17世紀後半のスペイン スペイン=ハプスブルグ家の終焉

前回の復習 18世紀前半のスペイン

 18世紀前半のスペイン。スペイン=ハプスブルグ家ガ断絶。これをきっかけにスペイン継承戦争が勃発。スペイン=ブルボン朝が成立。しかし、イタリアなどの多くの領土を失った。

 今回は、スペイン=ハプスブルグ家の末期の様子を見ていきます。テーマは政略結婚である。

17世紀後半の国際情勢

 17世紀後半、日本は江戸時代。鎖国を行った徳川家光の時代から、犬将軍こと徳川綱吉の時代。鎖国制度により海外との交流は統制。江戸時代らしさが形成される時代。忠臣蔵の舞台もこの次代である。

 17世紀後半は、アジア4大帝国の時代である。中国では、清王朝が中華統一。インドではムガル帝国が最大領土を獲得。イランでは、サファヴィー朝の時代。一方で、トルコのオスマン帝国では、第2次ウィーン包囲の失敗から衰退期へ入っていく。

 ヨーロッパの中心人物は、フランス国王ルイ14世である。この時期からフランスはアメリカやインドへの進出を開始する。一方、ドイツは三十年戦争で荒廃。イングランドはイギリス革命で混乱している。

スペイン継承戦争へ

スペイン=ハプスブルグ家の断絶

 カルロス2世は、00年に亡くなった。男子に恵まれず、スペイン=ハプスブルグ家は断絶した。

スペイン=ハプスブルグ家

 ハプスブルグ家は、16世紀なかばに、スペイン系とオーストリア系に分裂した。スペイン系は、カール5世の子であるフェリペ2世が継承。スペインの他にオランダ、イタリア、新大陸(南北アメリカ)を継承した。

 では、スペイン=ハプスブルグ家は短命に終わったのでエアロうか。その理由は、近親婚にあった。スペイン=ハプスブルグ家は、厳格なカトリック教であった。そのため、結婚できる王家はカトリック教のみであった。16世紀の宗教革命で西欧諸国はカトリックとプロテスタントに別れた。そのため、后を迎えられる王家は限定された。これにより近親婚が増加。乳幼児死亡率が増加し、後継者は現象し、17世紀末に断絶した。

候補1)オーストリア=ハプスブルグ家

 スペイン=ハプスブルク家を後継する第1候補は、オーストリア=ハプスブルグ家である。オーストリア=ハプスルク家は、スペイン=ハプスブルグの分家に当たる家系で、16世紀なかばに成立した。神聖ローマ皇帝の地位を継承。ウィーン(オーストリア)を拠点に中欧のチェコや東欧のハンガリーなどを支配していた。

 フェリペ2世の孫とひ孫が嫁いでいる。

 ただ、17世紀前半のドイツ三十年戦争に敗北。これにより、オーストリア=ハプスブルグ家の権威に陰りが見えた。

候補2)フランス=ブルボン家

 フランス=ブルボン家は、カペー家の血を引く家系である。16世紀後半のユグノー戦争でフランス王家になった。元々はカルヴァン派であった。フランス王家になる際に、カトリックに戻った。このとき、イタリアのメディチ家から后を迎えている。

 スペイン=ハプスブルグ家からは、フェリペ2世の孫とひ孫をフランス=ブルボン家に嫁いでいる。

 フランス=ブルボン家は、他の王家に比べると歴史が短い。しかし、ドイツ三十年戦争でオーストリア=ハプスブルグ家が手痛い。さらに、イングランドではイギリス革命が発生。内乱がなかったフランス=ブルボン家が台頭した。17世紀末には全盛期を迎える。このときの国王が太陽王ルイ14世である。

カルロス2世時代のロイヤルファミリー

カルロス2世

 カルロス2世は、スペイン=ハプスブルグ朝における最後の国王である。フェリペ2世から4代目に当たる。近親婚の繰り返しで生まれたときから病弱であった。

政治を取り仕切った母と兄

 61年、カルロス2世はわずか4歳で即位した。幼い子どもが政治を行うことができないので、母マリアナが摂政として政治を行った。母マリアは、オーストリア=ハプスブルク家出身である。

 しかし、77年、母マリアナを追放。異母兄のファンが政治を取り仕切った。兄ファンの母は、側室(元女優)である。そのため、王位継承権がなかった。79年、フランスからルイ14世の姪を王女として迎える。しかし、同じ79年に兄が死去。母マリアナが摂政に戻った。

 当時のスペインは不況であった。さらに、太陽王ルイ14世の侵略戦争の時代のため、多額の戦費で財政を圧迫していた。このため、政治は大いに混乱した。母マリアナの追放もその一環と考える。

病弱で子宝に恵まれず

 カルロス2世は2度結婚している。太陽王ルイ14世の姪とファルツ選帝侯の娘である。しかし、病弱のため、どちらにも子どもは生まれなかった。

 89年、王妃であるルイ14世の姪がわずか27歳で亡くなった。母マリアナは、ファルツ選帝侯の娘を新たの王妃としてむかえた。しかし、国王カルロス2世は、前王妃が忘れられず、新しい妻との間にも子どもができなかった。

 96年、母マリアナが死去。00年、国王カルロス2世はも崩御した。国王カルロス2世が後継者に指名したのは、亡き前王妃の実家であるフランス=ブルボン家からであった。

2人の姉妹の嫁ぎ先

 カルロス2世には、2人の姉がいた。異母の姉は、フランス=ブルボン家のルイ14世と結婚した。子宝に恵まれ、1人の男子が成人した。

 彼は、王太子になるも、フランス国王になる前になくなった。その子が、スペイン=ブルボン朝を開くスペイン国王フェリペ5世である。また、孫(ルイ14世から見るとひ孫)がフランス国王ルイ15世である。

 一方、もう一人の姉は、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚した。こちらは、子宝に恵まれず、後継者になれる男子が生まれず、女子が1人成人したのみとなった。

vs ルイ14世

ベルギー

 17世紀後半のスペインは、経済面で困窮していたその理由はルイ14世引き起こした侵略戦争にあった。フランス(ルイ14世)と戦った3つの戦争を新しい順に見ていきます。

 この3つの戦争でポイントになるのは、ベルギー(南ネーデルラント)である。

ファルツ継承戦争とアウクスブルク同盟

 最初は、ファルツ戦争である。88年、ルイ14世が継承権を主張してファルツへ侵攻。97年(スペイン継承戦争の4年前)に終結している。

 ファルツは、神聖ローマ帝国の一諸侯国である。ドイツ西部にある。神聖ローマ帝国内の強国の1つである。さらに、ウェストファリア条約でオランダとスイスが独立したことで、フランスと接する唯一の諸侯国になった。

 神聖ローマ皇帝レオポルト1世(オーストリア=ハプスブルク家)は、ヨーロッパ各国に同盟の声をかけた。これがアウクスブルク同盟である。そのため、ファルツ継承戦争は大同盟戦争とも呼ばれる。レオポルト1世は、第2次ウィーン包囲でオスマン帝国に勝利した英雄である。当時名声が高かった。オランダ侵略戦争後のオランダや北方の強国スウェーデンなどが参加した。

 イギリスは、フランスと同盟関係にあった。しかし、戦争が始まった翌89年に名誉革命が発生。新政権は、アウクスブルク同盟に参加した。

 スペインは、母マリアナの時代である。当然、実家のオーストリア=ハプスブルク家側であるアウクスブルク同盟側に参加した。

 戦争がはじまった翌89年、スペイン王妃でルイ14世の姪マリア=ルイサがなくなった。精神障害が原因であるとされているが、この戦争のさなかでなくなったので義母マリアナの毒殺説も流れた。新王妃として、ファルツ選帝侯の娘を迎えた。

 この戦争が、スペイン領西インド諸島も戦場になった。多くの島が一時フランス軍に支配された。

 96年、摂政でスペイン国王の母マリアナ(オーストリア=ハプスブルク家出身)が崩御。ルイ14世の興味は、ファルツから大国スペインへ移った。翌97年、ルイ14世は大幅に譲歩したライスワーク条約を締結して終結した。

 スペインは、西インド諸島では、ハイチ(エスパニョール島の東半分)をフランスに割譲するかわりに、それ以外の島からフランス軍を撤退させた。このハイチが、19世紀初頭に世界最初の黒人共和国になる。

 また、フランスはベルギー(南ネーデルラント)の領土をすべてスペインに返還させた。また、バルセロナを中心としたカタルーニャ地方をスペインに変換した。

 これらの譲歩は、自分の孫(フェリペ5世)がスペインを継承すればまたフランス領になると踏んでいた。

 一方で、このとき結ばれたアウクスブルク同盟は、01年のスペイン継承戦争で再び発動する。

オランダ侵略戦争

 72年、ルイ14世は、オランダへ侵攻した。オランダ侵略戦争である。

 きっかけは南ネーデルラント戦争である。オランダは、イギリス・スウェーデンと同盟を結び、スペイン(ベルギー)に味方したためである。ちなみに、オランダ総督は、名誉革命でイングランド国王になるウィリアム1世である。

 ルイ14世は、復古王政で国王になったチャールズ2世を味方につけた。これがドーヴァーの密約である。これは、ファルツ継承戦争中の名誉革命まで有効になる。

 これにより、オランダ侵略戦争と第3次英蘭戦争が同時進行で始まった。

 オランダは、これに対してスペインと神聖ローマ皇帝(オーストリア)と同盟を結んで抵抗した。

 74年、イングランド(チャールズ2世)が議会の承認を得られず戦線を離脱。

 一方で、77年、スペインでクーデターが発生。摂政である母マリアナが追放され、兄ファンが摂政になった。

 78年、フランス(ルイ14世)も講和。オランダの独立を承認する見返りに、ベルギーを獲得した。

南ネーデルラント戦争

 南ネーデルラント戦争とは、67年にフランスがスペイン領ベルギー(南ネーデルラント)にへ侵攻した戦争である。68年に終結。フランスはベルギーの一部を獲得した。

 この戦争の背景には、59年のピレネー条約がある。ピレネー条約では、スペインがフランスに賠償金を支払う見返りに、スペイン領土の保全を約束した。

 しかし、スペインは不況のため賠償金を支払うことができなかった。ルイ14世は、報復としてスペイン領ベルギーへ侵攻した。

独立したポルトガル

スリランカを失う

スペインからの独立

ピレネー条約

内容

フロンドの乱に介入

イギリスの王党派が亡命

スペイン、ウェストファリア条約に参加せず

ウェストファリア体制

オランダの独立

 スペイン継承戦争は、スペイン王位をめぐりフランスとオーストリア(神聖ローマ皇帝)の間で行われた戦争で合う。01年に始まり、13年のユトレヒト条約で終結した。

 当時のヨーロッパの戦争は全世界に飛び火した。特に戦場になったのはアメリカとインドである。

孤立するフランス

 フランスとオーストリアの間で行われた戦争であるが、多くのヨーロッパの国々はオーストリア側についた。その代表国は2つである。

 1カ国目は、イギリスである。イギリスは、アメリカとインドでフランスと植民地争奪戦(英仏第2次百年戦争)が行われていた。

 2カ国目は、プロイセン(のちのドイツ)である。プロイセンは、プロイセンは神聖ローマ帝国内の1諸侯国である。当時、プロイセンは公国であった。神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)は、スペイン継承戦争で味方することの見返りに、プロイセンを王国に昇格させた。

 スペイン継承戦争の前に、ヨーロッパ諸国が反フランスとして団結する戦争があった。88年に起きたファルツ戦争である。これにより、神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)を中心にアウクスブルク同盟が結成された。

きっかけはスペインの王位継承問題

 原因は、スペイン=ハプスブルグ家の王位継承問題である。

 00年、スペイン国王カルロス2世がなくなる。王位継承者になる息子も兄弟もいなかった。これにより、スペイン=ハプスブルグ家は断絶した。

 スペイン国王継承者に上がったのはカルロス2世の2人の姉妹の嫁ぎであった。フランス=ブルボン家とオーストリア=ハプスブルグ家である。

 この2つの家がスペイン王位を巡って起きたのがスペイン継承戦争である。

背景はルイ14世の領土拡大戦争

 18世紀初頭にヨーロッパの中心にいたのは、ルイ14世である。ルイ14世は、フランス国王で太陽王と呼ばれていた。

 この時代、貴族の発言力が低く、国会(三部会)も開かれていない。絶対王政の時代である。

 経済力も高い。インドやアメリカなどの海外植民地との交易で莫大の富を得ていた。

 絶対的な権力を使って、フランス国王14世が実施したのが領土拡大戦争である。