1950年代のポーランド
50年代のポーランド。フルシチョフ書記長の「スターリン批判」を受けて、反ソ暴動が発生。これによりゴムウカ政権が成立する。
1940年代後半の国際情勢
45年に第二次世界大戦が終わる。日本は、GHQの占領下に置かれる。
世界では、国際連合が結成。現在まで続く国際機関が成立する。一方で、アメリカ陣営とソ連陣営の間で冷戦がはじまる。
冷戦の始まり
冷戦とは
冷戦とは、第2次世界大戦後から89年マルタ会談までつづく資本主義陣営と社会主義陣営の対立である。資本主義陣営の中心はアメリカであり、社会主義陣営の中心はソ連(後のロシア)である。
2つの世界大戦と違い、両国は直接軍事衝突はしていない。その理由は、45年に実戦投入された核兵器の登場にある。しかし、それ以外の地域で資本主義勢力と社会主義勢力の対立があれば、たがいに軍事支援を行った。これが代理戦争である。
コミンフォルム(共産党情報局)
冷戦が表面化したのは、47年6月のチェコスロバキアのクーデターである。
47年3月、アメリカはトルーマン=ドクトリンを発表。今日参加の可能性のたかいトルコとギリシャを軍事支援を発表。同年6月、アメリカは、ヨーロッパ諸国への資金援助計画を発表した。これがマーシャル=プランであった。西欧諸国は、すぐにこれに乗った。共産党勢力はこれを脅威に感じた。
同47年10月、ソ連は、マーシャル=プランに対抗するために、コミンフォルム(共産党情報局)を結成した。
ソ連や東欧諸国の他、フランスやイタリアの共産党も参加した。
チェコスロヴァキアのクーデター
47年6月、チェコスロバキアでは、マーシャル=プランの受け入れをめぐり、共産党と首相が対立した。翌48年2月、チェコスロバキア共産党は、ソ連の支援でクーデターに成功。共産党政権を樹立した。
イギリスとフランスは、ベネルクス3国(オランダ、ベルギーとルクセンブルク)に、クーデターが波及することを恐れて、翌3月、西ヨーロッパ連合条約を締結。NATOの前身である。
ベルリン封鎖
舞台は、ドイツへ波及した。ドイツは、米英仏ソの4カ国による分割統治がおこなわれた。
ただ、ソ連の担当地域にあったベルリンは、別途4カ国で分割統治した。ソ連以外が担当していた地域が西ベルリンである。
ただ、重要なことは、4カ国による共同委員会で決めることになっていた。
48年6月、米英仏は、共同委員会を無視して、通貨改革を断行した。これに、ソ連は激怒。ベルリン封鎖を実施した。これは、西ベルリンの物流を停止した事件である。
翌49年5月、米英仏ソが和解。ベルリン封鎖は解除された。翌6月に西ドイツが、10月に東ドイツが成立した。
親ソ政権の成立
イギリス vs ソ連
第2次世界体制中、ポーランド政府は、イギリスに亡命政権を樹立していた。一方で、ナチス支配下のポーランドでは、ゴムうかを中心とした共産党勢力が抵抗運動を展開していた。
45年2月、ヤルタ会談でポーランド問題が話し合われる。自由選挙による新政権を速やかに成立させることが決まった。
45年4月、国際連合結成のためのサンフランシスコ会議を開催。しかし、イギリスとソ連に配慮して、ポーランドは代表を置くなかった。
45年5月、ベルリン陥落。ヨーロッパでの第二次世界大戦は集結した。
45年6月、ポーランド亡命政府がポーランドに帰国。臨時政府を樹立した。このとき、労働党(共産党から名称変更)のゴムウカも副首相になった。
45年8月、日本がポツダム宣言を受諾。
45年10月、国際連合が発足。ポーランドも現加盟国として参加することができた。
西への移動
ポーランドは、東部をベラルーシとウクライナに割譲。カーゾン線が国境になった。このカーゾン線は、第1次世界大戦後に定められた国境になる。
一方で、ナチスに奪われたバルト海沿岸部のポーランド回廊とダンツィヒを回復した。
さらに、オーデル=ナイセ線によって、ドイツから西部の領土を獲得することになった。この国境線が正式に確定したのは、72年の西ドイツ=ポーランド国交回復条約のときである。
民主主義ブロック選挙
このあと、ヤルタ協定に基づいて自由選挙を行う予定であった。
ソ連は、東欧諸国で敗北が予測された。そのため、東欧の選挙では労働党や共産党に優位な選挙を実施。これにより、東欧諸国で共産党・労働党政権が成立した。
ポーランドも例外ではない。ゴムウカ統一労働党政権に優位な選挙を実施。ゴムウカ政権を実施した。
ゴムウカ政権
ゴムウカは、労働党の一党独裁を否定していた。小規模農業の自営を容認。カトリック勢力との連携を強めた。
47年、アメリカがマーシャル・プランを発表。ゴムウカ政権はマーシャル・プランの受け入れを検討しております。また、ソ連がコミンフォルムを結成すると、ゴムウカ政権は懐疑的であった。
48年、労働党と社会党が合同。統一労働党が成立した。
ゴムウカ失脚
ソ連のスターリン書記長は、ゴムウカ氏を警戒していた。ソ連派の労働党幹部は、ゴムウカ氏を統一労働党から除名。51年、ゴムウカ氏を投獄。