前回の復習 18世紀前半のシリア・パレスチナ
18世紀のシリア・パレスチナは、オスマン帝国の支配下あった。当時のオスマン帝国は、南北に大きな敵を抱えていた。北方は、ロシア帝国が南下政策を実施。一方で、南部のアラビア半島ではワッハーブ王国(のちのサウジアラビア)が成立した。
17世紀後半の国際情勢
17世紀、日本は江戸時代。犬将軍こと徳川綱吉の時代である。
アジアは、四大大国の時代。中国は、清王朝の時代。高規定が即位し、中国大陸を統一していく時代。インドは、ムガル帝国の時代。アウラングゼーブ帝の時代である。イランでは、サファヴィー朝。トルコではオスマン帝国が成立している。
ヨーロッパでは、イギリスではイギリス革命で混乱。その影響でフランスは、太陽王ルイ14世のブルボン朝全盛期を迎える。
vsヴェネツィア
ヴェネツィアとの戦い
オスマン帝国は、地中海の制海権をめぐり、16世紀からヴェネツィアと戦争を続けていた。
45年、クレタ島をめぐり、オスマン帝国とヴェネツィアとの間で戦争が勃発した。
ヴェネツィア軍の海上封鎖で、物価高騰。これにより、当時の宰相が失脚した。
クレタ島の獲得
クレタ島は、エーゲ海の南にあり、地中海からの玄関口に当たる国である。
16世紀、クレタ島は、ヴェネツィアの支配下にあった。69年、オスマン帝国は、ヴェネツィアからクレタ島を獲得した。
このクレタ島は、19世紀前半のエジプト=トルコ戦争の時代に、エジプト総督領である。
ヨーロッパに敗北
オーストリア(第2回ウィーン包囲)
61年、オスマン帝国は、ハンガリーに侵攻した。
83年、ハプスブルグ領のハンガリーで反乱。反乱軍は、オスマン帝国に応援を要請。これが第2回ウィーン包囲(大トルコ戦争)である。ポーランド軍とドイツ諸侯軍の援軍で撤退を余儀なくされた。
99年、カルロヴィッツ条約を締結
ロシア アゾフ海を奪われる
ロシア帝国では、82年にピョートル大帝が即位。ここから、ロシアの南下政策がはじまる。
ロシアの南下政策とは、黒海からボスフォラス=ダーダネルス海峡を通って地中海に出るルートを確保する政策である。
96年、オスマン帝国はロシアにアゾフ海の制海権を奪われる。
ミレット制
オスマン帝国の異教徒政策は、ミレット制に象徴される。
ミレットとは、宗教共同体を意味し、ギリシャ正教会、アルメニア教会とユダヤ教の3つのミレットが存在した。
ミレットには、人頭税(シズヤ)の納税義務がある。一方で、自治権が認められていた。
スルタンの推移
メフメト4世
48年即位。弟のスレイマン2世と後継者争いが行われていた。
皇帝メフメト4世は、多くの指示を得るために、戦争を繰り返した。そのため、メフメト4世の時代にバルカン半島で最大の領土を獲得した。
第2回ウィーン包囲を実施。しかし、失敗して、退位する。
スレイマン2世
87年即位。前皇帝メフメト4世が第2回ウィーン包囲の失敗で退位したのを受けて即位。す
ヨーロッパから軍事顧問を雇い、軍隊の近代化を実施した。
アメフト2世
91年即位。前皇帝スレイマン2世の弟である。