16世紀後半の日本 信長と秀吉

前回の復習 17世紀前半の日本

 17世紀は、江戸時代である。戦国時代の覇者である徳川家康が江戸幕府を開いた。

 今回は、戦国時代のクライマックスである織田信長・豊臣秀吉の時代を見ていきます。歴史区分で行くと安土桃山時代に当たる。

16世紀後半の国際情勢

 16世紀は、大航海時代である。16世紀後半はスペインの全盛期である。スペインはポルトガルを併合。アメリカ大陸からアジアまでに広がる。太陽の沈まぬ国となった。

 宗教戦争の時代でもある。フランスでは、ユグノー戦争が起こっている。

 中国は明王朝の末期。北虜南倭の混乱期である。

流れ)武断政治

概要

 16世紀後半の日本は、戦国時代の末期。2人の天下人の時代である。織田信長と豊臣秀吉である。

 織田信長は、60年の桶狭間の戦いで有力大名の仲間入り。その後、68年に、将軍足利義昭を奉じて上洛。その後、京都の安定に務める。72年、将軍足利義昭を京都から追放。その後、畿内の平定を完了するも、82年の本能寺の変で亡くなる。

 これを引き継いだのが、信長の家臣であった豊臣秀吉である。山崎の戦いで信長の敵である明智光秀を討つ。その後、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破った。

 しかし、84年の小牧長久手の戦いで苦戦。武力での統一から、権威への統一へシフト。関白・太政大臣に就任。その後、四国、九州を征討。90年に関東の北条家が降伏し、天下統一が成立する。

 秀吉は、天下統一を果たすと、朝鮮出兵を実施。一方で、幼い豊臣秀頼への継承をすすめていった。そのような中、98年、豊臣秀吉が亡くなる。そして、江戸時代(徳川の世)の泰平の世につながる。

織田信長① 桶狭間の戦い

 前半では、15世紀なかば(1550年代)の日本各地の様子を見ていき、後半で桶狭間の戦いを見ていく。

 まずは、日本の中心である京都の様子を見て行きましょう。京都は、天下人三好長慶の時代。49年、三好長慶は将軍足利義晴(義昭の父)を京都から追放。義晴は近江六角氏を頼った。58年、近江六角氏の仲介で、将軍足利義輝(義晴の子で、義昭の兄)を三好長慶が和睦した。

 その頃、織田信長はどうだったでしょうか。51年に家督を相続。当時の織田家は、北尾張と南尾張の2つの家に分裂していた。南尾張の織田家の分家です。信長は、55年に南尾張の当主になり、清州城に入城。翌56年、義父である美濃(岐阜県南部)の斎藤道三(あだ名は、美濃のマムシ)が息子の斎藤義龍のクーデターで亡くなる。これにより、美濃との同盟関係がなくなる。56年、実弟のクーデターを鎮圧した。このクーデターには、柴田勝家などの有力家臣も参加した。59年、権威付けのために、上洛。三好長慶と和睦した足利義輝に謁見した。このとき、多くの戦国大名が上洛した。その一人が、織田信長である。また、奥州探題に伊達晴宗、九州探題に大友宗麟が就任。血縁とは関係なく、実力で選ぶようになった。これにより、下剋上が加速した。

 一方、桶狭間の戦いで敗れる今川義元はどのような人物であったたろうか。今川家は、室町幕府の名門の家系で、駿府の守護である。当時は、駿府(静岡市など静岡東部)、遠江(浜松市など静岡西部)、三河(豊橋市など愛知県東部)などを勢力下においていた。54年、甲斐(山梨)の武田信玄、相模(神奈川)の北条氏康と同盟を結んでいた。

 60年、桶狭間の戦いが起こる。昔は、今川義元の上洛戦といわれていたが、現在では西尾張の領土争いと言われている。50年代の織田家は先述の通り、弟のクーデターなど内紛状態であった。そのため、西尾張の国人の中には織田では今川に臣従するものも出ていた。その国人を守るための出兵であった。その先陣を務めていた三河の国人衆でトップは松平元康(後の徳川家康)である。今川は大軍で進軍。今川軍の圧倒的優位であった。

 しかし、信長の奇襲で今川義元を討ち取る。これにより、今川軍が撤兵。桶狭間の戦いは、信長勝利で終わった。

 では、この時のそれ以外の地域はどうであったろうか。まずは、東日本の中心地である関東である。こちらは、河越夜戦に勝利した北条氏康が権威を振るっていた。51年、関東管領(山内上杉家)の拠点である平井城を落城。52年、古河公方は娘婿になっていた氏康の甥が就任。54年、今川義元、武田信玄と甲相駿三国同盟を成立させた。桶狭間の戦いが起きた60年、

 一方、敗北した関東管領を務める山内上杉家は、どうであろうか。51年、本拠地である平井城が落城。関東管領は、越後(新潟)へ亡命。57年、越後の長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領の地位を継承。上杉謙信と名乗る。そして、北条討伐を開始。

 東北では、伊達政宗の父である伊達晴宗が父を追放した(天文の乱)。この混乱で、最上氏(米沢)、蘆名氏(会津)などの有力国人が台頭した。59年、足利義輝は、伊達晴宗を奥州探題に就任。

 甲信越では、越後(新潟)の長尾景虎(上杉謙信)と甲斐(山梨)の武田信玄が台頭していた。51年、長尾景虎は、関東管領を保護。53年から、北信濃を巡り、長尾景虎と武田信玄が戦う。川中島の戦いである。54年、武田信玄は、北条氏康、今川義元とともに甲相駿三国同盟を成立。57年、長尾景虎が関東管領になり、上杉謙信と名乗る。ここから、上杉謙信の北条討伐がはじまる。

 中国地方は、周防(山口)の大内家が勢力を広めていた。51年、その大売り家でクーデター(大寧寺の変)。家臣の陶氏が実験を握る。55年、厳島の戦いで、毛利元就が陶氏に勝利。毛利元就が中国地方最大勢力になる。

 四国では、讃岐(香川)と阿波(とくしま)は三好家が統治。土佐(高知)では、細川家の影響力が弱まり、国人たちが台頭していた。(土佐七雄)。伊予(愛媛)では、河野家が引き続き統治していた。

 北九州では、周防(山口)の大内氏、豊後(大分)の大友氏、肥前(佐賀、長崎)の少弐氏が勢力を争っていた。50年、大友氏で家督争い。大友宗麟が家督争いに勝利する。51年、大内氏でクーデター、九州から撤退。57年には、北九州の大部分が大友氏の勢力下に。59年(桶狭間の戦いの前年)、将軍足利義輝は、大友宗麟が九州探題に就任。同じ頃、肥前の少弐氏で、下剋上。家臣の龍造寺隆信が統治するようになる。

 南九州では、有力国人がしのぎを削っていたが、大隅・薩摩(鹿児島)の島津氏と日向(宮崎)の伊東氏の二大勢力に統一された。

織田信長② 上洛                                                                                                                          

 60年、信長は桶狭間の戦いに勝利。67年に美濃を平定。翌68年、上洛を果たす。この時期の全国の様子を見ていこう。

 まずは、信長の様子を見ていきましょう。60年に桶狭間の戦いに勝利。翌61年、義兄の斎藤義龍が亡くなる。斎藤龍興が家督相続。信長は、このときに美濃へ侵攻したが撃退される。ここから、美濃平定戦がはじまる。翌62年、三河の松平家康(後の徳川家康)と同盟(清州同盟)。これにより、家康は、今川家から完全に独立。一方で、信長は、尾張東部の安全が確保できた。

 翌63年、信長は居城を清須城から美濃に近い小牧山城に移す。一方、家康は、清州同盟の2年後の64年、三河一向一揆に苦しむ。65年、信長は甲斐の武田信玄と同盟を結ぶ。信長の娘が、信玄の息子の勝頼に嫁いだ。これにより、美濃平定後も、東の信州(長野)から侵攻を受ける可能性はなくなった。ただ、美濃平定は長期戦になった。その突破口開いたのは、秀吉と言われている。66年の墨俣一夜城の逸話である。秀吉は、川並衆の蜂須賀家の支援で、墨俣に一夜で築城したと言われている。翌67年、信長は、北近江(滋賀県北部)の浅井家と同盟。妹を浅井家の若き当主浅井長政に嫁がせる。浅井長政は、南近江の六角氏と交戦中であった。67年、斎藤龍興の稲葉山城を落城。これには、美濃の有力国人である美濃三人衆が信長側についたためと言われる。

 そして、翌68年、上洛に向かっていく。まず、信長の三男(信孝)が、伊勢の神戸氏の養子になる。7月、信長は、将軍足利義昭に謁見。上洛を約束。9月、南近江の六角氏に勝利。上洛を果たす。

 そのころ、京都は混乱していた。64年、天下人の三好長慶が病気で亡くなる。翌65年、再び将軍暗殺事件が起こる(永禄の変)。三好三兄弟が将軍義輝を暗殺する。2年後の67年、大和(奈良)の松永久秀が三好三兄弟を撃退(東大寺大仏殿の戦い)。この戦いで、東大寺の大仏殿が消失した。翌68年9月、信長上洛。この時、松永久秀は信長を支援した。10月、足利義昭が将軍になる。

 関東は、関東管領に勝利した北条氏康と関東管領を相続した上杉謙信(長尾景虎)の戦いが展開された。61年、上杉謙信は小田原城包囲を実施。しかし落城までは至らなかった。この時、鶴岡八幡宮で関東管領就任のセレモニーが実施された。66年、上杉謙信は白井城の戦いで敗北。かつての勢いがなくなった。

 東北は、67年(信長上洛の前年)に伊達政宗が誕生した。

 甲信越は、60年の桶狭間の戦いに敗北した今川家が衰退。三河の松平(徳川)家と甲斐の武田家が今川の領土の分割を行う。64年、川中島の戦いが終わる。65年、武田信玄は、織田信長と同盟を締結。

 中国は、66年(信長上洛の2年前)に、毛利元就が山陰(島根)の尼子氏を滅ぼす。(第2次月山富田城の戦い)

 四国は、信長が上洛した68年に、毛利氏が伊予(愛媛)へ侵攻した。

 九州は、信長上洛の68年に、毛利元就と大友宗麟(大分)が福岡を巡り戦った。(立花山城の戦い)

織田信長③ 本能寺の変

 68年9月、信長が上洛。しかし、上洛後、信長と将軍足利義昭の関係が悪化。足利義昭を中心に反信長包囲網を結成。しかし、武田信玄の死で崩壊。72年、将軍足利義昭は京都追放。事実上、室町幕府が滅亡した。しかし、信長の栄華は続かなかった。足利義昭が京都を離れた10年後、本能寺の変で、信長は暗殺される。

 68年9月、信長上洛。この時、各地でも紛争が展開された。武田信玄は、甲相駿三国同盟を破棄し、今川の本拠地である駿河へ侵攻した。毛利元就は、四国(伊予・愛媛)や福岡(立花山城の戦い)へ侵攻した。

 畿内では、

 70年、姉川の戦いで、近江(滋賀)の浅井家と越前(福井)の朝倉家の連合軍を破り、その後両家を滅ぼした。
 朝倉家は、福井の有力大名であった。68年、織田信長は京都に入京すると、諸大名に将軍への挨拶を求めた。これは、足利義昭の将軍就任の権威付けとと同時に、織田信長がNo2であることを承認することを示すことになる。朝倉家は後者を承認することができず、挨拶を拒否し続けた。

 翌71年、比叡山延暦寺(滋賀県)を焼き討ち。延暦寺は、朝倉家・浅井家を支援していたためである。

 同71年、石山本願寺と石山戦争が始まる。

 73年、甲斐(山梨)の武田信玄が病死。織田信長は、足利義昭を京都から追放。これにより、室町幕府は終焉した。年号を転生に改める。ちなみに、足利義昭は、中国地方の毛利家に身を寄せた。

 信長は、戦争を繰り返す一方で、応仁の乱で荒廃した京都の復興も行った。現在の京都の町並みは、信長秀吉の時代に構築された。

 74年、伊勢(三重県)の一向一揆を鎮圧。(石山戦争)

 75年、織田信長は大量の鉄砲を使って武田軍を破った。これが長篠の戦いである。その後、武田家は滅亡した。また、越前の一向一揆も鎮圧。

 76年、近江(滋賀県)に安土城の築城を開始する。このとき、安土の楽市令がだされる。このときの史料が現在も残っている。

 80年、一向一揆の総本山である石山本願寺を屈服。石山戦争が終結。

 82年、中国征伐に向かう途中で京都の本願寺で有力家臣の明智光秀によって打たれた。

豊臣秀吉① 天下統一

 82年の本能寺の変で信長亡くなると、次に頭角を現したのが豊臣秀吉である。84年の小牧長久手の戦いで家康と和睦。その後、秀吉は、関白に就任し、惣無事令を発布。権威と圧倒的な軍事力で90年天下統一を果たす。

86年6月、清須会議

 82年6月、本能寺の変。同6月、羽柴(豊臣)秀吉が、明智光秀を討つ。

 同月、家臣たちは、清須に集まり会議を開いた。清須会議である。議題は、2つ。1つは、織田家の家督の問題。2つ目は、山崎の戦いの論功行賞である。この会議の様子は、「清須会議」として映画化された。

 参加者は、5人の方面部隊長が務めた。北陸方面部隊長の柴田勝家、中国方面部隊長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)、四国方面部隊長の丹羽長秀、関東方面部隊長の滝川一益、そして、畿内方面部隊長である。畿内方面部隊長である。畿内方面部隊長は、明智光秀であった。池田恒興がこれを引き継いで、この会議から参加した。そして、滝川一益は、後北条氏との戦闘が終わらなかったため、子の会議に参加できなかった。

 家督争いは、次男の信雄と三男信孝が争ったというのが通説であった。しかし、最新の研究では、幼少(2歳)の三法師への家督継承は決まっていて、中継ぎの家督(名代)が議論されたとされている。信雄は、伊勢の北畠家の養子に入っていた。信長に無断で伊賀を攻め大敗したたため、信長の評価が低かった。信孝は、三男であるが信雄と同い年である。伊勢の神戸氏の養子にはいった。四国征伐・山崎の戦いで総大将を務めている。この会議の結果は、中継ぎは置かず、次男の信雄と三男信孝が後見役、傅役(もりやく)に堀秀政が務めた。

 論功行賞でのテーマは、信長・信忠の旧領の再配分と明智の旧領の再配分であった。再配分の結果は以下の通りである。

  • 三法師(信忠の子) ▶ 安土城(近江)とその周辺
  • 信雄(次男)▶ 清州城と尾張
  • 信孝(三男)▶ 岐阜城と美濃
  • 信長の四男(秀吉の養子)▶ 明智光秀の旧領である丹波
  • 羽柴秀吉 ▶ 播磨(兵庫南西部)を領有。長浜城を返却。京都のある山城を獲得。
  • 柴田勝家 ▶ 越前(福井県北部)を領有。秀吉から長浜城を引き継ぐ
  • 丹羽長秀 ▶ 若狭(福井県南部)を領有。近江の一部を加増。
  • 池田恒興 ▶ 摂津(大阪・神戸)の領地を加増

 秀吉は、京都のある山城を獲得し、経済力と公家とのネットワークをより強固にした。また、このときに、柴田勝家とお市の方は結婚。お市の方と浅井三姉妹は、柴田勝家

 本能寺の変の後、旧武田領(長野・山梨)では、天正壬午の乱が起こる。本能寺の変の前の3月、甲斐武田家が滅亡。関東方面部隊の滝川一益が旧武田領を獲得した。6月、滝川一益が神通川の戦いで後北条氏に大敗。旧武田領から撤兵した。清須会議では、旧武田領については、同盟国の徳川家康がこの戦いを引き継ぐことになった。このあと、上杉(越後・新潟)、北条(関東)、徳川(東海)による分割された。また、真田家のように、この気に独立を図ろうとする国人も現れた。これが、天正壬午の乱である。

 83年10月、徳川家康と北条氏直が講和。

84年、賤ケ岳の戦い(vs 柴田勝家)

 83年9月、お市の方が京都で百日法要をしめやかに開催。翌10月、羽柴秀吉が信長の葬儀を盛大に開催。京都人々は、秀吉が信長の後継者と認識する。

 岐阜の織田信孝は、清須会議のあとも三法師を保護し続けていた。しかし、10月、秀吉は岐阜城を包囲。三法師を引き渡した。

 この時、秀吉と勝家は工作展開した。秀吉は、上杉景勝と連携。さらに、信孝の領国美濃では、稲葉一鉄ら国人と連携した。一方、柴田勝家・織田信孝は、織田家重臣の佐久間盛政や滝川一益と連携。和歌山の雑賀衆、四国の長宗我部、中国で秀吉と交戦中の毛利と連携した。

 83年12月、雪で柴田勝家が動けないタイミングで、岐阜城へ侵攻した。毛利への守りのために、山陰に宮部継潤(浅井攻めの際に調略、秀次の養父)、山陽に蜂須賀正勝(墨俣一夜城で活躍)を配置。長浜城を陥落。岐阜の織田信孝を降伏させた。

 翌84年正月、伊勢の滝川一益(勝家軍)が挙兵。柴田勝家は、将軍足利義昭を通じて毛利輝元に出兵を要請した。一方、羽柴秀吉は、尾張の織田信雄を担ぎ出し、大義名分を得た。83年3月、雪が溶けて柴田勝家も進軍。織田信孝(勝家軍)も挙兵した。

 加藤清正・福島正則ら賤ケ岳七本槍の活躍は、前田利家の中立などがあり、秀吉軍が勝利した。

 4月、柴田勝家・お市の方夫妻が北ノ庄城で自刃。浅井三姉妹は秀吉の幼女になった。また、織田信孝も自刃。佐久間盛政は戦死した。

 この結果を見て、毛利輝元は、秀吉と講話した。

84年、小牧長久手の戦い(vs 徳川家康)

 家康は、賤ケ岳の戦いで中立を保った。この時、秀吉は連携しては行けない相手と連携した。越後の上杉景勝である。上杉景勝は、家康と同盟中の後北条家から来た養子を廃嫡して上杉謙信の後継者になった。そのため、後北条家と上杉景勝は戦闘中であった。

 小牧・長久手の戦いの講和を受けて、官位による停戦に舵を切った。85年、関白に就任。86年、太政大臣になった。その中で、諸大名に惣無事令を出し、許可なき戦の禁止をした。

 惣無事令を使って、86年に四国征伐。87年に九州征伐を実施。そして、90年に小田原征伐を実施。全国統一を果たした。

 82年、本能寺の変で織田信長が暗殺される。しかし、亡骸が見つからなかったので生死の状況が判明しなかった。そのため、生存しているかもしれない織田信長を恐れて、細川氏など京都にいた有力武将は、明智光秀に味方しなかった。ちなみに、このとき、安土城は消失した。

 当時、有力な家臣団は交戦中で京都を離れていた。

 ライバルの柴田勝家は北陸地方(富山)で、上杉謙信と交戦中。

 滝川一益は、関東地方(群馬)で北条勢と交戦中。撤退戦に失敗し、清須会議にも間に合わなかった。

 丹羽長秀は、信長の

 豊臣秀吉は、中国地方(岡山)で毛利勢と交戦中。備中高松城の水攻めを実施。秀吉は、三成の使者を捕らえる。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、毛利と和睦。山崎の戦いで明智光秀に勝利した。余談だが、このときに勝敗を分けた山が天王山である。のちに、ここ一番の戦いのことを天王山と言われるようになる。

 その後、清須会議にて、後継者が行われた。秀吉は、山崎の戦いでの活躍によって主導権を握った。

 翌83年、織田家臣団の筆頭であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに勝利。羽柴秀吉が織田信長の後継者の地位を確立した。

 同83年、石山本願寺の跡地に大阪城の築城を開始した。

 しかし、羽柴政権に待ったをかける大名がいた。織田信長と同盟関係にあった徳川家康である。徳川家康は、元今川家や元武田系の武将を味方に引き入れて、有力家臣団を構築した。

 84年、徳川家康は、織田信長の三男織田信雄を担いで羽柴秀吉に反旗を翻した。これが小牧・長久手の戦いである。羽柴軍は劣勢であったがなんとか和睦することができた。

 羽柴秀吉は、武力による天下統一を諦め、朝廷権威を用いた天下統一を検討した。85年、摂関家(藤原家)の養子になり、関白に就任。関白名で惣無事令を出した。惣無事令は、分国法の喧嘩両成敗の全国版である。これにより、朝廷(秀吉)の許可なく戦争が禁止された。また、両国の配分は、朝廷(秀吉)が決めることになった。

 同85年、四国の長宗我部元親を滅ぼし、四国を平定した。

 翌86年、太政大臣に就任。豊臣秀吉と名乗るようになる。

 87年、惣無事令違反で、南九州の島津へ侵攻(九州征伐)。また、

 このとき対馬の宗氏を通じて、日本への朝貢と明への侵攻を求めた。当然、朝鮮はこれを拒否した。

 このとき、秀吉は、多くのキリシタン大名がおり、土地を寄進していることを知った。これにより、秀吉は、キリシタンを警戒するようになった。大名のキリスト教入信を許可制にした。また、バテレン追放令をだし、宣教師を国外追放した。

 88年4月、京都に聚楽第が完成。後陽成天皇を歓待した。また、このとき、全国の大名を京都に呼び寄せ、天皇と秀吉に忠誠を誓わせた。同じ頃、大阪城が完成した。

 このとき、海賊取り締まり令を出し、倭寇などの海賊行為を禁止した。

 九州征討で、西日本の戦国時代は終わった。しかし、関東・東北では戦国時代が続いた。89年6月、伊達政宗が会津の蘆名氏を滅ぼす。秀吉は、上杉景勝(越後)、佐竹氏(常陸北部)に伊達政宗征討令が出される。伊達政宗は、弁明の使者を京都に送った。この弁明の間に、関東で新たな戦闘が起こる。関東の雄、北条氏が真田家の城(名胡桃城)を落城する。

 90年、小田原征伐。89年11月、北条氏の惣無事令違反により、全国の諸大名に小田原征伐を命令した。この惣無事令違反は、北条家が真田家の城を奪ったことである。関東・東北の諸大名は、秀吉と北条家どちらにつくか選択を迫られた。翌90年3月、秀吉、出陣。6月、伊達政宗が豊臣秀吉に謁見。7月、北条家が降伏。小田原征伐を実施した。

 秀吉は、家康に、北条家の旧領などの関東(関八州)への移封を命ずる。
 家康の旧領である東海(愛知東部、静岡など)は、山内一豊など関東恩顧の武将に分け与えた。

 関東の大部分は、家康の家臣でわけられたが、一部在地の大名が残った。早めに参陣した常陸(茨城県)北部の佐竹氏は、所領を安堵。安房(千葉県南部)の里見家は、減封されたが領地は残った。

 秀吉は、その後の8月、会津に入り、東北諸大名の論功行賞を実施した。参陣しなかった葛西氏、大崎氏は改易。伊達政宗は会津を没収された。会津には、東北の治安維持のために蒲生氏郷が派遣された。10月、改易された葛西氏、大崎氏の国人が一揆を起こす。蒲生氏郷や伊達政宗が鎮圧した。葛西・大崎一揆の中心であった仙台周辺は伊達政宗の領地になる。仙台伊達家はここにはじまる。
 

豊臣秀吉② 90年代 朝鮮出兵

 90年、豊臣秀吉が全国統一。ここから、秀吉の暴走がはじまる。翌92年、朝鮮出兵。翌98年、秀吉、没。徳川家康と前田利家が朝鮮出兵の撤兵を決定した。90年代の大きなポイントは、2つ。1つは朝鮮出兵であり、2つ目は秀吉の後継者問題である。

 90年、小田原征伐が完了し、天下統一を果たす。この年、キーパーソンが1人この世を去る。大和大納言こと豊臣秀長(秀吉の弟)である。これにより、ブレーキ役がいなくなる。

 それが表面化したのが、翌91年2月の千利休の切腹である。8月、嫡男鶴松が亡くなる。これを受け、12月に秀吉は甥の秀次に関白職を譲る。9月には東北北部の南部氏で九戸政実の乱が起こる。京都では御土居(おどい)が完成。

 92年1月、秀吉は諸将に朝鮮出兵を命じる。九州の大名になっていた加藤清正、小西行長などが先陣を切った。5月には、漢城(ソウル)に入城した。一方、国内では7月に秀吉の母で大政所がなくなる。8月には伏見城の築城がはじまる。この年、秀吉最初の改元である「文禄」を行う。織田秀信(信長の孫・三法師)が岐阜城の城主に。

 93年8月、豊臣秀頼が誕生。翌94年、伏見城(別名、桃山城)が完成。秀吉は桃山城に拠点を移す。ここから、秀吉の治世を桃山時代と呼ばれる。秀頼誕生の2年後(95年)、謀反の疑いで関白の秀頼が自害。その後、秀頼の関係者が処刑される。秀頼の祟りが起こる。96年07月、関西で大地震が起こる(慶長伏見大地震)。この地震を受けて、10月に「慶長」に改元した。ちなみに江戸幕府の最初も最後(慶応)も慶の文字が入っている。

 一方、朝鮮出兵は、96年9月、和平交渉が決裂。朝鮮出兵は再開された(慶長の役)。翌97年1月、加藤清正と小西行長が再び朝鮮半島に上陸した。

 98年、秀吉は寿命を感じるようになる。1月、上杉景勝が会津に移封。会津の蒲生氏郷は、関東の下野国(栃木)に移封。越後には、豊臣恩顧の堀家が入った。3月、秀吉は醍醐の花見を開催。秀頼の継承を依頼した。7月、秀吉は、諸大名に秀頼への忠誠を誓う誓詞を要求。

関ヶ原の戦いへ

 98年、秀吉が亡くなると、名目上は幼い秀次が天下人になった。これを支えたのが、徳川家康など5人の有力大名で構成される五大老と石田三成など有力文官を中心とした五奉行が支えた。

 秀吉が亡くなると、五大老の徳川家康と前田利家は朝鮮から撤兵を決定。これにより、朝鮮出兵はここに終わる。

 そのような中、朝鮮戦争の恩賞をめぐり、豊臣恩顧の武将は、福島正則ら武官と明智光秀ら文官で対立。この対立を利用したのが徳川家康であった。

 99年1月、秀頼は伏見城から大阪城に拠点を移す。ここで、前田利家が徳川家康に対して、誓約違反を詰問。2月に、前田利家と徳川家康が伏見で会見した。その閏3月に、前田利家もこの世を去った。その翌日、武官と文官の亀裂が表面化。石田三成襲撃事件が起こる。

 9月、前田利長(利家の子)に謀反の疑いがかかる。その後、上杉景勝にも、謀反の疑いがかる。

 翌00年5月、家康は、上杉景勝討伐を命ずる。翌6月も家康も出陣。7月、石田三成らが挙兵。関ヶ原の戦いへ向かう。家康討伐軍は、小山評定を行い。三成討伐に向かった。

 8月、西軍が家康の重臣である鳥居元忠が守る伏見城を落城。8月、東軍は、織田秀信の岐阜城を落城。9月1日、家康が江戸を出立。そして、9月15日に関ヶ原の戦いが起こる。

政治

信長はなぜ強かったのか?

 戦国時代の武士は、戦争がないと領地に戻り農作業を行っていた。そのため、戦争が農閑期(農作業の少ない時期)に行われた。

 しかし、信長は、武士を領地から切り離し城下町に住まわした。そのため、農閑期と関係なく戦争を行うことができた。それが可能になった。

 その背景には、尾張(名古屋)の豊かさがあった。朝倉家の福井や武田家の山梨県は、名古屋にくらべて収穫高が低くかった。そのため、武士も農作業を行わないと食べていけない。しかし、尾張は温暖であるとともに、京都に近いため最新の農業技術が伝わっていた。そのため、収穫高が高い。更に、漁業や商業も盛んなため、分業が可能になった。

惣無事令と裁判所

 日本は、狭い。また、工業化する前の日本は、土地(農地)は、重要な資産であった。そのため、中世は土地トラブルが発生した。

 現在の日本で言う金銭トラブルのようなものである。現在日本では、金銭トラブルが当事者間で解決できないときには、裁判所に判断を仰ぐ。

 鎌倉・室町時代は、幕府の問注所がこのトラブルを解決した。

 しかし、戦国時代に入ると幕府の権威がなくなった。そのかわりを担ったのが戦国大名であり、その判断基準が分国法であった。

 惣無事令は、そのトラブルを朝廷に戻す手続きである。

 これ以降は、惣無事令違反に基づく戦いになる。

兵農分離

太閤検地

朝廷(京都)

外交)南蛮貿易

南蛮貿易

カトリック

朝鮮出兵

経済

楽市楽座

 安土桃山時代、商業は急速に発展した。

 室町時代、商業は厳しい税金が課せられた。お店を開くには、寺社などの土地の有力者の許可が必要であった。この許可を得た商人の組合が座である。また、主要な街道では関所が設置され、通行料が取られた。

 信長は、商業の活性化を重視した。座や関所を次々廃止した。

 76年に、楽市令を出し、商業の自由化を認めた。

 また、大阪南部の堺では、商人の自治都市堺があった。信長は堺を武力で屈服。堺を直轄領にした。

京都の再興

信長・秀吉の経済基盤

文化)桃山文化

特色

 戦乱は続いていたが、織田信長・豊臣秀吉によって、京都を中心とした近畿地方は平安が訪れた。これにより、文化の中心は、京都や大坂に戻った。

 しかし文化の中心人物は代わった。公家や有力守護大名から、富と権力を握った戦国大名や大商人に代わった。新鮮味あふれる豪華で壮大な文化を生み出した。

 また、西洋の文化の影響を受けるようになった。

武家文化 建築

 桃山文化の特色は、城郭建築である。有力大名は、近畿地方の平地に巨大な城を築くようになった。

  • 安土城(滋賀県) 織田信長
  • 大阪城(大阪府) 豊臣秀吉
  • 伏見城(京都南部)豊臣秀吉<別名、桃山城>

 城の内部は、書院造

武家文化 絵画

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