1900年代の日本 明治 ジャイアントキリング日露戦争

前回の復習 1910年代の日本

 1910年代、日本は第一次世界大戦でイギリス陣営で参戦。列強の仲間入りを果たす。

  • 1910年代 第一次世界大戦 ドイツに勝利
  • 1900年代 日露戦争 ロシアに勝利
  • 1890年代 日清戦争 清王朝に勝利

1900年代の国際情勢

 1900年代、世界は帝国主義の時代。欧米諸国が全世界分割していた。80年代には、アフリカ分割が加速。90年代に入ると中国や太平洋地域も対象になった。

 90年代末、ブーア戦争(南アフリカ)などの植民地の抵抗も激化した。

戦前の外交

明治政府とウラジオストーク

 明治新政府の最大な外交課題は、植民地にならないことである。60年のアロー戦争で、ロシアは軍港ウラジオストークを獲得。新潟の対岸に大国の軍港ができているのである。

 明治新政府は、そのために急ピッチに強国になる必要があった。また、朝鮮半島を重要な防御壁にする必要があった。

 日本は、日清戦争に勝利。弱体化する清王朝から朝鮮を切り離し、日本のパートナーにする予定であった。しかし、朝鮮がパートナーに選んだのは、日本ではなくロシアであった。

日清戦争と中国分割

 日清戦争に敗北した清王朝は、戦費と多額の賠償金に苦しんだ。その資金を確保するため、ヨーロッパ各国から借金(借款)を実施した。ヨーロッパ各国は、見返りに清王朝から勢力圏と租借地を得た。

 清王朝の人々は、ヨーロッパ各国に富と尊厳を奪われた。

義和団事件(北清事変)

 99年、ドイツの勢力圏であった山東半島で義和団の反乱が起こる。各地で外国人を襲った。義和団は、00年に北京を制圧。列国の公使館を包囲した。

 清王朝は、義和団を歓迎。ヨーロッパ各国に宣戦布告した。

 当時、イギリスは南アフリカの反乱で苦戦。中国に兵隊を送る余裕はなかった。他のヨーロッパ諸国も中国まで軍隊を送る余裕はなかった。

 軍隊を遅れるのは、ロシアと日本のみであった。ロシアは、積極的に介入した。一方、日本は、下関条約で国際的な批判をうけていて消極的であった。そのため、イギリス主導で八カ国連合軍を結成。現在で言う多国籍軍である。その主力部隊は日本とロシアであった。

 翌01年、清王朝は、北京議定書に調印。列強各国は、北京に軍隊を駐屯できるようになった。

 ロシアは、中国東北部(満洲)を事実上勢力圏にしていた。日本の勢力圏である朝鮮と国境を接することになり、

 一般的に、義和団が山東半島で挙兵してから北京から追放されるまでの流れを義和団事件と言い、清王朝が列強に宣戦布告してから北京議定書を締結するまでの流れを北清事変というように使い分けされることが多い。

日英同盟

 ロシアは、朝鮮に進行するのは時間の問題であった。日本の選択肢は2つあった。1つは、ロシアと中立条約(協商)を結ぶことにあった。これを日露協商論という。2つは、イギリスと同盟を結びロシアを牽制することにあった。

 前者は、日本がロシアの満洲の権益を容認するかわりに、ロシアに日本の朝鮮半島の権益を容認させるという協商であった。ロシアは、日本の容認をそれほど必要ではなかったため、当然決裂した。

 一方、イギリスは植民地の反乱に苦慮していた。日清戦争、北清事変で、日本の軍事力を確認。02年、日英同盟(日英同盟協約)を締結した。

 この同盟の内容は、同盟国の一方(日本→イギリス)が他国(ロシア→ドイツ)を交戦した場合、他の同盟国(イギリス→日本)は厳正中立を守り、第三国(フランス→オーストリア)が相手国(ロシア→ドイツ)側で宣戦した場合は、他の同盟国(イギリス→日本)も参戦することが定められた。

 括弧書きの前が、日露戦争の状況であり、括弧書きの後ろが第一次世界大戦の状況である。日露戦争では、第三国が参戦しないケースになり、第一次世界大戦では、第三国が宣戦するケースになった。

 ロシアは、日英同盟締結後も満洲に駐兵を続けた。日本は退路交渉を行う一方で、ロシアとの戦争の準備も開始した。

ロシアとシベリア鉄道開通

 03年、シベリア鉄道の支線である東清鉄道が開通。モスクワからウラジオストークまで鉄道で繋がった。これによりモスクワからウラジオストークまで軍隊を送る時間が大幅に短縮された。

反戦運動

 日本の一部では、反戦運動が起きていた。キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水らが中心人物である。

 日本国民の大部分も、ヨーロッパの強国ロシアとの戦争は好まなかった。しかし、対露同志会が声高に開戦論を叫び、叙情に開戦論は勢いを増した。

日露戦争

開戦

 04年2月、対露交渉が決裂。日本とロシアは互いに宣戦布告。日露戦争が始まった。

 04年4月、英仏協商が締結。日本の同盟国のイギリスとロシアの同盟国のフランスは中立の立場を取ることが約束された。

日露戦争へ<陸上戦>

 日本は、同盟国のイギリスや中国に進出したいアメリカの資金提供で戦局を優位に進めた。

 日本は、バルト海(ヨーロッパ)のバルティック艦隊が日本に到着するまでに講和に持ち込む必要があった。

 翌05年初頭、多くの兵を失って旅順要塞を陥落。3月、奉天会戦に辛勝。陸上戦は日本軍の勝利となった。

日本海海戦で日露戦争に勝利

 ただ、講和に持ち込むまでには間に合わなかった。5月、バルティック艦隊が日本に到着。対馬海峡に現れた。日本海海戦である。日本海軍の東郷平八郎は、T字作戦でバルティック艦隊を壊滅した。

 このときの海軍大臣は、後に首相になる山本権兵衛大臣である。

 日本海軍で活躍した戦艦三笠は、ワシントン海軍軍縮会議で現役を引退。現在横須賀に保管されている。

資金が底をついて終戦

 日本は、17億円の軍事費が必要になった。そのうち、13億円が国債で調達された。外国から7億円、日本国内から6億円である。残り4億円は増税で調達された。日本国民はこの増税で限界に達していた。

 ロシアも、限界に達していた。05年1月、血の日曜日事件が起きている。

ポーツマス条約

 05年9月、アメリカのポーツマスで講和条約が締結された。ポーツマス条約である。

  • 日本全権 小村寿太郎外相
  • ロシア全権 軍人ウィッテ
  • 仲介役 アメリカのTh=ローズヴェルト大統領

条約でロシアは、下記の内容を認めた。

  1. 韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認める。
  2. 清王朝の旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道(南満州鉄道)とその付属利権(勢力圏)を日本に譲渡
  3. 南樺太(北緯50度以南)を日本に譲渡
  4. 沿海州とカムチャツカの漁業権

 ただし、賠償金は認められなかった。悪い視点で見れば、アメリカが財政難の日本を通じて、南満州の経営に参入しようとしたとも考えられる。

日比谷焼き討ち事件

 日本国民は、賠償金が取れないことに憤慨した。人的な損害と大幅な増税にたえてこの戦争を支えたからである。

 講和条約調印の日に日比谷公会堂で開かれた講和反対国民大会は暴徒化した。これが日比谷焼き討ち事件である。

 これは、世界各国の政治家は、恐れおののいた。これが第一次世界大戦の多額な賠償金につながる。

戦後の外交

戦後の朝鮮半島)韓国併合

 05年、ポーツマス条約でロシアに韓国の全面的な指導監督権を認めさせた。同じ年、アメリカと桂=タフト協定を締結。イギリスと第二次日英同盟を締結。両国に韓国の保護国化を認めさせた。

 これを受けて、第2次日韓協約を締結。日本は韓国の外交権を奪った。ソウル(漢城)に日本統監府を設置した。初代統監は、伊藤博文元首相である。

 07年、韓国皇帝高宗が、オランダのハーグで行われている万国平和会議に密使を送る。すでに日本の根回しが完了しているので、列国は密使を無視した。これが、ハーグ密使事件である。

 ハーグ密使事件をうけて、第3次日韓協約を締結。韓国のない政権を奪い、軍隊を解散させた。

 これにより、元軍人が義兵運動に参加。義兵運動は本格化した。

 09年、伊藤前統監が韓国人により暗殺。南満洲の長春での出来事である。

 10年、日本は、韓国を併合した。ソウルを漢城から京城に変更。統監府が総督府に変更された。初代総督には、前統監で陸軍大臣の寺内正毅氏が

戦後の南満洲

 06年、軍事面では、関東都督府(関東軍)が置かれ、半官半民の南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立された。

 日本の満洲進出を快く思わない国があった。アメリカである。アメリカも、日露戦争をきっかけに満洲市場への進出を画策していた。06年から日本人移民排斥運動が始まる。これにより、日本人移民の移住先はアメリカ合衆国から南米に変わった。

 日本は、満洲の権益を国際的に認めさせるために、イギリスととロシアを味方にした。

第1次世界大戦の構図の完成

 日露戦争が終結すると、英仏協商と露仏同盟を通じて、イギリス・日本とロシアが接近。三国協商が完成。

 イギリス陣営の三国協商とドイツ陣営の三国同盟が成立した。

経済)大戦景気

賠償金で八幡製鉄所が操業開始

 日清戦争の賠償金で97年官営の八幡製鉄所が設立。01年に創業を開始した。ドイツの技術が使われた。筑豊炭田の石炭は日本最大の炭鉱になり、三菱長崎造船所などに鉄を売った。

鉄道国有化

 明治時代の鉄道の半分以上は民営であった。東北本線をもつ日本鉄道(上野(東京)〜青森)や山陽鉄道(神戸〜下関)、九州鉄道が民営であった。

 06年、立憲政友会の第1次西園寺内閣は、鉄道国有化法を制定。民営の鉄道会社を買収して国有化した。目的は、軍事的な側面と地方活性化の側面があった。

 鉄道国有化によって、多くの資本家が多くの資金を獲得。これらの資金が重化学工業への投資へ回った。

労働運動

 労働運動は、00年の治安警察法で沈静化していた。帝国議会のテーマは、労働者の労働環境改善を定めた工場法の制定があった。

 しかし、最大政党の立憲政友会の支持基盤は、地方の地主層である。彼らは、工場経営者や工場へ投資している人が多い。そのため、コストアップになる工場法に否定的であった。

 11年、第2次桂内閣のときにようやく制定された。

貿易 生糸と綿布

 当時の日本の主力輸出品は生糸(シルク)と綿布であった。09年には、綿布は、輸出が輸入を上回り、生糸輸出は、清王朝を抜いて世界一になった。

 生糸は、日本の農村で育てられる蚕(かいこ)の繭で生産される。主にアメリカに輸出された。

 綿布は、綿花から生産される。綿花は、中国(清王朝)・インド(イギリス領)やアメリカから輸入していた。綿布は、日本の勢力圏である満州、朝鮮、台湾に売られた。

 綿花の輸入金額は、綿布の輸出金額を上回り、これを生糸の輸出でカバーしていた。

 日本の勢力圏からは、主に農産物が輸入された。満洲からは大豆粕、朝鮮からは米、台湾からは米とサトウキビが輸入された。

財閥

 三井は、09年、三井合名会社という持株会社を設立した。他の財閥が持株会社を設立するのは20年代初頭のことである。

農村 地方改良運動

 日露戦争が終わると、地方の地主層の勢いがなくなった。賠償金が取れなかったことで、増税が行われた。地租増税と間接税の増税は地主の所得を減らした。さらに、朝鮮半島や台湾から、米の輸入が増大。米価が下落。これも生活を苦しめた。

 08年、戊申詔書がでる。第二次桂内閣は、地方改良運動を開始。立憲政友会の支持基盤である地方の地主層のため、立憲政友会も好意的にこれを受け止めた。

政治)立憲政友会の成立と桂園時代

第4次伊藤博文政権 立憲政友会の成立

 00年4月に成立。

 山県政権時に、軍部大臣現役武官制など政党の力を弱める政策を実施。これにより、与党であった板垣憲政党と山縣有朋が対立。板垣憲政党と伊藤派の官僚によって、立憲政友会を結成。初代総裁に伊藤博文元首相が就いた。

 00年4月に、立憲政友会は第2次山県政権を退陣させ、第4次伊藤政権を樹立した。

第1次桂政権 日露戦争に勝利

 01年6月に成立。

 山県と伊藤は、第1線から退き、後継者を指名した。山県は、長州・陸軍閥の桂太郎を指名。01年6月に首相にした。バックには、軍部・官僚と貴族院勢力が就いた。一方で、伊藤は、立憲政友会の次期総裁に公家出身の西園寺公望をつけた。

 これにより成立したのが、桂園時代である。これは、12年の第1次護憲運動(大正政変)まで続く。

 一方、山県元首相や伊藤元首相は、非公式に明治天皇を補佐する立場に就いた。この役職は、元老と呼ばれた。元老たちは、首相の選任権を握り、内閣の背後から影響力を持ち続けた。

 桂首相は、日英同盟、日露戦争勝利で国民を味方につけ、長期政権を引いた。

 一方で、西園寺率いる立憲政友会は、鉄道や港湾の拡充で地方の富裕層の指示を得て勢力を伸ばしていた。

 日比谷焼き討ち事件で退陣。桂元首相は、大隈派の議員と

第1次西園寺政権 

 06年、立憲政友会総裁西園寺政権が成立。

 鉄道国有法を成立。

 06年、日本社会党が成立すると、これを承認した。

 07年、恐慌でバラマキ予算が実現できず。08年の総選挙に圧勝するものの退陣した。

第2次桂政権 伊藤博文暗殺

 08年、第2次桂政権が成立。戊申詔書を発布。内務省を中心に地方改良運動を実施。税収アップを試みた。

 09年、伊藤博文元老が、南満洲で暗殺。元老の中心は、山県元老になった。

 10年、大逆事件をきっかけに、社会主義勢力への弾圧が行われる。

余談)公家とは

 公家とは、朝廷(京都)の高級官僚の家系である。江戸時代までは、朝廷の要職は世襲されていた。その家系の大部分は、藤原家である。残りは、旧皇族である。その名字は、品があるとされ現在でも名家出身の役柄には、公家の名字を使うことが多い。

 公家の中でも、ランクはあった。

 最上位は、五摂家である。近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家で構成。摂政や関白、太政大臣はこの家柄から出ていた。江戸時代は、禁中並公家諸法度で優遇されていた。幕末にはあまり表舞台に出てこない。首相として登場するのは、戦時期の近衛文麿首相のみである。

 二番目のランクは、清華家(せいがけ)である。三条家、西園寺家、徳大寺家、久我家、花山院家、大炊御門家、菊亭家がある。江戸時代は、冷遇されていた。そのため、明治新政府で要職につくものが多い。明治初期の三条実美や今回登場した西園寺公望は、清華家出身である。ちなみに、久我家のみが旧皇族(村上源氏)の家柄である。

 以下、大臣家が続く。その下が、武官の羽林家と文官の名家がある。その下が半家と続く。岩倉具視氏は、羽林家の家柄である。

原敬政権 立憲政友会

 18年9月に成立。

 立憲政友会の反原派が離党。立憲同志会と合流し、憲政会を結成する。

 加藤高明政権は、病死。

 この時期に、大正時代から昭和時代へ

10年代の主要政党

 桂園時代、議会は板垣派と伊藤博文元首相が連携した立憲政友会と大隈派の立憲国民党の2大政党政党であった。

 桂首相が、西園寺首相率いる立憲政友会に対抗する新党を結成。大隈派の立憲国民党の大部分によって、立憲同志会(のちの憲政会)を結成した。

 これにより、伊藤・西園寺系の立憲政友会、山縣・桂系の憲政会の2大政党と万年野党の犬養毅党首の立憲国民党が主要三党になった。

立憲政友会憲政会立憲国民党
原敬総裁加藤高明総裁犬養毅党首
板垣派大隈派大隈派
伊藤博文元首相
西園寺元首相
山縣有朋元首相
桂元首相
海軍陸軍