18世紀後半のスペイン スペインから見たアメリカ独立戦争 

前回の復習 1800年代のスペイン

 1800年代のスペイン。ナポレオン戦争の時代。スペインは、アポレオンと連携して親ナポレオン政権が成立。しかし、反フランスの政権ができると、ナポレオンの兄がスペイン国王になった。

18世紀後半の国際情勢

 1800年代、日本は江戸時代。田沼意次の政治と松平定信の寛政の改革の時代である。

 ヨーロッパは、革命の時代。七年戦争、アメリカ独立戦争が行われた。そして、18世紀末に起こったのフランス革命である。

フランス革命とスペイン

スペイン

 88年、カルロス4世が即位。保守派のゴドイ氏が宰相になった。ゴドイ氏は、前国王カルロス3世時代の啓蒙思想家たちは異端審問で次々失脚させた。

 93年、フランスが元国王ルイ16世を処刑。イギリスを中心に第1回対仏大同盟を結成。スペインはこれに参加した。

 96年、フランスで穏健共和政が成立すると、ゴドイ政権はフランスと和解。フランスと軍事同盟を結成。これで始まったのが、フランスのイタリア遠征である。

 98年、イギリスが第2回対仏大同盟を結成。スペインはイギリス軍の侵入を受ける。これにより、ゴドイ氏が失脚した。新政権が成立した。

 00年、新政権は、ナポレオンと交渉。フランスへのルイジアナ返還が秘密条約で決定される。

ポルトガル

 ポルトガルは、マリア1世の時代である。女王マリア1世は、ルイ16世の処刑でショックを受け、病に倒れる。三男のジョアン王子を摂政にした。

アメリカ独立戦争とスペイン・ポルトガル

フロリダの返還

 スペインは、アメリカ独立戦争ではアメリカ側で参戦。イギリスに勝利した。

 83年のパリ条約では、ミノルカ島とフロリダがイギリスから返還された。

 ミノルカ島は、スペインの近くにある地中海の島である。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際にイギリスに割譲した。

 フロリダは、アメリカ東海岸にある半島である。こちらは、七年戦争敗北時に、イギリスに譲渡された。

 この戦争で、北アメリカの植民地は、次のとおりになった。東部では、南のフロリダ半島とキューバ、プエルトリコが植民地になっていた。西部は、メキシコを中心にミシシッピ川から西はすべてスペイン領になっていた。

 ただ、この時代になるとスペインからアメリカに移住する人は少なくなった。変わりに移住したのがアメリカ人たちであった。

フランス・スペインの参戦

 76年、アメリカ13植民地は、アメリカ独立宣言を発表し、ヨーロッパ各国に支援を仰いだ。しかし、スペインを始め多くの国はこれに呼応しなかった。その理由は、アメリカが勝つ可能性がほぼ皆無と思われたからである。

 各国の思惑通り、独立軍は当初劣勢であった。しかし、77年サルトガの戦いで独立軍が勝利。これは、ヨーロッパ諸国は驚いた。78年、フランスが参戦。79年、スペインも参戦した。

その頃、ポルトガルは

 77年、ポルトガル女王マリア1世が即位。啓蒙思想家と親交の深い宰相ポンバル侯を更迭。過度な保守派の弾圧は終わった。

 一方で、ポンバル侯の工業化政策は継続。インフラ整備を続いた。ポルトガル産ワインやブラジル産砂糖の輸出で貿易黒字が続いていた。この黒字でインフラ整備が継続できた。当時の最大の貿易相手は産業革命最中のイギリスであった。

イエズス会の解散

 18世紀前半、清王朝で典礼問題が発生。これにより、イエズス会への批判が高まった。

 59年、ポルトガル宰相のポンバル侯は、イエズス会を国外追放した。列強はこれに追随した。スペインも67年に国外追放を行った。

 列強諸国は、ローマ教皇にイエズス会の解散を要求した。しかし、ローマ教皇は拒否した。77年に新教皇が即位。これに伴い

七年戦争とスペイン

パリ条約

 七年戦争で、フランスが敗北。63年にパリ条約が締結された。

 フランスは、パリ条約でルイジアナをイギリスに割譲した。

 ただ、守りにくいルイジアナ西部(ミシシッピ川より西)をスペインに譲渡。代わりにフロリダ半島を獲得した。

 これにより、北アメリカの植民地は、東部は西インド諸島のキューバとプエルトリコのみになった。一方、西部はメキシコ、カリフォルニアなどのアメリカ西海岸、テキサスなどルイジアナ西部など大部分がスペイン領となった。

フランス陣営のスペイン

 スペインは、同じブルボン朝のフランスと同盟関係にあり、フランス陣営で参戦した。

 当時の国王は、フェリペ5世の子であるフィルディナント6世である。しかし、国王フィルディナント6世は七年戦争中に死去。両シチリア王国(南イタリア)のカルロス3世がスペイン王に即位した。

イギリス陣営のポルトガル

 一方、ポルトガルは、イギリス陣営で参戦した。当時の国王は、ジョゼ1世。ポンバル侯を宰相として工業化を勧めた。また、イギリスとの交易を拡大。ブラジル産砂糖やポルトガル産ワインの輸出で貿易黒字を拡大した。これを利用して、工業化を勧めた。

フレンチ・インディアン戦争とメキシコ

 七年戦争は、植民地も巻き込んだ戦争であった。アメリカで起きたのがフレンチ・インディアン戦争である。

 イギリスは、ニューヨークなどアメリカ東海岸(アパラチア山脈の東)に13植民地を建設していた。移民によって自給自足経済を営んでいた。

 フランスは、ミシシッピ川を中心にアメリカ中央部の大平原を植民地にしていた。移民は少なく、先住民であるネイティブ・アメリカン(インディアン)との交易が主要な産業であった。

 スペインは、北米ではメキシコに拠点をおき、カリフォエルニア(西海岸)、テキサス(中西部)、フロリダ(東海岸)などを

南米での戦争

 世界史の教科書にはほとんど記載がないが、南アメリカも七年戦争の舞台になった。

 ポルトガル領のブラジルとスペイン領ラテンアメリカの国境争いである。スペイン領ラテンアメリカでは、北のコロンビアと南のアルゼンチンである。

 この2つの地域は、1810年代のラテンアメリカ独立運動の指導者が現れる。コロンビアでは、ボリビアの語源になったシモン・ボリバルが登場。アルゼンチンでは、サン=マルティンが誕生した。

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