1960年代のポーランド プラハの春とゴムウカ政権

1970年代のポーランド

 70年代のポーランド。経済政策の失敗でゴムウカ政権が崩壊。新政権も経済を好転させることができなかった。これがポーランドを民主化へ向かわせた。

1960年代の国際情勢

 日本は、佐藤政権の時代。高度成長期で東京オリンピックが開催された。

 冷戦は雪解けの時代が終わり、キューバ危機が発生。キューバ危機をきっかけに軍縮交渉が始まった。

プラハの春と「制限主権論」

プラハの春

 プラハの春とは、68年にチェコスロバキアで起きた民主化運動である。

 60年代、チェコスロバキアの経済は低迷していた。そのため、民主化の要求が高まった。

 68年4月、改革派のドプチェク政権が成立。民主化運動を受けて、言論の自由が認められた。

 しかし、68年8月、ソ連(ロシア)のブレジネフ書記長は、ワルシャワ条約機構をうごかし、首都プラハを占拠。ドプチェク第一書記は逮捕。プラハの春は、終わった。

民主化とは

 民主化とは、現在の日本のように選挙で政治の方向性を決める仕組みである。

 60年代の東欧諸国は、共産党系政党の一党独裁政権であった。そのため、共産党が、国民の意見を無視して政治を行うことができた。

チェコスロヴァキアとは

 チェコスロヴァキアは、中欧の国で首都はプラハである。現在は、チェコとスロヴァキアに分かれている。民族はチェック人とスロヴァキア人で構成されている。

 プラハは、モルダウ川のほとりの風光明媚な街である。中世の歴史的建造物が数多く残っている。

 始まりは、ボヘミア王国である。その後、オーストリア帝国(神聖ローマ帝国)の支配を受けていた。中欧最古の大学であるプラハ大学が14世紀に成立。神学者フスも、プラハ大学の教授であった。

 チェコは、民族の違いから反乱が何度も起きている。そこから、ヨーロッパでは、自由奔放の代名詞となっていた。そこから生まれたことが、ボヘミアンである。ボヘミアは、中世のチェコの国名である。

 チェコスロヴァキアは、第一次世界大戦後に成立。

 第二次世界大戦後の48年、チェコスロヴァキアの選挙で、共産党が敗北。これを受けて、共産党がソ連の支援を受けてクーデターを実施。これが冷戦の始まりとなった。

 そのため、50年代には反ソ暴動がおきなかった。その不満が68年のプラハの春につながる。

ソ連のブレジネブ書記長

 ブレジネフ書記長は、64年にフルシチョフ書記長を追放して、政権を掌握した。

 フルシチョフの改革路線を否定し、保守的な政策をすすめた。政策的には、スターリンに近い政策を取った。

東欧諸国の反応

 鎮圧軍を派遣したのは、ワルシャワ条約機構である。参加国は、ソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアとアルバニアの8カ国である。しかし、この鎮圧でワルシャワ条約機構は1枚岩に離れなかった。

 この中で、ルーマニアとアルバニアは、チェコ侵攻に反対。軍隊を派遣しなかった。アルバニアは、その後にワルシャワ条約機構が脱退している。

 参加国の間でも、積極度に差はあった。強硬派は、ソ連、ポーランドと東ドイツである。一方、ハンガリーは、チェコスロバキアと交渉を行い、侵攻回避に動いていた。

 一方、ワルシャワ条約機構に参加しない東側諸国は、ソ連を避難した。その代表は、独自路線をすすめるユーゴスラビアと中ソ対立の最中の中国であった。

制限主権論

 68年9月、ブレジネフ書記長は、チェコ事件を正当化するために、ブレジネフ・ドクトリンを発表した。これが、「制限主権論」である。内容は、以下の通りである。

 社会主義諸国は、社会主義共同体としての利益を、各国個別の国家的利益に優先しなければならない。社会主義共同体全体の利益が脅威にさらされた場合は、共同して介入して全体利益を守ることが社会主義国の義務である。

 UP主が要約すると、社会主義全体(事実上、ソ連)のためには、各国の主権は制限できるということである。

68年革命

 68年は、世界各地で学生運動が行われた。この時期は第二次世界大戦後のベビーブームで生まれた世代(日本の団塊世代)が20歳前後になった時代である。

 フランスでは、5月革命でド=ゴール政権が崩壊。

 アメリカでは、ベトナム反戦運動や公民権運動が盛んになる。

 中国では、文化大革命が起こる。

 日本でも、学生運動が盛んになる。ベトナム反戦運動や安保闘争もおきたが、水俣病などの環境問題が注目されたのもこの時代である。

プラハの春の影響

 プラハの春で判明したことは、東側諸国が一枚岩出ないことである。一方で、アメリカも、ベトナム戦争で余力がなくなっていた。

 その結果、起きたのが70年代のデタント(緊張緩和)である。また、西ドイツの東方外交もチェコ事件を受けて始まった。

東欧の政策

共産党の考えの背景

 社会主義とは、簡単に言えば、社畜による社畜のための政治ということである。

 現在の経営者(資本家、ブルジョワ)と社畜(労働者、プロレタリア)の関係は、中世(封建主義)の領主と奴隷の関係のようなものである。すなわち、社畜とは、経営者の奴隷であると考えた。

 フランス革命で、領主(貴族)が追放されて、資本家が自由になった。同じように、経営者(資本家)を追放すれば、社畜にとってハッピーな世界になると考えた。そのため、経営者(資本家)が台頭しないような世界を実現するのが社会主義である。

経済

 社会主義では、土地などの資本(生産手段)の差が、格差をうんでいると考えている。

 そのため、土地などの資本の個人所有を禁止している。中国では、不動産をレンタルすることはできるが、所有することはできない。

 企業や土地などの生産手段は、個人(民間)ではなく、国家が保有する。そのため、企業の大部分は、国営企業になる。物の価格や給料は、国家が決定する。

 日本では、企業は民間が保有する。しかし、労働基準法や独占禁止法などの法律によって、企業の活動に一定の制限を与え、労働者を保護している。

政治

 資本主義では、自由な選挙によって金を持つものが金の力で政権を取っている。それを批判して、労働者の代表の集まりである共産党(国によっては労働党)以外の政党を追放した。

 これが、共産党一党独裁のバックボーンである。

 しかし、共産党の一党独裁は腐敗を呼び、政府高官への汚職が横行。これが民主化の動きに繋がった。

 日本では、70年代から80年代にかけて、政治とカネの問題がクローズアップされた。そのため、90年代にかけて

マスコミと言論の自由

 現在は、インターネットが普及し、誰でも情報発信ができるようになった。しかし、

ゴムウカの政治

 ゴムウカ第一書記が失脚すると、ギエレク政権が成立した。しかし、経済の低迷は続いた。これにより、ポーランドでは未集荷要求の声が高まった。

 そして、80年の物価引き上げ政策に失敗。全国規模のストライキが発生。ギエレク政権が崩壊した。