前回の復習 1940年代前半のイタリア
1940年代、イタリアは第二次世界大戦に敗北。ムッソリーニ政権は崩壊した。
さて、1930年代の世界のキーワードは3つである。戦間期後半。世界恐慌。そして、ヒトラーである。
第二次世界大戦へ
第二次世界大戦勃発、
39年8月、ヒトラー(ドイツ)はソ連と不可侵条約を締結。翌9月、ヒトラーはポーランドへ侵攻した。
イギリスとフランスは、これを受けてドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発した。
この時、イタリアのムッソリーニは、中立の立場をとった。イタリアが参戦したのはパリ陥落の直前の40年6月であった。
アルバニア併合
アルバニアは、アドリア海に面したバルカン半島西部の国である。バルカン半島の中ではイスラム教徒が多く居住する国である。
39年3月、ドイツのヒトラーは中欧のチェコスロヴァキアを併合した。ミュンヘン会談を完全に無視した。
翌4月、イタリアのムッソリーニはバルカン半島のアルバニアを併合した。
5月、イタリアとドイツは軍事同盟を締結。その年の9月に第二次世界大戦が勃発する。
アルバニアはその後、イタリアの統治下に入った。43年9月にイタリアが米英連合軍に降伏するとドイツの支配下に入った。
44年、ユーゴスラビア共産党の支援で独立。共産党政権が成立した。しかし、ユーゴスラビアの共産党と関係はよくなかった。そのため、スターリンのとの関係を深めたい。50年代にスターリン批判が行われ、ユーゴとソ連の関係が改善。アルバニア共産党はソ連と距離を置くようになる。同じ頃、中ソ対立が勃発。アルバニアは、中国に接近した。
90年代に、民主化し現在に至る。
ミュンヘン会談
国際連盟は、日本、ドイツ、イタリアの主要国の離脱により機能不全に陥った。
一方、ヒトラーは35年に再軍備宣言。その後周辺国を併合していった。
38年9月、イギリスのチェンバレン首相の働きかけで国際会議が開催された。この時呼ばれたのが、イギリス、ドイツのほか、フランスとイタリアが参加した。この会議にソ連は呼ばれなかった。
この会議で、ドイツは、チェコスロヴァキアの一部(スデーデン地方)を獲得することで休戦することを約束した。
ムッソリーニとヒトラー
日独伊防共協定
35年、ソ連で第7回コミンテルン大会が開催。ここで、ドイツのナチ党や日本の軍国主義政権などのファシズム勢力と戦う人民戦線の結成が決まった。コミンテルンとは、ロシア革命後に結成された国際的な共産主義運動の集まりである。
翌36年11月、名指しされたドイツと日本は、ソ連を仮想的にした日独防共協定を結んだ。翌37年にイタリアも参加。日独伊防共協定になった。
ドイツ=イタリア枢軸
ヒトラー(ドイツ)とムッソリーニ(イタリア)の関係は、最初から良好ではなかった。ヒトラーはイタリア人を信用しなかったし、ムッソリーニもヒトラーがオーストリアへ侵攻することを経過していた。35年3月のドイツの再軍備宣言の時にはイギリス・フランスとともにヒトラーを批判した。
しかし、エチオピア侵攻でイタリアは国際連盟を離脱。イタリアと英仏の間に亀裂が生じた。
36年7月、スペイン内戦が勃発。ドイツとイタリアはフランコ将軍の反乱軍を支援。
10月、ヒトラーとムッソリーニはベルリン枢軸を締結。翌11月、ムッソリーニは北イタリアのミラノで枢軸演説を行った。
スペイン内戦
スペインは、31年の地方選挙で共和政支持派が大勝。これにより、国王は退位し国外へ逃亡した。スペイン=ブルボン朝が終わり、第二共和政へ移行した。
32年、世界恐慌が深刻化していった。そのような中、33年に総選挙。共和派が大敗した。旧王党派政権が成立。共和政支持者や社会主義者の弾圧が行われた。
34年、社会主義者が反乱。王党派政権は、フランコ将軍らを使い、これを鎮圧した。この部隊は植民地のモロッコ人を中飛であった。しかし、あまりに非道な弾圧で王党派政権は支持を失った。
36年1月、総選挙で王党派政権が敗北。社会主義者を中心とした人民戦線内閣が発足した。
同年7月、フランコ将軍はクーデターを決行した。ドイツとイタリアはこの反乱軍に援軍を送った。人民戦線内閣はヨーロッパ各国に援軍を求めた。ソ連は援軍を送ったが、イギリス・フランスは援軍を送らなかった。そのため、スペイン内戦はソ連とドイツの代理戦争となった。
では、なぜイギリスとフランスは人民戦線内閣に援軍を送らなかったのであろうか。イギリスは、保守党政権がブロック経済を利用して世界恐慌を脱却しつつあった。そのため、ソ連の支援に消極的であった。一方で、フランスはスペインと同じ人民戦線内閣であったが、世論が反社会主義であったため援軍を送ることができなかった。
38年9月、ミュンヘン会談でスターリンが英仏に反発。スペインから軍隊をひきあげた。そして、39年1月、スペイン内戦が終結。人民戦線内閣の第二共和政は崩壊。フランコ政権が成立した。
エチオピア侵攻と国際連盟離脱
イタリアの海外植民地は2つである。北アフリカのリビアと東アフリカのソマリアである。
ソマリアは、スエズ運河の出口にある国で海上交易上重要な国である。現在でもソマリアの海賊が問題になった。その近郊にエチオピアが存在する。
35年10月、イタリアはソマリアの隣のエチオピアへ侵攻。36年5月、ムッソリーニはエチオピア併合を発表。
イギリスは、すぐさま反発。国際連盟を通じてイタリアへの経済制裁へ踏み切った。しかし、これが国際連盟の機能不全を意味するものとなった。日本とドイツが離脱し大国はフランスとイギリスのみになっていた。また、世界恐慌の最中の経済政策である。ブロック経済政策でフランスとイギリスは保護貿易政策を進めていた。そのため、一部の国は経済制裁を無視してイタリアと交易を続けた。
37年、イタリアは経済制裁に反発し、国際連盟を離脱。なお、エチオピアは、42年のイタリアの降伏まで続いた。
世界大恐慌
世界大恐慌
29年10月、ニューヨーク市場で株価が大暴落。これをきっかけに世界恐慌は始まった。32年にはピークを迎えた。イギリスなどの植民地大国はブロック経済に踏み切った。そのため、小ミンチの少ないイタリアの不況は深刻なものになった。
第2回ワールドカップ
34年、ムッソリーニは第2回ワールドカップを開催。その2年後の36年、ヒトラーがベルリンオリンピックを開催。世界恐慌の脱却を内外にしめした。