前回の復習 1920年代の日本
25年、大正時代が終わり、昭和時代が始まる。経済が低迷。さらに関東大震災が追い打ちをかける。
1910年代の国際情勢
14年に、ヨーロッパで第1次世界大戦が発生。この戦争は全世界を巻き込んだ。今までの戦争と異なり総力戦になる。
軍事・外交)第1次世界大戦
10年ごとの戦争
日本は、1890年代から1910年代まで、戦争に勝利し続けた。
戦争 | 対戦国 | 獲得 | |
94年 | 日清戦争 | 清王朝(中国) | 台湾 |
04年 | 日露戦争 | ロシア | 南満州 |
14年 | 第一次世界大戦 | ドイツ | 山東半島 |
韓国併合
09年、南満州のハルビンで伊藤博文元首相が暗殺される。
翌10年8月、日本が韓国を併合。朝鮮総督府をおき、軍事・警察を用いて民族運動を弾圧。(武断政治)。一方で、朝鮮半島のインフラ整備がおこなれた。これにより、朝鮮半島は、日本の食料・原料の供給地になった。
辛亥革命で混乱する中国
隣国の清王朝は、辛亥革命で滅亡。中華民国が建国。李鴻章の後継者である袁世凱が臨時大総統についた。
問題は、清王朝が外国と結んだ条約がリセットされることになる。
第1次世界大戦
14年、バルカン半島で起きたサラエボ事件をきっかけに、第1次世界対戦が勃発。
日本は、日英同盟にもとづき、イギリス陣営について参戦。目的は、アジア・太平洋地域のドイツの権益を奪うことにあった。
ドイツの勢力圏は、中国北部の山東半島と太平洋西部の南洋諸島である。
対華二十一か条の要求
日本、中華民国袁世凱新政権に対して、山東半島の権益を継承するため「21か条の要求」を実施した。内容は、以下の通りである。
- 第1項 山東半島のドイツの権益は、日本が継承する。
- 第2項 清王朝が認めた遼東半島の権益は、袁世凱政権も追認。さらに期限の延長を実施。
- 第3項 中華民国と日本で製鉄会社を共同経営する。
- 第4項 袁世凱政権は、中国沿岸部の港湾・島嶼を外国に譲渡・貸与しない。
- 第5項 中華民国に日本人顧問を置く。
対華二十一か条の要求は、イギリス陣営のイギリス・フランス・ロシアとアメリカに事前に相談。ただし、植民地化に繋がる第5項は4カ国には秘密にしていた。
袁世凱政権は、第5項を公表。日本は国際的非難を浴び、第5項は撤回した。
5月4日、袁世凱政権は対華二十一か条の要求を受諾。中国民衆は、袁世凱政権を非難した。
日本政府は、このあと、ヨーロッパ各国に根回しを実施した。翌16年、ロシアと第4次日露協約を締結。さらに、イギリスは、地中海派兵を条件に山東半島の権益の継承の容認した。
17年4月、アメリカはイギリス陣営で参戦。11月、日本は、アメリカと石井・ランシング協定を締結。日本は、アメリカが99年に提示した門戸開放宣言を認めた。かわりに、アメリカは、日本に対して、ドイツの山東半島の権益の継承を約束した。
ロシア革命とシベリア出兵
パリ講和会議
三一運動と五四運動
国際連盟の常任理事国
ワシントン会議
経済)大戦景気
大戦景気
大戦により、日本は好景気になった。要因は以下の通りである。
- 大戦により軍需品の需要が高まった。
- 大戦により、南アジアや東南アジアでは、ヨーロッパからの輸入品がストップ。その代替になったのが日本からの輸入品であった。
- 大戦により、アメリカが好景気に。アメリカ向けの生糸の輸出が増大した。この生糸はおもにストッキングに使われた。
この時期伸びた主な産業は、造船業・海運業、鉄鋼業、石油化学工業、繊維業がある。
この時期に、安い労働力を求めて、中国や韓国での工場建設が続いた。その中心は繊維業であった。
大戦成金
この時期に伸びた産業の中心は、大資本が必要な重化学工業である。そのため、財閥の力が大きくなった。
また、この時期に金持ちになった人は、成金(なりきん)と呼ばれた。
米騒動
大戦景気によって、庶民は物価高に苦しんだ。
工業化や寄生地主制によって、農業人口が減少。米価格は上昇傾向になった。さらに、大戦景気によって、物価高騰も始まった。
寺内首相が17年にシベリア出兵をきめると、商人は米の買い占めを実施。米価格は急騰した。
戦後恐慌
19年、第一次世界大戦が終結。ヨーロッパ諸国の復興が進み、アジア市場に戻ってきた。19年に輸入超過が発生。とくに、重化学工業製品の輸入が急増した。
20年、株式市場が暴落。恐慌の時代へ入っていく。
政治)大正デモクラシー 前編
第1次護憲運動 大正政変
桂園時代
00年代の日本政治は、桂園時代と呼ばれる。陸軍出身の桂太郎首相がと公家出身の西園寺公望首相が交互に政権を担った。
桂太郎首相は、出身派閥の陸軍、貴族院が支持基盤であり、山縣有朋が支援していた。
西園寺公望首相は、伊藤博文元首相から引き継いだ立憲政友会の総裁である。
伊藤博文暗殺
09年、伊藤博文元首相が、南満州のハルビンで暗殺。元老の中枢は、山縣有朋元首相になった。
第2次西園寺政権 2個師団増設問題で退陣
11年8月に成立。
桂太郎首相は、日比谷焼き討ち事件を受けて、大隈立憲国民党に接近。これが、政党嫌いの山県元老との関係を悪化。西園寺政権が成立。桂前首相を天皇の側近である内大臣にし、宮中府中の別によって、政界に復帰できないようにした。
このころ、中国では辛亥革命が発生。清王朝が滅亡した。
12年7月、明治天皇が死去。大正天皇が即位。大正時代に入る。
大正天皇の即位に伴って、天皇に関する研究が進む。その中で出てきたのは、天皇機関説である。東京帝国大学(現在の東京大学)教授の美濃部達吉教授が『憲法講話』で発表した。これが大正デモクラシーの学問的基盤になった。
この頃、日本政府は財政危機を迎えていた。
財政危機の要因は、3つあった。1つは貿易赤字である。産業革命が進む中、原材料の輸入が急増し、貿易赤字になっていた。2つ目は、朝鮮半島、台湾への大規模なインフラ投資である。3つ目は、戦費の増大である。日清戦争は多額の賠償金で戦費を回収していた。しかし、日露戦争では賠償金が獲得できず。多額の戦費の回収が必要になった。
立憲政友会の支持基盤は、農村部である。そのため、立憲政友会の支持者は、自分の村に鉄道を敷くなどの財政のバラマキを要求した。また、資金面で支えていた富裕層は、減税を要求した。また、立憲政友会は、海軍関係者が多かった。そのため、海軍の予算も拡大した。
そのなかで、陸軍は、辛亥革命を受けて13年度予算の増額を要求。西園寺政権は、これを拒否した。これが2個師団増設問題である。陸軍は、これに憤慨。上原勇作陸軍大臣が辞任。陸軍は陸軍大臣を出さなかった。これにより、軍部大臣現役武官制により、西園寺政権は退陣に追い込まれた。12年年末のことである。
第3次桂政権 第1次護憲運動で退陣
12年12月に成立。
山県元老は、後継の首相に桂内大臣を呼び戻した。宮中府中の別を破っての抜擢である。
大隈派の立憲国民党から多くの議員を引き抜いて、立憲同志会を結成。
野党である立憲政友会の尾崎行雄氏と多くの議員を引き抜かれた立憲国民党の犬養毅氏が第1次護憲運動を展開した。マスコミと野党議員が「閥族打破・憲政擁護」を唱えた。
これにより、第3次桂政権は退陣した。
第1次世界大戦時の日本政治
第1次山本権兵衛政権 海軍政権
13年2月に第2次山本権兵衛政権が成立。日本海海戦(日露戦争)の海軍大臣である。支持基盤は、立憲政友会と海軍であった。
第1次護憲運動を受けて、第2次山県政権で成立した2つの法律を緩和した。文官任用令と軍部大臣現役武官制の緩和である。予備役・後備役の大将・中将でも可能になった。
しかし、海軍の汚職事件(シーメンス事件)で退陣。
第2次大隈重信政権 対華21か条要求で国際的に批判を受ける
14年4月に成立。元老山縣有朋は、第2次大隈政権を整理打つ。大隈派で桂太郎元首相が設立した立憲同志会を支援して成立。
立憲同志会は、総選挙で立憲政友会に勝利。陸軍の2講師団増設が実現した。
外務大臣である加藤高明氏は、第一次世界大戦への参戦を決定。表向きの理由は、日英同盟の履行であるが、本来の目的は、アジア・太平洋地域にあるドイツの権益を奪うことにあった。加藤高明氏は、のちに党首になり第2次護憲運動で首相になる。
ただ、山縣元老と大隈首相の対立におり、崩壊した。戦争中に政争で政権が交代するほど、日本は優位に展開していたことが現れている。
米騒動と本格的政党内閣
寺内正毅政権 米騒動で退陣
16年10月に成立。この政権を成立させるために、立憲同志会を中心とした与党が合同し、憲政会を結成した。
寺内正毅首相は、陸軍出身の政治家で、初代朝鮮総督に就任した。大隈政権で悪化した中国との関係修復が需要な外交課題であった。そのため、朝鮮総督として海外事情に詳しい寺内正毅に大命降下が下った。
袁世凱政権に資金提供を実施。(西原借款)。これにより、袁世凱政権に対して資金面でプレッシャーを与えた。
翌17年、総選挙を実施。憲政会は立憲政友会は破り、衆議院第1党になった。立憲政友会総裁の原敬と立憲国民党党首の犬養毅も閣僚に加えた。
さらに、臨時外交調査委員会を設置した。
18年にシベリア出兵を実施。一部の商人が米の買い占めを実施。7月に富山県の漁村で騒動が起こる。る。この動きは全国に広がる。米の安売りをもとめる都市民衆や貧農らが、米商人などを襲う米騒動が発生。政府は軍隊を投入してこれを鎮圧した。
寺内首相は、米騒動の責任をとって、辞任した。
原敬政権 平民宰相
18年9月に成立。はじめての本格的政党内閣である。原敬は、東北の元士族である。それまでの首相は、華族もしくは藩閥であった。衆議院議員が首相になるのは、原敬が初めてである。このため、「平民宰相」と呼ばれた。
外交は、寺内正毅が設置した臨時外交調査委員会をベースにし、協調外交を展開した。
満州権益開発方針について、アメリカ・イギリス・フランスと妥協点を見出した。
選挙制度では、普通選挙には否定的であった。
- 納税資格を3円に引き下げ ← 農村部の地主層(金持ち)
- 小選挙区制の導入 ← 大政党に有利
また、鉄道の拡充(我田引鉄)や高等学校の増設を実施。
19年から20年にかけて、普通選挙を求める運動が展開された。その規模は、数万人規模に上った。
20年、野党(憲政会)は、普通選挙法を提出したが、原首相は否決。総選挙を実施。鉄道の拡充や小選挙区制の導入で立憲政友会が勝利。
しかし、民衆はこの選挙結果に怒っていた。経済は、反動恐慌。このような中で、立憲政友会の汚職事件が続発。翌21年、原首相は、東京駅で暗殺された。
10年代の主要政党
桂園時代、議会は板垣派と伊藤博文元首相が連携した立憲政友会と大隈派の立憲国民党の2大政党政党であった。
桂首相が、西園寺首相率いる立憲政友会に対抗する新党を結成。大隈派の立憲国民党の大部分によって、立憲同志会(のちの憲政会)を結成した。
これにより、伊藤・西園寺系の立憲政友会、山縣・桂系の憲政会の2大政党と万年野党の犬養毅党首の立憲国民党が主要三党になった。
立憲政友会 | 憲政会 | 立憲国民党 |
原敬総裁 | 加藤高明総裁 | 犬養毅党首 |
板垣派 | 大隈派 | 大隈派 |
伊藤博文元首相 西園寺元首相 | 山縣有朋元首相 桂元首相 | |
海軍 | 陸軍 | |
山本内閣 原内閣 | 大隈政権 寺内政権 |
文化
学問 天皇機関説と民本主義
20年代、大正デモクラシーが本格化する。その思想的背景は、10年代に作られた。
16年、吉野作造が民本主義を提唱。美濃部達吉の天皇機関説とともに大正デモクラシーの理念になった。
民本主義とは、デモクラシーを和訳した言葉である。ただ、当時は天皇主権を否定する民主主義という言葉を使うことができなかった。そこで生まれた言葉が民本主義である。