1940年代後半のポーランド
第二次世界大戦後のポーランドは、イギリスが支援する亡命政府とソ連が支援する労働党政権の主導権争いが行われていた。最終的には、親ソの統一労働党政権が成立する。
1940年代前半の国際情勢
1940年代前半は、第2次世界大戦の時代である。
世界大戦は、2つともイギリスとドイツの戦争である。第2次世界大戦は、自由主義勢力のイギリスと、ヒトラー率いるファシズム勢力のドイツとの戦争である。39年、ドイツ・ソ連のポーランド侵攻で始まる。日本も、ドイツ陣営で参戦した。45年5月に、ドイツが降伏。8月に日本が降伏して、終戦した。
ポーランド問題
概要
イギリスとソ連は、第2次世界大戦末期、ポーランド問題で対立していた。ポーランド問題は、2つの問題が含まれている。1つは、国境線の問題。2つは、政治体制の問題である。
2つの政権
第2次世界大戦末期、ポーランド新政権候補は2つあった。
1つ目は、イギリスが支援する亡命政府である。亡命政府は、第2次世界大戦でポーランドがドイツとソ連に分割された時に、ロンドンに亡命した政府である。
2つ目は、ソ連が支援する共産党系のルブリン政府(国民解放戦線)である。ルブリン政府は、国内に残った共産党系勢力を中心に成立した政府である。ナチス・ドイツに抵抗し続けた。
国境線の問題
2つの政府は、国境線でも対立した。
国際的には、第1次世界大戦後の国境をベースに検討していた。しかし、実際は、ロンドン亡命政府は、それよりも東側の国境を主張した。
テヘラン会談
テヘラン会談は、43年に行われた初の米英ソの首脳会談である。
当時の戦況は、イギリス陣営が反転攻勢に入り始めた頃である。ソ連は、2月にスターリングラード攻防戦でドイツ軍に勝利。米英は、9月にイタリアを降伏させた。
テヘラン会談の論点は3つである。
- ヨーロッパ戦線の戦略
- ポーランドの国境
- ソ連の日ソ中立条約の破棄
アメリカは、太平洋戦争で苦しんでいた。そのため、ソ連の対日参戦を心から臨んでいた。しかし、ソ連は、ヨーロッパ戦線に集中したいため、対日参戦には消極的であった。アメリカは、ソ連の協力を得るため、それ以外の状況については、ソ連に譲歩的であった。
ヨーロッパ戦線では、米英の主力舞台は、イタリアや北アフリカにいた。そのため、地中海からバルカン半島(ギリシャ・トルコ)からドイツを目指す方向で検討していた。一方で、ソ連は、東欧で強い影響力を持ちたいため、米英軍はフランスから上陸して、ドイツを挟み撃ちにする戦略を求めていた。アメリカがソ連に妥協した結果、フランスからの上陸で決定した。これが、44年のノルマンディー上陸作戦につながる。
ポーランドは、大きな平原にある。そのため、国境が変動する歴史を繰り返していた。テヘラン会談では、ポーランドの国境が確定した。これは、現在のポーランドの国境である。
東(ソ連<ベラルーシ・ウクライナ>側)は、カーゾン線である。これは、第一次世界大戦後に成立した国境である。イギリスのカーゾン卿が引いたことから定められた線である。戦前に比べ、国境が西へ移動。ポーランドがソ連に国土を割譲したことになる。
西(ドイツ側)は、オーデル=ナイセ線を国境に設定した。これは、オーデル川とナイセ川を基準にした国境である。戦前に比べ、国境は西へ移動した。これは、カーゾン線で割譲した国境を補填する意味合いがあった。
テヘラン会談では、この国境で確定した。しかし、ロンドンのポーランド亡命政府がこれに反発。国境問題は、一旦博士になった。
ワルシャワ蜂起
44年7月、ノルマンディー上陸作戦。米英軍がフランスに上陸した。
この頃ポーランドでは、ソ連軍がポーランドの解放を勧めていた。ロンドンのポーランド亡命政府は、ポーランドがソ連の支配したに置かれるのを脅威に感じていた。
ロンドンのポーランド亡命政府は、翌8月、ワルシャワで対ドイツの蜂起を実施した。これがワルシャワ蜂起である。これは、亡命政府が戦後政治の主導権を握る意味合いがあった。
ソ連軍は、ワルシャワ近郊まで迫っていたが、ワルシャワ蜂起を静観した。
このワルシャワ蜂起は失敗。10月、ドイツ軍によって鎮圧された。
翌45年1月、ソ連軍がワルシャワを解放。共産党系勢力を中心とした国民解放委員会(ルブリン政府)を設置した。これにより、ポーランドはロンドン亡命政府とルブリン政府という2つの政府を持つ国家になった。
ヤルタ会談
45年2月、米英ソによる2回目の首脳会談が行われた。場所は、クリミア半島(ソ連)のヤルタである。クリミア半島は、黒海防衛の軍事拠点であるとともに、温暖な気候から別荘地としても有名な地域である。
この中で、ルーマニアとアルバニアは、チェコ侵攻に反対。軍隊を派遣しなかった。アルバニアは、その後にワルシャワ条約機構が脱退している。
参加国の間でも、積極度に差はあった。強硬派は、ソ連、ポーランドと東ドイツである。一方、ハンガリーは、チェコスロバキアと交渉を行い、侵攻回避に動いていた。
一方、ワルシャワ条約機構に参加しない東側諸国は、ソ連を避難した。その代表は、独自路線をすすめるユーゴスラビアと中ソ対立の最中の中国であった。
制限主権論
68年9月、ブレジネフ書記長は、チェコ事件を正当化するために、ブレジネフ・ドクトリンを発表した。これが、「制限主権論」である。内容は、以下の通りである。
社会主義諸国は、社会主義共同体としての利益を、各国個別の国家的利益に優先しなければならない。社会主義共同体全体の利益が脅威にさらされた場合は、共同して介入して全体利益を守ることが社会主義国の義務である。
UP主が要約すると、社会主義全体(事実上、ソ連)のためには、各国の主権は制限できるということである。
68年革命
68年は、世界各地で学生運動が行われた。この時期は第二次世界大戦後のベビーブームで生まれた世代(日本の団塊世代)が20歳前後になった時代である。
フランスでは、5月革命でド=ゴール政権が崩壊。
アメリカでは、ベトナム反戦運動や公民権運動が盛んになる。
中国では、文化大革命が起こる。
日本でも、学生運動が盛んになる。ベトナム反戦運動や安保闘争もおきたが、水俣病などの環境問題が注目されたのもこの時代である。
プラハの春の影響
プラハの春で判明したことは、東側諸国が一枚岩出ないことである。一方で、アメリカも、ベトナム戦争で余力がなくなっていた。
その結果、起きたのが70年代のデタント(緊張緩和)である。また、西ドイツの東方外交もチェコ事件を受けて始まった。
独ソ戦
概要
社会主義とは、簡単に言えば、社畜による社畜のための政治ということである。
現在の経営者(資本家、ブルジョワ)と社畜(労働者、プロレタリア)の関係は、中世(封建主義)の領主と奴隷の関係のようなものである。すなわち、社畜とは、経営者の奴隷であると考えた。
フランス革命で、領主(貴族)が追放されて、資本家が自由になった。同じように、経営者(資本家)を追放すれば、社畜にとってハッピーな世界になると考えた。そのため、経営者(資本家)が台頭しないような世界を実現するのが社会主義である。
カチンの森事件
社会主義では、土地などの資本(生産手段)の差が、格差をうんでいると考えている。
そのため、土地などの資本の個人所有を禁止している。中国では、不動産をレンタルすることはできるが、所有することはできない。
企業や土地などの生産手段は、個人(民間)ではなく、国家が保有する。そのため、企業の大部分は、国営企業になる。物の価格や給料は、国家が決定する。
日本では、企業は民間が保有する。しかし、労働基準法や独占禁止法などの法律によって、企業の活動に一定の制限を与え、労働者を保護している。
ポーランド分割
独ソ不可侵条約
資本主義では、自由な選挙によって金を持つものが金の力で政権を取っている。それを批判して、労働者の代表の集まりである共産党(国によっては労働党)以外の政党を追放した。
これが、共産党一党独裁のバックボーンである。
しかし、共産党の一党独裁は腐敗を呼び、政府高官への汚職が横行。これが民主化の動きに繋がった。
日本では、70年代から80年代にかけて、政治とカネの問題がクローズアップされた。そのため、90年代にかけて
英仏の反応
現在は、インターネットが普及し、誰でも情報発信ができるようになった。しかし、
ゴムウカ第一書記が失脚すると、ギエレク政権が成立した。しかし、経済の低迷は続いた。これにより、ポーランドでは未集荷要求の声が高まった。
そして、80年の物価引き上げ政策に失敗。全国規模のストライキが発生。ギエレク政権が崩壊した。