1900年代のポーランド ポーランド独立運動と日露戦争

1910年代のポーランド

10年代のポーランド。ロシア革命を受けて、ポーランドは独立。ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約)で世界各国はポーランドの独立を承認した。

 今回は、ポーランドの独立運動の歴史を見ていきます。

1900年代の国際情勢

 日本は、明治時代。日露戦争に勝利し、世界各国から一目置かれる存在になった。

 この頃の最大の出来事は、日露戦争である。この戦争をきっかけに民族自決の機運が高まった。また、建艦競争やモロッコ事件でドイツとイギリス、フランスの関係が悪化。イギリス、フランスとロシアで三国協商が結成された。

ポーランド独立運動

19世紀のポーランド

 19世紀のポーランドは、ロシアの支配下にあった。18世紀後半の3度に渡るポーランド分割でポーランドは消滅。ナポレオンによって、一時独立を回復する。しかし、ウィーン会議で再びロシアの支配下に入る。

ピウスツキのポーランド社会党

 20世紀に入ると、ポーランドの独立運動は、2つの組織で推進された。

 1つ目は、ピウスツキのポーランド社会党である。主として、反ロシアの立場を取っていた。

ドモフスキのポーランド国民連盟

 もう1つの組織は、ドモフスキのポーランド国民連盟である。ドモフスキは、反ドイツの立場を取った。

日露戦争と独立運動

日露戦争

 04年、日露戦争が勃発。05年、ポーツマス条約を締結。事実上、日本の勝利に終わった。

ドモフスキ、ピウスツキ来日

 日露戦争が勃発すると、ピウスツキは日本に援助を求めて来日した。しかし、日本はこれに応じなかった。1つは、反ドイツ派のドモフスキの工作が始まっていたこと。もう一つは、植民地大国イギリスと同盟関係にあったことがある。

ピウスツキは孤立

 05年、血の日曜日事件が発生。これをきっかけに社会主義者を中心とした第一次ロシア革命が発生。

 これにより、ポーランド社会党は親ロシア派が多数派になる。これにより、反ロシア派のピウスツキは、ポーランド社会党で孤立する。

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