1920年代のポーランド ソヴィエト=ポーランド戦争と国境問題

1930年代のポーランド

 30年代のポーランドは、ポーランド第二共和国の時代。当時のポーランドは、ピウスツキの独裁政権時代である。隣国のドイツでは、ヒトラーが領土拡張を行っていた。そして、39年、ヒトラーがポーランドへ侵攻した。これが第二次世界大戦の始まりである。

 今回は、ピウスツキ独裁が成立した20年代の歴史を見ていきます。

1920年代の国際情勢

 20年代は、戦間期である。日本は大正時代。大正デモクラシーで普通選挙が開始された。一方で、戦後不況や関東大震災で経済的には苦しい状態であった。

 戦場になったヨーロッパは戦後復興をしていた時期である。一方で、アメリカは、黄金の20年代の全盛期に入った。ソ連が成立すると、各地で共産党が成立した。

ピウスツキ政権

政権掌握前のピウスツキ

 ピウスツキは、ポーランド独立の活動家である。そのため、何度か投獄された経緯がある。

 1892年、ピウスツキは、ポーランド社会党を創設。しかし、社会党が親ロシア的になり、孤立した。

 18年、ポーランドは、独立を達成。20年のソヴィエト=ポーランド戦争でポーランド軍を指揮。勝利へ導いた。これにより、国民の指示を集めた。21年に憲法が成立。これを機にピウスツキは、23年に政界を引退した。

5月革命で独裁政権

 ポーランドが独立。初代大統領が暗殺。戦後インフレで混乱していた。そのため、ポーランドは救世主を求めていた。

 戦後の混乱期、人々は強いリーダーを求めていた。ドイツではヒトラーであり、ポーランドではピウスツキであった。25年5月、ポーランドで革命が発生。ピウスツキ独裁が成立した。これは、「5月革命」と呼ばれている。

ピウスツキの政策

 ピウスツキは、5月革命で政権を掌握。反対派を次々投獄。独裁体制を構築した。一方で、腐敗した政治家を粛清し、人々の支持を集めた。

 また、反対派を粛清した一方で、議会を重視した。

ユダヤ人の流入

 ピウスツキは、諸民族の宥和政策を取った。そのため、ソ連やドイツで反ユダヤ政策が行われると、多くのユダヤ人が亡命した。

ソヴィエト=ポーランド戦争

概要

 ソヴィエト=ポーランド戦争とは、20年4月に始まったポーランドとソヴィエトの戦争である。戦争の要因は、国境問題であった。20年8月、ポーランドの勝利で戦争が終結した。

 この戦争で活躍したピウスツキが5月革命で独裁政権を敷くことになる。

原因は国境問題

 ソヴィエト=ポーランド戦争の要因は、国境問題である。ポーランドは、18世紀(100年以上前)のポーランド分割以前の領土を主張した。しかし、ソ連はそれを認めなかった。

 周辺国は、これを仲介しようとした。イギリス外相カーゾン卿が提案したカーゾン線である。これは、18世紀の第3次ポーランド分割のときのポーランドとロシアの国境であった。

 ポーランドは、これを受け入れられず、戦争に突入した。

 21年3月に講和。カーゾン線より東に20kmのところが国境にされた。

 この国境問題は、第2次世界大戦や43年のテヘラン会談へつながる。

ソヴィエト干渉戦争

 ソヴィエト=ポーランド戦争は、ソヴィエト干渉戦争の1つと考えられている。日本史で言うシベリア出兵である。

 17年11月、ロシア革命でレーニンを中心としたソヴィエト政権が成立。翌18年3月、ソヴィエト政権は、ドイツと単独講和した。

 翌4月、イギリス、フランスと日本は、ドイツと講和したソヴィエトに宣戦布告した。8月、ソヴィエトの捕虜になったチェコ兵隊の救出のために、米を中心としたソヴィエト干渉戦争が始まる。

 20年にソヴィエト干渉戦争はほぼ終わった。しかし、22年、日本軍の撤兵によりソヴィエト干渉戦争は終結した。

戦況

 開戦直後は、ポーランドが優勢であった。ウクライナのキーウ(キエフ)周辺までポーランド軍が進軍した。

 しかし、4月、赤軍(ソヴィエトの軍隊)の体制が整うと反撃開始。6月、ワルシャワは包囲された。このとき、ピウスツキ率いる主力部隊は、ウクライナにいた。

 主力部隊が急遽ワルシャワへ帰国。8月、ポーランド軍はソ連軍に勝利(ヴィスワ川の奇跡)。ポーランドは勝利で終戦した。

 ポーランドは再び進軍。しかし、財政難により、10月に停戦。翌21年3月のリガ条約で講和した。

ウクライナへの影響

 ウクライナでは、ロシア革命以後、親ソヴィエト勢力と反ソヴィエト勢力で内戦状態にあった。

 21年、ソヴィエト=ポーランド戦争が終結すると、翌22年、ロシア=ソヴィエト社会主義共和国、白ロシア=ソヴィエト社会主義共和国とウクライナ社会主義共和国の3カ国でソヴィエト連邦(ソ連)が成立した。

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