊になっていた。

袁世凱政権と

 袁世凱は、清王朝の幕を閉じると、独裁への道を進み始めた。袁世凱は中華民国の実権を握った。

 武昌の孫文臨時大総統は、袁世凱の独裁に対抗するため、8月、国民党を結成。暫定憲法(臨時約法)を制定した。翌13年、選挙が行われ議会が始まった。

 袁世凱は武力で国民党を解散。孫文は日本へ亡命した。10月、2代目大総統に就任。臨時役法を停止。翌14年3月、中華国民約法を制定。議会の力を弱め、大総統の権限を強化した。

第1次世界大戦と21箇条の要求

袁世凱政権と第一次世界大戦

 13年、袁世凱は、臨時大総統に就任。翌14年、第1次世界大戦が勃発した。袁世凱政権は、中立な立場を取った。

21箇条の要求

 中華民国も、第1次世界大戦の戦場になった。それが、ドイツの勢力圏である山東半島である。イギリス陣営の日本軍は、山東半島にあるドイツの拠点を攻撃した。

 15年1月、日本は、袁世凱政権に対して21か条の要求を突きつける。5月、袁世凱政権は一部を削除してこれを受諾。民衆はこれに反発。

軍閥の時代へ

 民衆の反発を受けた袁世凱大総統は、16年死亡。各地の軍閥が中央を無視して政治を行うようになった。

ヴェルサイユ会議と五四運動

ヴェルサイユ会議

21箇条の要求を追認

国民党と共産党

ワシントン会議へ