17世紀前半のスペイン オランダ・ポルトガルの独立

前回の復習 17世紀後半のスペイン

 17世紀後半のスペインは、フランスのルイ14世の領土拡張戦争に巻き込まれていく。その舞台になったのは、当時、スペインの領土であったベルギー(南ネーデルラント)であった。

 そのような中、スペイン王室(スペイン=ハプスブルグ家)が断絶。18世紀初頭のスペイン継承戦争へ向かっていく。

17世紀前半の国際情勢

 1800年代、日本は江戸時代。徳川幕府が成立したい時代である。

 ヨーロッパは、17世紀の危機と呼ばれる時代。農産物の収穫量が大幅に低下した。そのような中、最後で最大の宗教戦争であるドイツ三十年戦争が起こる。

ウェストファリア条約

 17世紀前半最大の戦争は、ドイツ三十年戦争である。この戦争は、48年のウェストファリア条約で終結した。ウェストファリア条約は、世界初の近代講和条約といわれ、ここから主権国家体制が確立したと言われている。

 この戦争で、フランス=ブルボン家は絶頂期に向かっていくが、ちょうど200年後の1848年の二月革命でフランス=ブルボン家は終焉する。

 スペインは、ウェストファリア条約の講話会議に参加したが調印はしなかった。スペインが講和したのは11年後の59年のピレネー条約で集結する。

ポルトガルの独立

ポルトガルの独立

 オスマン帝国との戦争やオランダ独立戦争、ドイツ三十年戦争でスペインの王室財政は困窮していた。そのため、税収UPを目指して中央集権化をすすめた。ターゲットになったのは、スペインのカタルーニャ地方とポルトガルであった。

 スペインのカタルーニャ地方(バルセロナ)は、フランスと結びついて反乱を展開した。

 ポルトガルも独立に向けて動き始めた。

オランダのアジア進出

 スペインのポルトガル併合は当初、大きな経済効果をもたらした。ポルトガル商人は、ポルトガル領のアジア・アフリカの植民地とスペイン領のアメリカの植民地にアクセスができ、この2つの地域にアクセスすることができた。

 しかし、アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊がイギリス海軍に敗れると状況は変わった。オランダ独立戦争は、アジア全域に広がった。オランダは、アジアにあるポルトガルの拠点の攻撃をはめた。トルデシリャス条約は、ローマ教皇の名のもとに作られた条約である。そのため、プロテスタント国家であるイングランドやオランダには適用されない。

 17世紀に入ると、イングランドやオランダはそれぞれ東インド会社を設立。オランダ東インド会社は、00年に香辛料の産地モルッカ諸島を支配。09年、南インドのセイロン島を支配。

 さらに、22年、イランのホルズム島をサファヴィー朝に奪われる。これを裏で支援していたのがイングランドであった。

 オランダ独立戦争のアジア戦線は日本も例外ではなかった。オランダとイングランドは、江戸幕府に接触。日本に鎖国政策をとらせ、ポルトガルに変わりオランダが日本との交易を独占した。

 41年、東アジアの海の玄関口であるマラッカ海峡(マレーシア)もオランダ支配した。

スペイン=ハプスブルグ家の支配

 16世紀後半、ポルトガル王家が断絶、ポルトガルの貴族たちは、当時最強のの王を迎えた。それが、スペイン国王フェリペ2世である。これにより、スペインとポルトガルは同君連合(国王が同じくに集まり)になった。

オランダの独立

 16世紀後半、オランダが独立宣言を発表。ここから80年に渡るオランダ独立戦争が始まる。

 この戦争は、前述の通り、日本を始めたらアジアにも波及した。

 この戦争は、解決至らず、48年のウェストファリア条約で国際的に承認された。

アフリカ南部のモノモタバ王国を属国に

 アフリカ南東部にモノモタバ王国が存在する。現在のジンバブブエのあたりにある国である。金と象牙の輸出で大国になっていた。

 17世紀初頭、ポルトガルは、このときにモノモタバ王国を属国になった。

歴代スペイン王

フェリペ4世

 フェリペ4世は、フェリペ2世の孫で、21年にスペイン国王に即位。同じ年、フランス国王アンリ4世(フランス=ブルボン家)の娘を后を迎えた。

 王太子が生まれる若くしてなくなった。44年、王妃がなくなると、王太子の婚約者であった神聖ローマ皇帝フィルディナント3世の皇女を妃に迎えた。

 ピレネー条約で、前妻の娘をフランス国王ルイ14世に嫁がせる。その孫が、スペイン=ブルボン家を開く。

 後の妻は、次期国王カルロス2世を産み、娘を神聖ローマ皇帝レオポルト1世に嫁がせた。

 政治面では、オランダやポルトガルが独立するなど多くの領土を失った国王である。一方で文化面では大きな影響力を持った。ベラスケスやルーベンスなどの芸術家を保護。多くの美術品を収集。プラド美術館の礎を築いた。

 65年にフェリペ3世がなくなると、幼いカルロス2世が即位。後妻が摂政になった。

フェリペ3世

 フェリペ3世は、フェリペ2世の子で98年にスペイン王に即位した。

 翌99年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(オーストリア=ハプスブルグ家)の姪と結婚。8人の子どもが生まれ、2人の娘と3人の息子が成人した。2人の娘は、フランス(ブルボン家)と神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルク家)に嫁いだ。

 日本からの使者である支倉常長が謁見したスペイン国王がフェリペ3世である。

 09年、モリスコ(イスラム教からの改宗者)の国外通報を実施。この頃からスペインの衰退が始まる。

文化)ドン=キホーテ

ドン=キホーテ

ベラスケス

 スペインの画家で、バロック美術の代表的な画家の1人である。代表作には、『ラス=メニーナス(女官たち)がいる。

エル=グレコ

 ギリシャ出身の画家で、スペインで名声を高めた画家である。バロック美術の代表的な画家である。宗教画を得意とし、代表作は、『受胎告知』等がある。

ルーベンス

 17世紀前半のフランドル地方の画家。スペイン国王フェリペ4世のサポートを受けていた。

 バロック風の画家であり、代表作は、『レウキッポスの娘たちの略奪』がある。

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