紀元前6世紀のイタリア 共和政ローマの成立

前回の復習 紀元前5世紀のイタリア

 古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。紀元前5世紀のローマは、1つの都市国家に過ぎなかった。北部にはエルトリア人やケルト人などの異民族がローマの征服を狙っていた。一方で南部は、ギリシャの植民市が点在。フェニキア人と地中海交易をめぐり戦い続けていた。

 この共和政ローマは紀元前6世紀に成立した。この建国過程を見ていきます。

紀元前6世紀のオリエント

 ローマの建国過程を見る前に、紀元前6世紀のオリエント(ギリシャ・中東)を見ていきましょう。

 ギリシャでは、アテネの民主化政策が進んだ時代です。ソロンの改革や僭主政治が起きたのもこの時代である。

 一方、中東は、7世紀末にアッシリア帝国が分裂。50年にイラン系のアケメネス朝が再統一を行った。

 民主化が進んだギリシャと中東を統一したアケメネス朝は、5世紀に入り激突する。ペルシャ戦争である。

貴族共和政

貴族

 紀元前5世紀から、紀元前3世紀まで続いた身分闘争の時代は、平民が参政権を獲得していく一連の流れである。それ以前の政治は、貴族共和政という。貴族のみで政治が行われていた。ここでは、貴族共和政を見ていく。

 ローマの人々は3つの階級に分かれていた。市民である貴族(パトリキ)と平民(プレブス)。奴隷階級である。

 貴族とは、建国当時の上層市民の家柄。多くの土地と奴隷を所有。コンスル(執政官)や元老院議員など政府高官は、貴族が持ち回りで担当した。これが貴族共和政である。

大統領→コンスル(執政官)

 コンスル(執政官)とは、現在で言う大統領のような存在である。行政・財政・軍事の最高権限を有していた。

 ただ、コンスルの暴走を防ぐために2つの対策が打たれた。任期は1年とした。2名を選出し、両者の合意を必要とした。市民全員(貴族+平民)で構成される兵員会で選出。貴族しか就くことができなかった。

 紀元前5世紀初頭、聖山事件で、護民官が設置。

 紀元前4世紀半ば、リキニウス・セクスティウス法が制定。コンスルの1人が平民になることが決まった。

国会→元老院

 ローマでは、王政の時代から存在する民会が議会の役割を担った。代表的なものは、兵員会でローマ市民全員で構成され、実際の議論は行われず採決のみが行われた。議会というよりは簡易版国民投票のようなものであった。

 共和政が成立すると、コンスルの諮問機関として元老院が設置された。コンスルは元老院の決定に従うようになり、事実上の最高意思決定機関になった。

 元老院は、終身議員である。死亡などで欠員が出るとコンスルなどの政府高官経験者から新たな議員が補充された。すなわち、殺害や死刑以外に解任することができない。結果、元老院は大きな権限を持っていた。

 紀元前5世紀初頭に、平民会を設置。しかし、国法にするには元老院の承認を必要とした。

 紀元前3世紀初頭、ホルテンシウス法が成立。国法制定に元老院の承認が必要なくなった。

 紀元前1世紀、三頭政治や帝政によりコンスルの権限が強化。元老院は次第に弱体化していった。

裁判所→神のお告げ

 裁判は、貴族である神官が神のお告げとして判決を出した。

 ただし、死刑は民会で決定した。

 紀元前5世紀半ばに、十二表法が制定。裁判に一定の制限が加わった。 

共和政ローマの成立

コンスル(執政官)の設置

 09年、ローマはエルトリア人の王を追放。ラテン人国家を設置した。貴族たちは、王を選ばず、元老院による合議制で政治を行おうとした。これが貴族共和政である。

 国王の代わりに政治を行うものとして、元老院の代表であるコンスル(執政官)を設置した。

 6世紀なかばのアテネでは僭主政治が横行。執政官の暴走が問題視されていた。そのため、ローマでは、任期の設定や2名による合議制でこれを防止した。

国王の追放

 紀元前6世紀、ローマは異民族のエルトリア人の王の支配を受けていた。(なお、ローマはラテン人である。)09年、ローマの貴族は、国王を国外追放。ラテン人国家を建設した。 

王政期の元老院

 元老院は、王政の時代から王の諮問機関として存在していた。このメンバーは、ローマの有力者で構成されていた。このメンバーが後の貴族(パトリキ)と呼ばれる人々である。

王政期

 ローマは、7世紀末からエルトリア人の支配下に置かれた。

 一定の自治は認められ、民会(平民全体による議会)や元老院(有力者による王の諮問機関)は存在していた。

ローマの建国神話

 ローマは、トロイア戦争時のトロイアの英雄アイネイスが紀元前10世紀半ばに建国したとされている。

 トロイアは小アジア(トルコの西端)にあり、紀元前13世紀にギリシャ人によって滅亡した国である。英雄アイネイスは亡命。地中海を転々とし、たどり着いたのがローマである。その現地の王の娘と結婚。ローマの王になった。

 その後、兄弟で王位継承争いが発生。兄がなくなり、弟が王になる。兄の一族は皆殺しになった。その中で、娘が一人、殺されずに巫女になった。その娘が軍神のマルスの子を身ごもり、双子を産む。王になった弟は、この2人を川に流した。双子は、川岸に流れ着いた。双子たちは、狼に育てられた。羊飼いに発見され成人になる。

 双子たちは、仇討に成功。王を殺害した。その後、占いで兄のロムルスが王になった。その都がローマである。ロムルスが王になった。

北方の異民族

ギリシャの植民市 シラクサ

イタリアにあった植民市

カルタゴとフェニキア人

ペルシャ戦争へ

サミラスの海戦

 身分闘争とは、紀元前5世紀から3世紀にかけて、共和政ローマの平民が参政権を獲得していく一連の流れをいう。

 ローマの人々は、市民と奴隷で構成された。市民は、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)に分けれられた。

 貴族と平民は、家柄で決まっていた。政治は貴族のみで行われていた。

平民が大統領(執政官)に

 67年、リキニウス・セクスティウス法が成立した。その内容は以下の3つである。

  • コンスル(執政官)の1人を平民から選出する。
  • 農地に保有制限を与える。
  • 借金の減免

コンスル(執政官)とは

 コンスルとは、現代で言うと大統領に当たる役職である。共和政ローマは、国王のいない国である。国王に代わる役職として設置されたのがコンスル(執政官)である。

 執政官は、議会に当たる民会の議決で決定される。任期を1年にし、2名置くことで独裁を防止した。

原因)異民族の侵入

 紀元前4世紀初頭、共和政ローマに多くの異民族が侵入。エルトリア人やケルト人などである。ケルト人の侵入の際には多額の賠償金を支払った。

 貴族たちは、これに危機感を感じ、平民の参政権を拡大した。さらに、借金の減免や土地所有制限で貴族と平民の経済格差の是正に努めた。

影響)第1次サムニウム戦争に勝利

 リキニウス・セクスティウス法の効果は、すぐ現れた。第1次サムニウム戦争の勝利である。この戦争に勝利。ラテン同盟の盟主的存在になった。その後、共和政ローマは地中海沿岸に広がる大国へ成長していく。

影響)新貴族の誕生

 コンスルに選ばれる平民は、当然戦場で活躍した人になる。そのため、自前に軍備を整えられる富裕層に限られるようになった。結果、コンスルは少数の富裕層が持ち回りするようになった。彼らは新貴族(ノビレス)と呼ばれれるようになった。

シチリア島と哲学者プラトン

 その頃、南イタリアはギリシャの植民市が多数存在した。シチリア島のシラクサもその1つであった。シラクサでは、政治顧問として哲学者のプラトンが度々訪れた。

 プラトンは、紀元前4世紀前半のギリシャの哲学者である。師は、紀元前5世紀後半に活躍したソクラテスである。弟子には、4世紀後半に活躍したアリストテレスがいる。アリストテレスは、アレキサンダー大王の可提供であったことでも有名である。