前回の復習 1830年代の日本
1970年代の日本の政治は、派閥政治の時代である。有名な政治家は田中首相である。景気は、石油危機をきっかけに安定成長期に入る。外交では、中国との国交正常化が成立した。
- 1860年代 68年に大政奉還
- 1870年代 廃藩置県と西南戦争
- 1880年代 大日本帝国憲法制定
- 1890年代 初期議会と日清戦争
- 1900年代 日露戦争
1820年代の国際情勢
キューバ危機で核戦争の危機が起こるも回避。米ソは軍縮に向かっていく。65年、ベトナム戦争が始まると、世界各地で反戦運動が起こる。
化政バブル
大御所時代
20年代は、徳川家斉の治世である。
10年代、老中は、2つの派閥に別れていた。松平定信派と田沼意次派である。2つの派閥の派閥の違いは、デフレ政策かインフレ政策かの違いである。
17年、松平派の老中首座松平信明が死去。田沼派の水野忠成が老中に就任。
化政バブル
水野忠邦は、小判改鋳を実施。品質を悪化させ、通貨量を増やした。通過量の増大分で、幕府の支出を増やした。これにより、将軍や大奥は華美になった。
江戸幕府の支出の拡大は、江戸の経済は活性化した。これにより、物価が高騰した。しかし、当時は給料も上がっていたのでそれほど問題にならなかった。
江戸近郊の治安の悪化
江戸の経済が活性化すると、江戸への人口流入が加速。これにより、江戸近郊の治安が悪化した。
27年、関東取締出役(八州廻り)の下部組織に寄場組合が設置される。
水野忠邦で見る江戸幕府の組織
賄賂政治の横行
この時代、賄賂政治が再び横行した。その代表が、水野忠邦と言われている。
唐津藩と長崎
12年、水野忠邦は、肥前国(佐賀県)の唐津藩藩主に就任。肥前国には、外様の有力大名である鍋島藩がある。唐津藩は、唐津藩など、長崎近郊の諸藩は、長崎の警備に当たった。
寺社奉行
14年、水野忠邦は、賄賂によって、遠江浜松藩(静岡県)に転封。石高は下がったが、幕府の要職に就けるようになった。
同年、寺社奉行に就任。三奉行の1つである。寺社(寺と神社)を統制する業務に当たった。将軍直轄の組織で譜代大名で構成された。
三奉行は、以下の3つである。
- 寺社奉行 寺社の統制
- 勘定奉行 天領(幕府直轄地)の財政と行政
天領に、代官・郡代を派遣して行政を行う。 - 町奉行 江戸の裁判を含む市政を管理
勘定奉行と町奉行は、旗本が就任し、老中の下部組織である。
大坂城代
25年、水野忠邦は大阪城代に就任。
城代は、幕府保有する城を将軍のかわりに管理する仕事である。城代は、旗本が就任。老中の下に置かれた。
大阪城は、前政権豊臣政権が奪った城である。そのため、大坂城代は、別格とされれた。旗本ではなく譜代大名が就任。将軍の下に置かれる。
大坂の管理には、大坂城代と大坂町奉行がある。遠国奉行は、通常、「〇〇奉行」と呼ばれるが、大坂と京都(二条城)・駿府は、別途城代がいるので「〇〇町奉行」になる。
京都所司代
26年、京都所司代に就任。
京都所司代は、朝廷と公家の統制と西国大名の監視を行う組織であり、1名で構成される。将軍直轄で譜代大名が就任。また、公家との仕事のため、高い官位が求められる。
京都には、京都所司代、二条城城代、京都町奉行がいる。
西の丸老中
28年、西の丸老中に就任。次期将軍家慶を補佐した。
老中首座
34年、老中就任。39年に老中首座になった。
老中は、平時の最高職である。定員4名の合議制。譜代大名が就任した。重要な業務は協議したが、通常は、月番制と言って、当番の老中が判断した。
財政は、老中首座が専任で行った。老中の下には、下記の下部組織がある。これらは、旗本が就任した。
- 大目付 大名の監視
- 寺社奉行以外の三奉行(勘定奉行、町奉行)
- 遠国奉行(城代、〇〇町奉行、〇〇奉行)
シーボルト事件
北海道を松前藩に返還
江戸時代後半は、内憂と外患に分けて歴史を見ていきます。後半では、外国関係を見ていきます。
北海道(蝦夷地)は、当時ロシアの脅威にさらされていた。12年、ゴローニン事件でロシアの脅威が解消された。さらに、蝦夷地からの収益は低い割に、防衛費(東北諸藩が負担)が増大していた。
21年、賄賂によって、松前藩に返還された。
伊能忠敬の日本地図
江戸幕府は、伊能忠敬に日本地図の作成を依頼。01年に測量を開始。14年に測量が完了。地図の作成に入った。しかし、18年に伊藤忠敬は死去。弟子がその事業を継続した。21年に地図が完成。幕府に提出された。
この地図が、このあと大きな事件を引き起こす。
シーボルト来日
23年8月、オランダ商館医として、シーボルトが来日。
翌24年、長崎に鳴適塾を開校。西洋医学の指導を行う。高野長英らが、この塾で学んだ。
英蘭協約
24年、東南アジアで展開されたイギリスとオランダの戦争が講和。
異国船打払令
25年2月、江戸幕府は、異国船打払令を出す。この法律は、オランダ・清王朝以外の異国船については、上陸を認めず、上陸したら逮捕または射殺を行うことが定められた。
当時は、06年の薪水給与令が適用。異国船については、薪と水を提供して直ちに出国させることになっていた。
24年、大津浜事件が発生。水戸藩(茨城県)の大津浜で、漁師がイギリスの捕鯨船と密貿易した疑惑が発生。
同年、薩摩藩(鹿児島県)で、宝島事件が発生。イギリス船が薩摩沖の宝島に上陸。牛を強奪しようとしたため、交戦状態になった。
この2つの事件を受けて、異国船打払令が出された。
37年、モリソン号事件が発生。
42年、清王朝がアヘン戦争に負けたのをうけて、異国船打払令を廃止した。
シーボルト事件
話を、長崎に戻す。28年、シーボルトが帰国。この積荷の中に、21年に完成した伊能忠敬の日本地図があった。この日本地図は、当時軍事機密であった。
これにより、多くのものが処罰された。