18世紀前半のフランス 太陽王ルイ14世の没落

前回の復習 フランス革命前夜

 18世紀は、フランス最後の王朝ブルボン朝の時代。

 七年戦争に敗北したフランスは、すべての植民地を失い、財政難になる。これがフランス革命につながる。

 フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。

 カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝

18世紀前半の国際情勢

 日本は、江戸時代中期。米将軍徳川吉宗の享保の改革が行われた時代である。

 中国は、清王朝の時代。康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代皇帝の時代である。

 ヨーロッパでは、イギリスは産業革命が始まる頃である。

戦争の歴史

スペイン継承戦争

 ヨーロッパの18世紀の始まりは、スペイン継承戦争であった。スペイン継承戦争は、スペイン=ハプスブルグ家が断絶。オーストリア=ハプスブルク家とフランス=ブルボン家がスペインの王位を巡って戦った。

 オーストリア側には2つの有力国がついた。1つは、プロイセン公国である。プロイセンは、当時軍事大国であった。王国への昇格を条件にオーストリアを支援した。もう1つは、イングランドである。当時、イングランドは、フランスと植民地戦争を展開していた。イングランドはアン女王の時代。スチュアート朝最後の女王である。イングランドは、スコットランドと合同し、大ブリテン王国が成立した。

フランス(ブルボン家)オーストリア(ハプスブルグ家)
プロイセン公国
 (ホーエンツォレルン家)
イングランド
(スチュアート朝)

 この当時の戦争は、英仏植民地戦争と連動していた。アメリカでは、アン女王戦争が行われたいた。

 13年、スペイン継承戦争が終結。ユトレヒト条約で講和した。フランス=ブルボン家でルイ14世の孫のフェリペ5世がスペイン国王に即位した。しかし、フランスとスペインは多くの領土を割譲した。また、条件として、フランス=ブルボン家とスペイン=ブルボン家の合同は認めないこととした。また、スペイン王室が持っていたアシエント権は、フランス商人ではなく、イギリス商人に与えられた。

 その2年後の15年、太陽王ルイ14世がなくなる。ユトレヒト条約でスペイン国王フェリペ5世は、フランスの王位継承権を放棄していた。そのため、太陽王ルイ14世のひ孫がルイ15世が国王に即位した。フェリペ5世の甥に当たる。

ポーランド継承戦争

 舞台は、東欧のポーランドに移る。ポーランドは選挙王制を取っていた。

 33年、ポーランド前国王が死去。ポーランドは選挙王政を取っていた。ルイ15世の義理の父が即位した。これに対して、隣国のオーストリアロシアが待ったをかけた。当時のロシアは、北方戦争に勝利したピョートル大帝の時代である。

 フランスは、親戚筋のスペインと、サルディーニャ王国(後のイタリア王国)の支援を受けて、オーストリアに侵攻した。これが、ポーランド継承戦争の始まりである。

フランス(ブルボン家)オーストリア(ハプスブルグ家)
スペイン
 (ブルボン家)
サルディーニャ王国
 (イタリア)
ロシア(ロマノフ朝)

 フランスは、戦争を優位に勧めた。フランスは、ロレーヌを獲得。サルディーニャ王国も北イタリアのオーストリア領を獲得していった。

 しかし、ポーランドでは、ロシア軍が進軍。ポーランド国王が失脚した。フランスは、ロシアとの直接対決を避けるため、35年10月に講話した。

 フランスは、ロシアが指名する国王を承認する代わりに、オーストリアから領土を獲得した。

 フランスは、オーストリアのロレーヌ公国を獲得。娘婿のロレーヌ大公は、北イタリアのトスカーナ公(フィレンツェ)についた。

 スペインは、スペイン継承戦争で失った、南イタリア(ナポリとシチリア島)を奪回した。

オーストリア継承戦争

 ポーランド継承戦争の5年後、神聖ローマ皇帝カール5世(オーストリア=ハプスブルグ家)がなくなった。領土(オーストリア公、ボヘミア女王<チェコ>、ハンガリー女王)を娘のマリア=テレジアに、皇帝の地位をトスカーナ公(元ロレーヌ公)の娘婿に与えた。

 南ドイツのバイエルン公(ミュンヘン)なども、神聖ローマ皇帝を主張した。ここで出てきたのが、プロイセン王である。プロイセン王は、トスカーナ公の皇帝就任を容認する代わりに、オーストリア領チェコのシュレジエンを要求した。しかし、オーストリアはこれを拒否。

 シュレジエンは、資源豊かな有数の工業地帯である。チェコの影響でプロテスタントが多い。住民は、カトリックのオーストリアよりも、プロテスタントのプロイセン王を支持していた。

 40年、プロイセン王は、シュレジエンへ侵攻した。これが七年戦争の始まりである。

 オーストリアは、プロイセンの東西の両側の大国に援軍を求めた。イギリス王になっていたハノーファー選定侯とロシアである。一方、フランスのルイ15世は、オーストリアのさらなる弱体化を目指して、バイエルン・プロイセン連合軍を支援した。

プロイセン
(ホーエンツォレルン家)
バイエルン
(南ドイツ)
オーストリア
(ハプスブルグ家)
フランス
(ブルボン家)
スペイン
(ブルボン家・分家)
イギリス
(ハノーヴァ朝)
ロシア
(ロマノフ朝)

 この戦争も、英仏植民地百年戦争に連動した。アメリカ(新大陸)では、ジェンキンズの耳戦争とジョージ王戦争が展開された。インドでは、カーナティック戦争が展開された。

 48年10月、アーヘンの和約が結ばれ、オーストリア継承戦争は終結した。内容は、以下の通りである。

  • マリア=テレジアは、オーストリア領の相続を認める。
  • 神聖ローマ皇帝は、マリア=テレジアの夫(トスカーナ公)とする。
  • プロイセンは、オーストリア領のシュレジエンを獲得
  • スペインは、オーストリアが保有する北イタリアの2つの都市を獲得
  • アメリカ(新大陸)とインドについての取り決めはなかった。

 フランスは、この戦争でオーストリア=ハプスブルグ家の弱体化に成功したが、プロイセン王国やイギリスなどの新たな強国をしゅつげんさせた。また、フランスはこの戦争でなにもえることができなかった。そのため、フランス王室への不満は更に高まった。

外交革命と七年戦争

 マリア=テレジアは、オーストリア継承戦争で失ったシュレジエン奪還を試みた。そこで行われたのが56年の外交革命である。

 マリア=テレジアは、海外に軍隊を置くイギリスと手を切り、フランス(ブルボン朝)と手を組むことにした。16世紀のイタリア戦争以降対立を続けていたフランスとオーストリアの同盟は、世界を驚かせた。

 この同盟を強固なものとするために行われたのが、皇太子だったルイ16世とマリア=テレジアの娘であるマリー・アントワネットの結婚である。この2人は、フランス革命時にギロチンにかけられた。

 56年、オーストリア、フランスとロシアの3国で同盟を締結。七年戦争が勃発した。

プロイセン
(ホーエンツォレルン家)
バイエルン
(南ドイツ)
オーストリア
(ハプスブルグ家)
イギリス
(ハノーファー朝)
フランス
(ブルボン朝)

スペイン
(ブルボン朝・分家)
ロシア
(ロマノフ朝)

ブルボン朝

太陽王ルイ14世

 ルイ14世は、17世紀半ばに即位。当初は、マザラン宰相が国王の代わりに政治を取り仕切っていた。その後、宰相を廃止し、親政をおこなう。主な政策は以下の通りである。

  • 数多くの戦争の実施
  • 新大陸(アメリカ)、インドでの植民地経営
  • ヴェルサイユ宮殿の造営

ルイ15世

 スペイン継承戦争終結の2年後の15年、太陽王ルイ14世は、なくなった。

 子はすでになくなっており、孫の世代になっていた。ルイ14世には2人の孫がいた。皇太子であった孫は、スペイン王フェリペ5世になっていた。しかし、ユトレヒト条約でフランス王位継承権を失っていた。

 そのため、フェリペ5世の甥(ルイ14世のひ孫)がルイ15世として即位した。妻は、ポーランド貴族の娘であった。その後、義父がポーランド国王に選出された。

皇太子 ルイ16世

 フランス革命で処刑されるルイ16世は、ルイ15世の息子である。56年の外交革命の際に、オーストリア王室からマリア=テレジアの娘であるマリー=アントワネットと結婚する。

英仏百年戦争

英仏植民地百年戦争

 英仏植民地百年戦争とは、17世紀末から19世紀初頭にかけておこなわれた植民地(新大陸とインド)を舞台にした戦争である。

 英蘭戦争が終結し、イギリスが本格的に植民地経営に向かい始めた頃に始まる。おもにヨーロッパでの戦争と連携した行われた。

ヨーロッパアメリカインド
1688ファルツ戦争ウィリアム王戦争
1701スペイン継承戦争アン女王戦争
1746オーストリア継承戦争ジェンキンズの耳戦争
ジョージ王戦争
カーナティック戦争①
1756七年戦争フレンチ
=インディアン戦争
カーナティック戦争③
プラッシーの戦い
1778アメリカ独立戦争
1783フランス革命
1805ナポレオン戦争

前史)ルイ14世の植民地経営

 ヨーロッパが海外植民地に本格的に進んだのは、16世紀の大航海時代である。最初に開始したのは、スペインとポルトガル出会った。

 17世紀初頭、後進国として3つの国が参加した。イングランド(イギリス)、オランダとフランスである。イギリスとオランダは、東インド会社を設立した。

 フランスは、17世紀初頭にカナダへの植民を開始した。

 17世紀半ばに、太陽王ルイ14世の親政が始まると、東インド会社を設立した。本格的に植民地経営を開始した。ライバルのイングランドは、イギリス革命(清教徒革命、名誉革命)と英蘭戦争で混乱していた。

 フランスは、イングランドやオランダと違い、温暖な気候のため、移住しようとする人は少ない。また、後発のため、劣勢になっている。そのため、現地の有力者と繋がり、現地商品の売買が主たる植民地での事業であった。

 そして、英蘭戦争が終結すると、英仏植民地百年戦争が始まる。

アメリカ(新大陸)

前史

 新大陸は、スペインの植民でスタートした。その後、イギリスとオランダがアメリカ大陸東海岸に、フランスがカナダに進出した。英蘭戦争が終結すると、アメリカ大陸東海岸は、すべてイングランドの植民地になった。

 ルイ14世の時代に入ると、カナダからミシシッピ川に入り、アメリカ大陸中央部も探索を開始。ミシシッピ川を拠点にアメリカ中央部の植民を開始した。ミシシッピ川を中心としたアメリカ中央部の大平原は、ルイジアナと呼ばれる。ただ、フランスの植民は、ネイティブアメリカンとの交易が中心であった。

 フランスの植民は、交易が中心だったため、原住民のネイティグアメリカンとの関係は良好であった。一方で、イングランドの植民は、移住が目的である。そのため、ネイティブアメリカンの土地を次々と奪っていった。そのため、ネイティブアメリカンとの関係は良くなかった。

89年、ウィリアム王戦争

 88年、ファルツ継承戦争が始まると、イングランドは、対フランスの大同盟を締結。フランスは、89年、カナダ(ケベック)からニューイングランド(ボストンなど)へ侵攻した。これが、ウィリアム王戦争である。

 この戦争は、土地を奪われたネイティブアメリカンがフランス軍を支援。さらに、名誉革命直後のため、イングランド軍も前国王派と現国王派の内部対立が起きていた。そのため、イギリスは劣勢であった。

 しかし、イングランドもフランスも植民地をそれほど重要視していなかった。そのため、講和条件についても植民地に関する条項はなかった。

 ただ、スペインから西インド諸島のハイチを獲得している。

 ただ、イングランドは、カナダのフランス軍の重要性を認識した。

02年 アン女王戦争とアシエント権

 02年、スペイン=ハプスブルグ家が断絶。ルイ14世の孫がフェリペ5世が即位した。

 当時のスペイン王室は、大きな利権を持っていた。それが、新大陸にあるスペイン植民地への黒人奴隷の販売権である。これをアシエント権という。フェリペ5世は即位すると、フランス商人にこれを与えた。

 ルイ14世は、ウィリアム戦争を優位に勧めたにも関わらず、アメリカ植民地の拡大させなかった。そのため、貿易に関わる商人から大きな批判を浴びた。その不満を解消するために行ったのが、フランス商人へのアシエント権の付与であった。

 イングランドは、これを奪いに行くために、オーストリア=ハプスブルグ家のカール6世をスペイン王につけようと画策した。これがスペイン継承戦争の始まりである。

 この戦争では、ニューイングランド(ボストンなど)の他、ハイチのある西インド諸島にも戦場になった。ネイティブアメリカンはフランスを支援したが、イギリスは、本国から大量の援軍を送った。そのため、イギリス優勢で戦争が終結した。

 13年のユトレヒト条約では、フランスは、イギリスに2つのもを与えた。

  • アシエント権
  • カナダ(ハドソン湾、アカディア、ニューファンドランド)

39年 ジェンキンズの耳戦争

 イギリス商人は、アシエント権を獲得したが、それは、一定のルールのもとである。

 39年、イギリス商人ジェンキンズらが、密貿易の疑いでスペインの新大陸政府に拿捕された。イギリス本国政府は、これを受けて、スペイン(ブルボン朝)に侵攻した。これがジェンキンズの耳戦争である。

 戦場は、西インド諸島が中心となった。とくにスペイン最大の拠点キューバは最大の戦場になった。また、東海岸南部も戦場になった。スペイン領フロリダや、イギリス植民地ジョージアが主戦場になった。

 チェロキー族などイギリスに味方したネイティブアメリカンもいた。

 この戦争は、40年に始まるオーストリア継承戦争とも連動していく。

44年 ジョージ王戦争

 40年に、オーストリア継承戦争が起こる。48年、新大陸の戦場も拡大した。これがジョージ王戦争である。

 主戦場は、アメリカ植民地とフランス領ルイジアナとの国境であるアパラチア山脈周辺に広がった。

 48年、アーヘンの和約では、原状回復に戻すことで講話した。

フレンチ=インディアン戦争へ

 55年、本国で七年戦争が勃発すると、アメリカでは、フレンチ=インディアン戦争が勃発する。

インド

前史

 17世紀のインドは、ムガル帝国の時代である。17世紀後半は、アウラングゼーブ帝の時代である。ムガル帝国は、南インドを占領した。しかし、アウラングゼーブ帝が亡くなると、衰退気に入っていく。

 インドへ最初に進出したのは、ポルトガルである。16世紀にインド南西部にゴアを築いた。

 17世紀前半、イングランドは、アンボイナ事件に敗北。東南アジアから撤退した。代わりに拠点を置いたのがインドであった。イギリス東インド会社は3つの拠点を置いた。西部のボンベイ、南部(東岸)マドラス、そして、インド東部のカルカッタである。

 17世紀半ば、ルイ14世は東インド会社を設立。マドラスの南部にポンディシェリ、カルカッタの北(内陸)にシャンデルナゴルの拠点を建設した。

カーナティック戦争

 18世紀初頭は、ムガル帝国の強い基盤があるので大きな戦争が怒らなかった。しかし、18世紀半ばになるとムガル帝国は衰退。都のデリーから遠い南部から分裂が始まった。

 戦争が最初に起こったのは、インド南部のマドラス(イギリス)とポンディシェリ(フランス)であった。

 インド南部の有力者は、イギリスかフランスに結びついた。

 40年にオーストリア継承戦争が勃発。44年、第1次カーナティック戦争が勃発。フランスが優勢でマドラスを占領した。しかし、48年に、オーストリア継承戦争が終結。海外植民地については原状回復の取り決めがったので、フランスは、イギリスにマドラスを変換した。

 50年、カーナティックの太守をめぐり、有力者が対立。第2次カーナティック戦争が勃発。フランスが敗北。フランスは、ポンディシェリを含むインド南部から撤退した。

 58年、プラッシーの戦いが勃発すると、フランス軍は再び南インドへ侵攻した。第3次カーナティック戦争である。

プラッシーの戦い

 57年、戦争の舞台はインド東部のベンガル地方にまで広がった。この地方は、インドとミャンマーの間の地域で、ガンジス川の下流域である。そのため、コメがよく取れる豊かな地域である。

 57年、本国で七年戦争が勃発。カルカッタのイギリス商館では、フランス軍の侵攻にそなえて、軍備を増強した。これにより、ベンガル太守とイギリス東インド会社が対立。

 ベンガル太守は、シャンデルナゴルのフランス軍と連携して、カルカッタへ侵攻した。これがプラッシーの戦いである。

 この戦争は、第3次カーナティックへ飛び火した。

文化)ロココ

ロココ

 18世紀にはいると、豪壮華麗なバロック美術から、繊細優美なロココ美術に映った。

 ロココ美術の特徴は、軽やかで優美なデザイン、自然の要素への傾倒、そして愛や楽しみを称賛することにあった。

 絵画では、フランスのワトーが有名である。建築では、プロイセンのサンスーシ宮殿が有名である。

 当時の芸術家は、貴族に認められてサロンに参加した。

モンテスキュー

 モンテスキューは、18世紀前半のフランスの啓蒙思想家である。アカデミー=フランセーズの会員となった。

 フランスの啓蒙思想家は、貴族が作るサロンに参加していた。モンテスキューもその一人である。

 48年、『法の精神』を発表。イギリスの議会制度やロックの司会契約論を参考に、三権分立の考えを発表。ルイ14世の絶対王政を批判した。