1960年代のポーランド
60年代のポーランド。東西冷戦は雪解けの時代であった。そのような中で、プラハの春がチェコスロバキアで起こる。ソ連は、ワルシャワ条約機構を使って鎮圧に向かうが、足並みは揃わなかった。
ポーランドは、ゴムウカ政権の時代。外交面では親ソ政策を取った。
1950年代の国際情勢
日本は、鳩山政権の時代。朝鮮特需をきっかけに、高度成長期に入っていく。政治では、自由民主党が成立。55年体制に入る。
50年代の世界は、アジア・アフリカ諸国が独立して行く時代である。49年の中華人民共和国の成立をきっかけに、朝鮮戦争が勃発。ジュネーブ講和会議でベトナムの独立が認められる。第2次中東戦争で中東諸国がイギリス・フランスに事実上勝利。フランスは、ド=ゴール政権が成立。そして、60年のアフリカの年につながる。
反ソ暴動
概要
56年、ポーランドでボズナニ暴動が発生。これをきっかけに反ソ暴動が起こる。この暴動で、ゴムウカ政権が成立する。
スターリン批判
53年3月、スターリンが死去。スターリン独裁が終わる。
56年2月、フルシチョフ書記長がスターリン批判を実施。4月には、コミンフォルムを解散した。これにより、ソ連の各国共産党への支配が弱まった。
そして、6月にボスナニ暴動が起こる。
ゴムウカ政権へ
ゴムウカ氏は、マーシャル=プランの受け入れでソ連と対立。投獄されていた。
ポーランド労働党政権は、ゴムウカ氏を釈放。政権に復帰させた。
ゴムウカ氏は、過度なソレントの衝突を避け、ワルシャワ条約機構(東欧の軍事同盟)に残留した。
ハンガリー
56年6月、ポーランドで反ソ暴動が始まると、同年10月、ハンガリーでも反ソ暴動が起こった。
この暴動で、親ソ政権が崩壊。ナジ=イレム政権が成立した。
ナジ=イレム首相は、共産党以外の政党を容認(複数政党制の導入)。ワルシャワ条約機構が脱退した。
ソ連軍はハンガリーに軍隊を派遣。反乱が鎮圧。親ソ政権が成立。ナジ=イレム前首相はソ連軍に捕まり、処刑された。
WTO ワルシャワ条約機構
ワルシャワ条約機構とは
ワルシャワ条約機構とは、ソ連陣営である東欧諸国で結ばれた軍事同盟である。55年5月に成立し、91年まで続いた。
西ドイツのNATO加盟
ワルシャワ条約機構結成のきっかけは、ドイツの問題であった。40年代後半、アメリカ・イギリスとソ連がドイツ統治の主導権争いが行われた。そのピークが48年のベルリン封鎖であった。
49年5月、西ドイツが成立。同年10月、東ドイツが成立。ドイツは完全に分裂した。
55年5月、西ドイツは、再軍備の実施とNATOへの加盟が決定された。これは、ソ連陣営の東ドイツに脅威を与えた。そのため、同5月、ワルシャワ条約機構が結成された。
加盟国
加盟国は、以下の通りである。
- ソ連 東側陣営の親玉
- 東ドイツ 西ドイツに対抗
- ポーランド
- ハンガリー
- チェコスロバキア
- ルーマニア
- ブルガリア
- アルバニア 68年にプラハの春で脱退
なお、ユーゴスラビアは、48年にコミンフォルムを追放されているため、ワルシャワ条約機構に参加していない。