前回の復習 1880年代の日本
1880年代は、明治時代である。西郷隆盛など明治維新のリーダー格の人がいなくなり、伊藤博文氏らに世代交代が起こった時代である。
80年の国会開設の勅諭にもとづき、大日本帝国憲法を制定。帝国議会を開いた。
今回は、維新で活躍した西郷隆盛氏、木戸孝允氏と大久保利通氏が政治を行った時代を見ていきます。
- 1860年代 68年に大政奉還
- 1870年代 廃藩置県と西南戦争
- 1880年代 大日本帝国憲法制定
- 1890年代 初期議会と日清戦争
- 1900年代 日露戦争
1870年代の国際情勢
ドイツ帝国が普仏戦争に勝利。これにより、ドイツ宰相ビスマルクが国際政治の中心となった。70年代から80年代にかけて、ビスマルク外交の影響でヨーロッパは平和になった。これにより、イギリスなどは植民地経営に専念することができた。
政治)明治維新
戊辰戦争で幕府軍に勝利
69年5月、箱館戦争で旧幕府軍が降伏。戊辰戦争が終結。1年半に渡る旧幕府軍との内戦は終結した。
廃藩置県
江戸幕府は、幕府と藩で構成されていた。幕府は直轄地(天領)のみの政治を行い、藩は各地の大名が政治を行った。すなわち、直轄地での犯罪は、奉行や代官によって処罰されるが、藩の犯罪は、各藩で処罰された。税金も、直轄地の税金(年貢)は幕府に収められ、幕府の役人の給料は、幕府から支払われた。しかし、各藩の税金(年貢)は、藩に納められ、藩の役人の給料は、幕府でなく、藩から支払われた。
当初の明治新政府も、旧幕府直轄地からの税収のみで政治が行われていた。
69年1月、版籍奉還を実施。各藩は、領地と領民を天皇に返還。税金は、すべて国庫に収められ、大名は、明治新政府から給料(家禄)が支払われた。このとき、各藩の借金も明治新政府が肩代わりすることになった。ただ、地方の政治が大名が引き続き行うことになった。このときの役職が知藩事である。
版籍奉還によって、四民平等が始まった。大名は、公家とともに華族とされた。旧幕臣や藩士は、士族された。平民(農民・町人)も苗字が認められた。結婚、移住、職業選択の自由が認められた。移住の自由は、東京などへの都市部への人口集中を促進した。
71年、明治新政府は、薩摩・長州・土佐の3藩の有志により軍事力を固める。7月、廃藩置県を断行。旧大名は知藩事を罷免。東京居住を命じられる。地方政治は、明治新政府が任命する知事が行うことになった。
岩倉使節団と留守政府
71年、廃藩置県を終えると、岩倉使節団を結成。明治新政府の承認と条約改正に向けてアメリカへ向かった。トップは、公家の岩倉具視、薩摩藩の大久保利通が事実上のトップで、伊藤博文なども参加した。
一方、日本に残ったのは、太政官の三条実美(公家)、事実上のトップは、西郷隆盛(薩摩)が担った。
留守政府の改革
軍事面では、71年に政府直轄の近衛兵を設置。藩兵(藩の軍隊)を解散させ、兵部省の下にある各地の鎮台に配置された。鎮台の役割は、反乱や一揆の鎮圧であった。
72年、兵部省は、陸軍省と海軍省に分離。
73年1月、徴兵令を実施。国民に兵役の義務が課された。
明六政変と大久保政権
新政府が成立すると、リーダー格の人々は政府の中枢に入ったが、多くの士族は冷遇された。
73年、征韓論は、不平士族によって支えられていた。留守政府もこれを指示した。
このときに、岩倉使節団が帰国。征韓論を唱えたものを政府から追い出した。
大久保政権
明六政変後は、岩倉使節団に参加した薩摩の大久保利通が主導して政治が行われた。
73年、大久保は、内務省を設置。大久保氏は、内務卿に就任した。殖産興業と地方行政を担当。現在の総務省と経済産業省を兼ねた省である。警察も内務省の管轄とされた。
74年、東京に警視庁が設置された。
75年、板垣退助ら大阪で愛国社を結成。
これを受けて、大久保政権は、暫次立憲政体樹立の詔を出す。いつか、国会を解説することを約束するとともに、以下の機関を設置した。
- 元老院 立法を行う諮問機関
- 大審院 最高裁判所
- 地方官会議 府知事、県令で構成
一方で、讒謗律や新聞紙条例で自由民権運動の弾圧が行われた。
76年、元老院で憲法の審議を開始。80年、原案が決まるも、岩倉具視(公家)らの反対により、廃案になる。
77年、西南戦争が終結。翌78年、地方三新法を制定。地方議会を設置して、地方政治で民意が反映されるようになった。
大久保利通の暗殺
78年、大久保利通が暗殺される。同じ頃、木戸孝允も病死。維新の三傑がこの世を去った。
伊藤博文 vs 大隈重信
大久保利通のあと、政治の主導権を取ったのが長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信である。政治の中枢は、薩摩・長州出身者が占めていた。そのため、肥前出身の大隈は劣勢の状態であった。
政治)西南戦争
明六政変
明六政変で、留守政府の主力メンバーは、政府から追放された。主なメンバーは以下のものである。
- 薩摩 西郷隆盛
- 土佐 板垣退助、後藤象二郎
- 肥前 江藤新平、副島種臣
翌74年、肥前の江藤新平が佐賀の乱を起こす。
四民平等
76年、秩禄を停止。廃刀令が出される。公務員として明治新政府に雇われたものは良かったが、そうでないものは困窮した。一時金を元手に商売に手を出すも失敗するものが多かった。これは「士族の商法」と呼ばれた。
士族反乱
76年、廃刀令と秩禄処分で西日本で士族反乱が起きた。
- 熊本県 敬神党の乱
- 福岡県 秋月の乱
- 山口県(長州) 前原一誠の乱
地租改正一揆
73年、徴兵制度と学制に反対する血税一揆が発生。
76年、地租改正一揆が発生。翌77年、地租は3%から2.5%に引き下げられた。
西南戦争
77年、明六政変で下野した西郷隆盛が鹿児島県で反乱を開始した。西南戦争である。最大の士族反乱で、鎮圧までに半年かかった。
自由民権運動へ
坂本龍馬との関係の深い、土佐出身の板垣退助や後藤象二郎らは、愛国公党を結成。民撰議院設立建白書を左院に提出。国会の開設をもとめた。
民撰議院設立建白書は、新聞に掲載。世論に大きな影響を与えた。これが、自由民権運動の口火になった。
73年、明六政変で板垣退助・後藤象二郎らが下野。土佐に戻る。
74年、土佐で立志社を結成。
75年、大阪にわたり、愛国社を結成。大久保政権は、新聞紙条例などで弾圧しようとした。
77年、西南戦争が勃発。立志社の一部が西南戦争に参加。立志社建白を政府に提出。政府はこれを却下した。これにより、自由民権運動は下火になった。
翌78年、愛国社の再興大会が大阪で開催される。士族だけでなく、町人や地主も参加するようになった。
80年、愛国社は、国会期成同盟を結成。国会の早期開催を求めた。国会開設の嘆願書を提出したが、受理されなかった。
外交
ウラジオストークの危機
明治新政府の外交課題は2つある。1つ目は、旧幕府が締結した不平等条約の改正である。2つ目は、日本海に軍港をもつロシアへの対応である。
岩倉使節団と条約改正
71年、廃藩置県が完了。右大臣岩倉具視(公家)を代表とする岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパに派遣された。大久保利通(薩摩)や伊藤博文(長州)などが参加した。
お雇い外国人
明治新政府は、殖産興業を進めるために外国人教師を日本によんだ。その大部分は、ドイツ人であった。そのため、明治時代の外来語はドイツ語起源のものが多い。
当時のドイツは、普仏戦争に勝利して勢いに乗っていた。
当時、イギリスは、3C政策で植民地経営の中心をアフリカとインドにおいていた。一方、フランスはパリ・コミューン直後の混乱期である。
清王朝
71年、留守政府は、清王朝と日清修好条規を締結。相互に開港し、互いに領事裁判権を認めた。対等条約である。
73年、日本は、これを批准した。
留守政府と征韓論
朝鮮政府は、大院君政権の時代。鎖国政策を取っていた。
明治新政府(西郷留守政府)は、国交樹立を求めた。朝鮮政府は、日本の交渉態度を不満として正式な交渉に応じなかった。
西郷や板垣らは、征韓論を唱えた。
しかし、73年の明六政変で挫折した。
台湾出兵
71年、台湾で琉球漂流民殺害事件が発生。明治新政府(西郷留守政府)は、清王朝に賠償金を求めた。しかし、清王朝はこれを拒否した。
73年、明六政変。
74年、明治新政府(大久保政権)は、軍人や旧士族の強硬論におされて、台湾出兵を実施。清王朝は、イギリスの調停によって、日本の出兵を正当なものと認め、さらに賠償金を支払った。
樺太・千島交換条約と露土戦争
75年、ロシアと千島樺太交換条約を締結。明治新政府は、樺太に持っていた一切の権利を放棄。みかえりに、ロシア領の千島列島を獲得した。
朝鮮の開国
75年、江華島事件が発生。76年、明治新政府(大久保政権)は、日清修好条規を締結。朝鮮を開国させた。
琉球処分
沖縄は、明治初期は琉球王国であった。名目上は、朝鮮と同様に清王朝の属州となっていたが、事実上は薩摩藩の支配を受けていた。
72年、明治新政府(西郷留守政府)は、琉球王国を、薩摩藩から分離して、政府直轄の琉球藩とした。琉球国王の尚泰(しょうたい)を藩王とした。清王朝はこれに反発した。
74年、台湾出兵。
76年、小笠原諸島に内務省の出張所設置。欧米諸国に小笠原諸島の領有を宣言した。
79年、明治新政府は、琉球藩を廃止。沖縄県とした。
寺島外交
76年、寺島外務卿が就任。税収アップのために、関税自主権の回復を目指した。78年、アメリカとの交渉に成功。しかし、イギリスとドイツが反対。最恵国待遇で全て無効になった。
経済と税金政策
廃藩置県
69年1月の版籍奉還で、税金(年貢)は藩でなく、明治新政府に納められるようになった。このとき、藩の借金を明治新政府が肩代わりすることになった。
明治新政府の支出
初期の明治新政府の重い負担は、人件費であった。版籍奉還で、華族と士族に家禄を支出することになった。家禄などが明治新政府の総支出の30%を占めた。
73年、希望者に対して一時金を支給して秩禄を停止。76年、これを強制した。76年、廃刀令も廃止された。
多くの士族は、秩禄の停止で没落した。しかし、僅かではあるが一時金を元手に実業家に転身するものもいた。この一時金が産業革命を支えることになる。
収入)地租改正
69年の版籍奉還で、税収は明治新政府に納められる事になった。
廃藩置県が行われた71年、田畑勝手づくりを許可。政府の許可なく、新田開発が行えるようになった。翌72年、田畑永代売買の禁止令がなくなる。これにより、土地の売買が自由になった。地方の徴税は、土地勘がない知事が担当。納税者を明確にするために土地所有者に地券を発行した。
73年7月、地租改正。
- 課税基準を収穫高から地価に変更。
- 豊作凶作に関わらず納税額が一定になった。
- 物納から金納
- 税収は、米価の影響を受けなくなる
- 税率は、地価の3%
このとき、共有地など、所有権が不明なものは政府のものとされ、これも農民の不満の要因となった。
77年、地租改正反対一揆を受けて、税率を3%から2.5%に引き下げられる。
殖産興業
明治新政府は、植民地化されないように富国強兵に努めた。そのために、殖産興業につとめた。
69年、東京・横浜間の電話線が設置。
70年、工部省(現在の経済産業省)を設置。
71年、前島密の建議で、民間の飛脚制度にかわる官営の優美制度を整備。
72年、新橋(東京)・横浜間の鉄道が開業。その後、京都・大阪・神戸間の鉄道も整備され、大都市と開港場を結ぶ鉄道が整備された。
同72年、群馬県に官営の富岡製糸場を設置。
73年、地方行政を担う内務省を設置。初代の内務卿には、帰国した大久保利通が就任。地方経済活性化のために、工部省とともに殖産興業を進める。道路の整備や農業技術の向上に務める。
74年、電話網は、北海道から長崎まで伸びる。また、長崎・上海間にも電話線を設置。欧米と日本が電話線で繋がった。
77年、大久保内務卿は、上野で第1回万国博覧会を開催。西南戦争中であったため、大久保内務卿の出身地である鹿児島県は不参加。大久保内務卿の悲しみが大河ドラマ「青天を衝け」で描かれている。
北海道開拓使
69年、新政府軍は箱館戦争に勝利。蝦夷地を北海道と改称。
74年、屯田兵制度を導入。職を失った士族が参加した。
76年、クラーク博士を招いて、北海道農学校を開校。
政商の台頭
関西圏の商人は、明治新政府に太政官札や民部省札などの不換紙幣を買い取ることで政府と結びつきを強めた。その代表が、京都の三井・小野や大阪の鴻池である。
海運業で、土佐藩出身の岩崎弥太郎が活躍。これが三菱の始まりである。
国立銀行条例
71年、新貨条例を制定。金本位制を目指し、新硬貨を発行した。ただ、開港場では銀貨が、国内では紙幣が主として使われた。
72年、政府紙幣の統一を開始。民部省札や太政官札を政府紙幣と交換した。この政府紙幣は、金貨や銀貨と交換できない不換紙幣であった。
76年、国立銀行条例を改正。民間銀行が不換紙幣(金貨とや銀貨と交換できない紙幣)を擦れるようになった。銀行を設立したのは、商人や地主、金禄公債証書で出資する華族や士族であった。
地方銀行には、七十七銀行など数字の付いた銀行がある。これは、当時の銀行が第○銀行として設立した名残である。
第一銀行は、渋沢栄一氏らによって設立。京都の三井と小野が共同出資した。戦後の1971年まで存続。現在のみずほ銀行である。そのため、みずほ銀行の銀行コードは、0001である。
政府も士族反乱の鎮圧のため、多くの不換紙幣が増発した。
これにより、不換紙幣が多くなり、インフレが発生した。
文化)文明開化
都市部と農村
明治時代に入ると、西洋文明を積極的に取り入れた文明開化が始まった。その中心は、東京などの都市部であった。
一方で、農村は江戸時代の文化の名残がまだ残っていた。
西洋から来た自由主義
儒教や神道などの考え方が時代遅れとされ、自由主義や個人主義などの西洋近代思想が流行した。
フランス流の教育改革
68年、洋学者の福沢諭吉が江戸(東京)で慶應義塾大学を設立。
71年、文部省を設置
72年、統一的な学制を導入。フランスを手本にした。特に小学校教育を重視した。
74年、新島襄が京都に同志社大学を設立。
77年、旧幕府の師範学校と医学所を統合して東京大学を設立。
宗教 国家神道
68年、神仏習合を禁じ、神道を国教とする方針を打ち出した。これが神仏分離令である。これにより、仏像を壊す廃仏毀釈運動が起こった。
70年、大教宣布の詔を発布。神社制度・祝祭日を制定した。
明治新政府は、幕府と同様にキリスト教を禁じていた。しかし、73年、キリスト教を黙認するようになった。
新聞
幕末は、幕府の手で外国の新聞の翻訳が行われていた。明治になっても旧幕臣はこれを続けていた。活版印刷の導入で、日刊新聞や雑誌が創刊された。その代表が、73年(明治六年)に福沢諭吉らが創刊した「明六雑誌」である。
西洋化
72年、旧暦を廃して、ヨーロッパと同じ太陽暦に移行した。
ファッションについては、官吏や警察が洋服の着用を開始。民間にも広まった。また、ちょんまげを切るざんぎり頭が文明開化の象徴とされた。