前回の復習 7世紀のドイツ
7世紀のドイツはフランク王国の時代である。この時代はメロヴィング朝の時代である。この時代のフランク王国は分裂と再統一を繰り返していた。7世紀初頭にクロタール2世が再統一したが、その後分裂した。これにより国王の権威は低下していった。代わりに台頭してきたのが、有力貴族で宮宰のカロリング家であった。
さて、今回は、初代国王グローヴィスがフランク王国を拡大していく過程を見ていきます。
フランク王国国王クロタール1世
クロタール1世とは
クロタール1世は、6世紀半ばのフランク王国の国王である。7世紀初頭に活躍するクロタール2世の祖父で、建国者グローヴィスの子に当たる。
4つの地域
フランク王国は、7世紀初頭にクロタール2世が統一する前、4つの地域に分割統治されていた。北東部のアウストラシア、南東部のブルグンド、南西部のアキテーヌ、そして北西部のネウストリアである。
この分割は。クロタール1世が死んだときに息子たち分割相続した際に発生したものである。
ザクセン侵攻
クロタール1世は、フランク王国を再統一するとザクセンへ侵攻した。ザクセン軍に勝利し、ザクセンに対して上納金(牛1000頭)を要求したものの、国家は存続させた。
ザクセンは、ゲルマン民族の1つで、ドイツ北東部に拠点を置いていた。5世紀には、この部族の一部がイギリス(イングランド)へ渡り、アングロ=サクソン人になった。
フランク王国再統一
ブランク王国は、グローヴィスの死後兄弟たちで分割相続された。5世紀半ばになると、兄弟たちがなくなり、クロタール1世がフランク王国全体を統治するようになった。
ブルグンドを併合
キリスト教アタナシウス派へ改宗したほかのゲルマン民族を次々と滅亡させていった。その一つがブルグンド王国である。
ブルグンド王国は、フランス南東部を支配していた。この地域はアルプス山脈のふもとで山間地になっていた。5世紀にはアジア系騎馬民族のフン族の支配下に入った。その後再興した。34年にフランク王国によって滅亡した。
フランク王国の時代もこの地域はブルグンドとよばれ、フランス王国の時代に入るとブルゴーニュ地方と呼ばれるようになる。14世紀の百年戦争出てくるブルゴーニュ派はこの地の領主である。
ユスティアヌス帝とクロタール1世
ユスティアヌス帝とは
ユスティアヌス帝は、6世紀前半の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝である。地中海を再統一し、『ローマ法大全』の編纂やハギア=ソフィア大聖堂(イスタンブル)の建築を行った。
イタリア
当時のイタリアはどうだったのだろうか。
5世紀に、西ローマ帝国が滅亡すると、東ゴート王国が建国された。クロタール1世(フランク王国)は。この時南フランスのプロヴァンス地方(フラン南東部で、地中海沿岸部)を譲り受けた。
ユスティアヌス帝は、イタリアへ侵攻した。この時ともにイタリアへ入ったのがランゴバルド族である。東ゴート王国は滅亡した。
ユスティアヌス帝が亡くなると、東ローマ帝国は衰退。ランゴバルド族は独立し、ランゴバルド王国を建国した。
北アフリカ
北アフリカは、ヴァンダル王国があったが、ユスティアヌス帝の時代に滅亡した。8世紀にイスラム勢力が入ってくるまで東ローマ帝国領であった。
グローヴィスとフランク王国の拡大
西ゴート王国から、南フランスを
西ゴード王国は、ゲルマン民族西ゴート族が作った国である。。5世紀には南フランス(アキテーヌ)に拠点を置いて、ヴァンダル王国から奪ったスペイン(イベリア半島)を支配していた。
6世紀初頭に南フランス(アキテーヌ)をフランク王国に奪われると、拠点をスペイン(イベリア半島)のトレドへ移した。6世紀湖畔にはキリスト教アタナシウス派へ改宗した。
7世紀に、ユダヤ教徒の弾圧が行われた。8世紀初頭、イスラム教ウマイヤ朝によって滅ぼされる。その背景にはユダヤ教徒がイスラム教を支援したといわれている。
これは、イスラム教はキリスト教徒に対して寛容であったことが原因といわれる。イラン人やトルコ人などの異教徒でも回収すれば出世できたし、シズヤ(人頭税)を支払えばイスラム教以外の信仰も認められた。
グローヴィスの改宗
5世紀末、フランク王国と西ゴート王国は南フランス(アキテーヌ)をめぐり争っていた。この地域は、イタリアに近くラテン人が多く住んでいた。ラテン人の多くはキリスト教アタナシウス派を侵攻していた。両国は、ラテン人を味方につけるためにアタナシウス派への改宗を検討した。
当時、フランク王国はゲルマン民族の民族宗教を信仰していた。一方、西ゴート王国は、異端とされたキリスト教アリウス派を信仰していた。結果、フランク王国のグローヴィスが先にキリスト教アタナシウス派へ改宗。東ローマ帝国からコンスルの称号を得て、アキテーヌ(南フランス)を獲得した。