前回の復習 1950年代の日本
1950年代の日本。サンフランシスコ講和条約で主権を回復。その後、国際連合に加盟した。経済では、朝鮮特需で好景気に。ここから、高度成長期へ入っていく。政治では、自由民主党が成立。55年体制が始まった。文化では、テレビ放送が始まる。
1940年代後半の国際情勢
45年、第二次世界大戦が集結。国際連合が成立。東欧では多くの共産主義国家が成立。アメリカとソ連の主導権争いが行われる。冷戦である。東南アジアではインドシナ戦争が勃発。これをきっかけにアジア・アフリカで独立を運動が始まる。
終戦後の日本
終戦
日本国憲法の成立
五大改革司令
政治)吉田政権の成立への道
鈴木内閣
ポツダム宣言を受諾。これにより、退陣。
東久邇宮内閣
日本の安定のために、皇族内閣が成立。
占領軍の進駐を受け入れ、9月に降伏文書に調印。帝国陸海軍を解体した。
しかし、GHQの指令を拒否して辞任。さらに、東久邇宮稔彦王前首相は皇籍を離脱。これに合わせて、東久邇宮家を含む11宮家が皇籍を離脱することになった。
幣原内閣
幣原氏は、戦前協調が外交を行った外務大臣。日本進歩党総裁になる。
日本自由党に敗北して退陣。
第一次吉田内閣
日本自由党総裁。日本国憲法を制定。第二次農地改革を実施。
新憲法解散を行うも、選挙に敗北して退陣。
片山社会党政権
47年5月、総選挙で第1党になった社会党が政権を取った。片山社会党政権である。この政権は、社会党、民主党(旧進歩党)と国民協同党の連立政権である。
内務省を解体。警察改革を実施。
労働省を設置。
社会党左派が離脱して、退陣。
芦田民主党政権
48年3月、芦田民主党政権が成立。ただ、民主党の一部議員が吉田自由党に移籍。昭電疑獄事件で退陣。
吉田自由党政権
48年10月、吉田自由党政権が成立。
経済)戦後復興
焦土と化した日本
終戦直後の日本の主要都市は、空襲や原爆の影響で焼け野原(焦土)になっていた。その主要都市に、疎開先や戦地から人々が戻ってきた。街には、家と職を失った人々が溢れかえっていた。
日本は、この戦争ですべての植民地を失う。さらに国富の4分の1を失った。
また、物資不足によって激しいインフレーションが起きた。
5大改革
財閥解体
GHQが最初に実施したのは、財閥の解体である。戦前の日本は、少数の一族が多くの企業を経営し、それを世襲していた。その一族を財閥と呼ぶ。主要な財閥は四大財閥と呼ばれた。それが、三井、三菱、住友、安田である。
GHQは、財閥の市場拡大のために戦争が行われたとして、財閥の解体を実施した。
財閥解体は、3段階で行われた。持株会社の解体。独占禁止法の制定。過度経済力集中排除法による企業の分割。以上の3つである。
最初に行われたのが、持株会社の解体である。
財閥は、企業の株を直接保有するのではなく、持株会社を設立し、会社名義で株を保有した。多くの企業は、持株会社の子会社として、財閥にコントロールされた。現在、〇〇ホールディングスと呼ばれる会社が存在する。これは、持株会社を意味する。持っているを英語表記したHoldingが語源である。当時は、三井本社や三菱本社と言う会社名が使われた。財閥の人々は、株式の配当や役員報酬で生活をしていた。
ちなみに、株式などの資金調達で統合された企業群をコンチェルンという。
株式とは、出資の証明書である。企業は、株式を販売して資金を調達。見返りに株式数に応じて配当を受け取る。また、企業は、社長などの主要人事(役員)や企業方針は、株主総会の承認を受けなければならない。この株主総会は、株式の保有割合で議決権を獲得する。ある企業の株式の過半数を握ると、その企業を事実上コントロールできる。過半数を握った会社を親会社という、過半数を握られた会社を子会社という。財閥は、株式を保有することで多くの企業をコントロールした。
日本政府は、持株整理委員会を設立。財閥の持株会社から買い取り、市場へ売却するとともに、従業員に配布された。
また、財閥の人々にも、株式の処分を指示。さらに企業の役員を辞職させた。
ただ、財閥の銀行はそのまま残った。そのため、銀行が持株会社のかわりの役割をになった。銀行を中心として企業集団は残った。
第2段階として、財閥の再出現を防止するための法整備を行った。それが独占禁止法の制定と公正取引委員会の設置である。
47年4月、独占禁止法を公布。持株会社やカルテルが禁止された。持株会社は、97年6月の橋本首相の金融ビックバンの中で解禁されている。
カルテルとは、少数の企業で協定を結び市場をコントロールする行為である。入札で行われる談合はその一例である。
独占禁止法を元に、公正取引委員会が設置された。持株会社整理委員会も解散し、公正取引委員会に業務を移管した。公正取引委員会は、総理府外局であったが、01年の橋本行革で総理府が総務省に統合。しかし、旧郵政省が保有している免許事業や郵政事業との関係で中立性が問題視される。03年、公正取引委員会は内閣府に移管された。
第3段階は、47年10月に過度経済力集中排除法である。325社がリストアップされた。ただ、冷戦の激化でGHQの政策が転換。実際におこなられたのは11社であった。
電力会社や製鉄会社、ビール会社などが対象になった。でん玉会社は、元々1つの会社であったが、東京電力や関西電力などに分割された。キリンビールとサッポロビールももともと1つの会社であったが、この法律で分割された。
農地改革
農地改革は、小作農を自作農への転換にあった。
明治時代、深刻な不況で土地を売って地租が払えず、土地を売って小作農に転換するものが多くいた。これにより、小作農からの地代で生活する寄生地主と地代を払って農業を行う小作農に別れた。日本の農地の46%が小作農の農地になった。
45年、日本主導で実施。小作料の金納化、農地委員会の拡充。強制譲渡制度による自作農の創設を実施。ただ、小作農の後比率は38%までにしかならなかった。
GHQは、この改革を拒否。46年、第二次農地改革を実施。不在地主の禁止と小作地の保有制限である。これにより、小作農の農地比率は10%まで低下した。
これにより、自作農が急増したが、土地保有制限で農業は小規模化。農業で生活ができない家が多くなり、多くの農民が都市労働者になった。この都市労働者が高度成長期を支えた。
労働の民主化
労働組合の強化も行われた。45年に労働組合法を制定。団体権、団体交渉権、争議権(ストを行う権利)が認められた。翌46年、労働関係調整法が成立。労働争議の手続きを規定。よく47年、片山社会党政権が成立。労働基準法が成立。時給や労働時間等の労働基準の最低条件を法制化した。労働三法がすべて成立した。また、労働省(現在の厚生労働省)が設置された。
経済復興
預金封鎖
戦後直後の日本は、物資不足から激しいインフレが起きた。
そのため、46年、吉田首相は金融緊急措置令を発令。預金封鎖と新円切替で、通貨量の縮小を図った
インフレは抑制。金融恐慌にはならず、最悪の事態は避けられた。しかし、景気の低迷は続いた。
傾斜生産方式
47年、限られた資源を基幹産業に重点的投入する政策を取った。これが傾斜生産方式である。
基幹産業として、石炭、鉄鋼、電力、肥料や造船などが選ばれた。これらの企業は、40年代から50年代の疑獄事件につながる。芦田首相が失脚した昭和電工疑獄事件の昭和電工は、化学肥料の会社である。その後を継いだ吉田首相は、造船疑獄事件で退陣した。
傾斜生産方式の資金は、復興金融公庫債を発行することで調達した。これを引き受けたのが日本銀行である。これにより、通貨量が急増。日本は再びインフレになった。これは復金インフレと呼ばれた。
ドッジライン
翌48年、GHQはインフレ抑制のために「経済安定9原則」を日本政府に指示した。このときに、アメリカからよばれた専門家ドッジ氏の名を取って、ドッジラインと呼ばれた。
主要なものは以下のとおりです。
- 税収アップ シャウプ勧告にもとづき、所得税や法人税などの直接税中心の税制
- 政府支出の縮小 輸出補給金の廃止、公共事業の削減
- 復興金融公庫債を廃止して、インフレを抑制。52年、復興金融公庫の代わりに、金融債を販売して貸付を行う民間銀行が2行発足した。日本興業銀行(現在のみずほ銀行)と日本長期信用銀行(現在のSBI新生銀行)である。
- 対日援助見返り資金特別会計の新設。
- 1ドル=360円の固定相場制
などである。
朝鮮特需へ
50年、朝鮮戦争が勃発。朝鮮戦争の軍需で需要が急増。傾斜生産方式で生産力が増大。