1890年代のポーランド キュリー夫人のラジウム発見

1900年代のポーランド

00年代のポーランド。ロシア革命を受けて、ポーランドは独立。ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約)で世界各国はポーランドの独立を承認した。

 今回は、ポーランドの独立運動の歴史を見ていきます。

1890年代の国際情勢

 日本は、明治時代。日清戦争に勝利した頃である。中国は、日清戦争に敗北により、半植民地化が始まる。

 この頃の最大の出来事は、日露戦争である。この戦争をきっかけに民族自決の機運が高まった。また、建艦競争やモロッコ事件でドイツとイギリス、フランスの関係が悪化。イギリス、フランスとロシアで三国協商が結成された。

キュリー夫人(マリ・キュリー)

キュリー夫人とは

 キュリー夫人は、ポーランド出身の科学者である。フランス人の科学者と結婚。夫婦で放射能部質であるラジウムの研究を行った。結果、キュリー夫人は、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞している。

 キュリー夫人は、日本でしか通用しない。以下では、フルネームであるマリ・キュリーで表記する。

生い立ち

 マリ・キュリーは、67年、ロシアの支配下にあったポーランドに生まれる。愛国心の高い家系で、当時禁止されていたポーランド語も学んだ。

 その後、フランスに嫁いた姉を追って、フランスへ移住した。94年、フランス人科学者のビエール・キュリーと出会い、共同研究を開始。95年に結婚。97年に長女を出産した。

放射線研究の始まり

 キュリー夫人が結婚した95年、物理学では新たな研究分野が登場した。それは放射線である。

 95年、ドイツの物理学者レントゲンが真空放電の研究中に未知の放射線を発見した。レントゲンは、これを「X線」と読んだ。現在健康診断で行われるレントゲン検査は、このX線をつかった検査である。

 この発見をきっかけに、物理学では放射線の研究が急速に進んだ。キュリー夫妻もその中にいた。

 ちなみに、レントゲンは、01年に第1回ノーベル物理学賞を受賞した。

ラジウムの発見

 翌96年、フランス人科学者のベクレルがウラン鉱石から大量の放射線が放出されることを発見した。その功績から、放射線量の単位はベクレルとなっている。

 そして、98年、キュリー夫妻はウラン鉱石のなかにある2つの元素が放射線の元(放射能)であることを突き止めた。1つは、放射線のラテン語である「ラジウム」とし、もう1つは、ポーランドの元素として「ポロニウム」と名付けた。

 キュリー夫妻は、この功績で03年にノーベル物理学賞を受賞している。

 ピエール・キュリーは、病気でノーベル賞の授賞式を欠席。06年、ピエール・キュリーは、急死した。11年、マリ・キュリーはノーベル化学賞を受賞した。

ラジウムとは

 ラジウムやポロニウムは、放射能元素と言われる。これらの元素は、自発的に崩壊し、放射線を発する。この放射線は、レントゲン検査などのざまざまな用途で現在利用されている。

 そのため、放射線を利用するために放射能元素は不可欠である。

ノーベル賞

 ノーベル賞とは、スウェーデンの発明家ノーベルが遺産で創設した賞である。理系分野では、物理学、化学と生理学・医学の3分野、文系分野では、文学と平和の2分野が設定されている。その後、経済学が追加された。

 ノーベルは、33年にスウェーデンに生まれる。ダイナマイトを発明。67年に特許を取得。ダイナマイトの販売で巨万の富を得た。ダイナマイトは、鉱山業や土木業で利用されることを想定された。しかし、その後、兵器としても利用されるようになった。

 96年に、ノーベルは死去。ダイナマイトの兵器利用で大量な人が死んだことを後悔。ダイナマイトで獲得した莫大な遺産でノーベル賞を創設した。そのため、ノーベル賞には平和賞がある。

19世紀初頭の物理学

 ノーベル賞は、物理学の世界に新たなスターを登場させた。それがドイツの物理学者アインシュタインである。05年に特殊相対性理論を発表。15年、一般相対性理論を発表した。

ポーランドから見たフランス

ナポレオン

 ポーランドは、18世紀後半ポーランド分割によって国家が消滅した。その後、プロイセン(後のドイツ)、オーストリアとロシアの支配下に入った。

 19世紀に入ると、ナポレオンがワルシャワ大公国を建国。一時的にポーランドは独立を回復した。

 その関係で、多くのポーランド人がフランスへ移住した。

フランスへ移住したポーランドの偉人

 マリ・キュリーの他に作曲家ショパンがいる。ショパンは、1810年にポーランドで生まれ、その後、フランスに拠点を移す。39年の若さで生涯を閉じた。

 18世紀前半の市民革命の時代を生き抜いた音楽家である。ポーランドでは、独立運動の象徴的存在であった。

露仏同盟

 90年、ポーランドに衝撃的なニュースが入る。フランスがポーランドを支配するロシアと同盟を結んだのである。

独立運動の再開

 この時期の2人の独立運動家はどうしていたのであろうか。

 ピウスツキは、87年にロシアで投獄。この服役生活で多くの社会主義者とである。92年にポーランドに帰国。ポーランド社会等を設立した。

 一方、ドモフスキは、ポーランドでデモ活動に失敗。フランスへ逃亡。90年に露仏同盟が成立。ポーランドへ強制送還。投獄される。その後、釈放。民族連盟を結成する。

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