16世紀後半の日本 信長と秀吉

前回の復習 17世紀前半の日本

 17世紀は、江戸時代である。戦国時代の覇者である徳川家康が江戸幕府を開いた。

 今回は、戦国時代のクライマックスである織田信長・豊臣秀吉の時代を見ていきます。歴史区分で行くと安土桃山時代に当たる。

16世紀後半の国際情勢

 16世紀は、大航海時代である。16世紀後半はスペインの全盛期である。スペインはポルトガルを併合。アメリカ大陸からアジアまでに広がる。太陽の沈まぬ国となった。

 宗教戦争の時代でもある。フランスでは、ユグノー戦争が起こっている。

 中国は明王朝の末期。北虜南倭の混乱期である。

流れ)武断政治

織田信長① Road to 京都

 織田信長の織田家は、尾張の守護代の家である。尾張は愛知県東部、名古屋市のあるエリアである。畿内の東外れに当たる地域防衛の要であった。さらに海に面していて交易が盛んな地域でもあった。ちなみに尾張の守護は、三管領の斯波家であった。

 60年、織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元に勝利した。今川家は足利将軍家の分家で、駿河(静岡県東部)、遠江(静岡県西部)を治めた中部地方の大大名の1つであった。

 織田信長は、美濃(岐阜県)の大名である斎藤道三の娘を妻に取った。67年、斎藤家が治める美濃を攻略。拠点を尾張から美濃へ移した。この地を岐阜と名付けた。このときから、「天下布武」の印判を使用を始める。

織田信長② 室町幕府の滅亡

 そのころ、京都は混乱していた。京都は応仁の乱で荒廃していた。65年、13代将軍足利義輝が暗殺される(永禄の変)。三好三人衆と松永久秀であった。このとき、義輝の弟は、京都を脱出。越前(福井)の朝倉景勝を頼った。

 足利義昭は、67年に織田信長が美濃を攻略すると、美濃へ移動。68年、足利義昭は、織田信長の支援で京都へ入京。前将軍を追放し、将軍に就任した。

 しかし、その後、織田信長と将軍足利義昭の関係が悪化。将軍足利義昭は、有力戦国大名と結んで信長包囲網を結成した。すべての戦国大名と戦わざるを得なくなった。

 70年、姉川の戦いで、近江(滋賀)の浅井家と越前(福井)の朝倉家の連合軍を破り、その後両家を滅ぼした。
 朝倉家は、福井の有力大名であった。68年、織田信長は京都に入京すると、諸大名に将軍への挨拶を求めた。これは、足利義昭の将軍就任の権威付けとと同時に、織田信長がNo2であることを承認することを示すことになる。朝倉家は後者を承認することができず、挨拶を拒否し続けた。

 翌71年、比叡山延暦寺(滋賀県)を焼き討ち。延暦寺は、朝倉家・浅井家を支援していたためである。

 同71年、石山本願寺と石山戦争が始まる。

 73年、甲斐(山梨)の武田信玄が病死。織田信長は、足利義昭を京都から追放。これにより、室町幕府は終焉した。年号を転生に改める。ちなみに、足利義昭は、中国地方の毛利家に身を寄せた。

 信長は、戦争を繰り返す一方で、応仁の乱で荒廃した京都の復興も行った。現在の京都の町並みは、信長秀吉の時代に構築された。

織田信長② 本能寺の変

 74年、伊勢(三重県)の一向一揆を鎮圧。(石山戦争)

 75年、織田信長は大量の鉄砲を使って武田軍を破った。これが長篠の戦いである。その後、武田家は滅亡した。また、越前の一向一揆も鎮圧。

 76年、近江(滋賀県)に安土城の築城を開始する。このとき、安土の楽市令がだされる。このときの史料が現在も残っている。

 80年、一向一揆の総本山である石山本願寺を屈服。石山戦争が終結。

 82年、中国征伐に向かう途中で京都の本願寺で有力家臣の明智光秀によって打たれた。

豊臣秀吉① 天下統一

 82年、本能寺の変で織田信長が暗殺される。しかし、亡骸が見つからなかったので生死の状況が判明しなかった。そのため、生存しているかもしれない織田信長を恐れて、細川氏など京都にいた有力武将は、明智光秀に味方しなかった。ちなみに、このとき、安土城は消失した。

 一方で、織田の有力家臣団は、戦に出ていた。そのような中、中国地方の毛利と交戦中の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、毛利と和睦。山崎の戦いで明智光秀に勝利した。余談だが、このときに勝敗を分けた山が天王山である。そのため、ここ一番の戦いのことを天王山と言われるようになる。

 その後、清須会議にて、後継者が行われた。秀吉は、山崎の戦いでの活躍によって主導権を握った。この会議の様子は、「清須会議」として映画化された。

 翌83年、織田家臣団の筆頭であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに勝利。羽柴秀吉が織田信長の後継者の地位を確立した。

 同83年、石山本願寺の跡地に大阪城の築城を開始した。

 しかし、羽柴政権に待ったをかける大名がいた。織田信長と同盟関係にあった徳川家康である。徳川家康は、元今川家や元武田系の武将を味方に引き入れて、有力家臣団を構築した。

 84年、徳川家康は、織田信長の三男織田信雄を担いで羽柴秀吉に反旗を翻した。これが小牧・長久手の戦いである。羽柴軍は劣勢であったがなんとか和睦することができた。

 羽柴秀吉は、武力による天下統一を諦め、朝廷権威を用いた天下統一を検討した。85年、摂関家(藤原家)の養子になり、関白に就任。関白名で惣無事令を出した。惣無事令は、分国法の喧嘩両成敗の全国版である。これにより、朝廷(秀吉)の許可なく戦争が禁止された。また、両国の配分は、朝廷(秀吉)が決めることになった。

 同85年、四国の長宗我部元親を滅ぼし、四国を平定した。

 翌86年、太政大臣に就任。豊臣秀吉と名乗るようになる。

 87年、惣無事令違反で、南九州の島津へ侵攻(九州征伐)。また、

 このとき対馬の宗氏を通じて、日本への朝貢と明への侵攻を求めた。当然、朝鮮はこれを拒否した。

 このとき、秀吉は、多くのキリシタン大名がおり、土地を寄進していることを知った。これにより、秀吉は、キリシタンを警戒するようになった。大名のキリスト教入信を許可制にした。また、バテレン追放令をだし、宣教師を国外追放した。

 88年、京都に聚楽第を建設。後陽成天皇を歓待した。また、このとき、全国の大名を京都に呼び寄せ、天皇と秀吉に忠誠を誓わせた。同じ頃、大阪城が完成した。

 このとき、海賊取り締まり令を出し、倭寇などの海賊行為を禁止した。

 90年、小田原征伐。北条氏を滅ぼし、天下統一を果たす。

豊臣秀吉② 朝鮮出兵

 91年、豊臣秀吉は、千利休に自刃を命ずる。

 92年、朝鮮出兵

 96年、年号を慶長に改める。

 97年、二度目の朝鮮出兵。

 98年、秀吉、没。朝鮮出兵が終わる。

関ヶ原の戦いへ

 98年、秀吉が亡くなると、名目上は幼い秀次が天下人になった。これを支えたのが、徳川家康など5人の有力大名で構成される五大老と明智光秀など有力文官を中心とした五奉行が支えた。

 そのような中、朝鮮戦争の恩賞をめぐり、豊臣恩顧の武将は、福島正則ら武官と明智光秀ら文官で対立。この対立を利用したのが徳川家康であった。

 ストッパー役の五大老の前田利家が亡くなると、反徳川家康の明智光秀が挙兵。00年の関ヶ原の戦いが起こる。

政治

信長はなぜ強かったのか?

 戦国時代の武士は、戦争がないと領地に戻り農作業を行っていた。そのため、戦争が農閑期(農作業の少ない時期)に行われた。

 しかし、信長は、武士を領地から切り離し城下町に住まわした。そのため、農閑期と関係なく戦争を行うことができた。それが可能になった。

 その背景には、尾張(名古屋)の豊かさがあった。朝倉家の福井や武田家の山梨県は、名古屋にくらべて収穫高が低くかった。そのため、武士も農作業を行わないと食べていけない。しかし、尾張は温暖であるとともに、京都に近いため最新の農業技術が伝わっていた。そのため、収穫高が高い。更に、漁業や商業も盛んなため、分業が可能になった。

惣無事令と裁判所

 日本は、狭い。また、工業化する前の日本は、土地(農地)は、重要な資産であった。そのため、中世は土地トラブルが発生した。

 現在の日本で言う金銭トラブルのようなものである。現在日本では、金銭トラブルが当事者間で解決できないときには、裁判所に判断を仰ぐ。

 鎌倉・室町時代は、幕府の問注所がこのトラブルを解決した。

 しかし、戦国時代に入ると幕府の権威がなくなった。そのかわりを担ったのが戦国大名であり、その判断基準が分国法であった。

 惣無事令は、そのトラブルを朝廷に戻す手続きである。

 これ以降は、惣無事令違反に基づく戦いになる。

兵農分離

太閤検地

朝廷(京都)

外交)南蛮貿易

南蛮貿易

カトリック

経済

楽市楽座

 安土桃山時代、商業は急速に発展した。

 室町時代、商業は厳しい税金が課せられた。お店を開くには、寺社などの土地の有力者の許可が必要であった。この許可を得た商人の組合が座である。また、主要な街道では関所が設置され、通行料が取られた。

 信長は、商業の活性化を重視した。座や関所を次々廃止した。

 76年に、楽市令を出し、商業の自由化を認めた。

 また、大阪南部の堺では、商人の自治都市堺があった。信長は堺を武力で屈服。堺を直轄領にした。

京都の再興

信長・秀吉の経済基盤

文化)桃山文化

特色

 戦乱は続いていたが、織田信長・豊臣秀吉によって、京都を中心とした近畿地方は平安が訪れた。これにより、文化の中心は、京都や大坂に戻った。

 しかし文化の中心人物は代わった。公家や有力守護大名から、富と権力を握った戦国大名や大商人に代わった。新鮮味あふれる豪華で壮大な文化を生み出した。

 また、西洋の文化の影響を受けるようになった。

武家文化 建築

 桃山文化の特色は、城郭建築である。有力大名は、近畿地方の平地に巨大な城を築くようになった。

  • 安土城(滋賀県) 織田信長
  • 大阪城(大阪府) 豊臣秀吉
  • 伏見城(京都南部)豊臣秀吉<別名、桃山城>

 城の内部は、書院造

武家文化 絵画