1820年代のシリア・パレスチナ シリアとギリシャ独立戦争

前回の復習 1830年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀前半のオスマン帝国は少数民族の独立運動やロシアの南下政策に悩まされていた。

 1830年代のシリア・パレスチナは、エジプト=トルコ戦争の係争地であった。この時期から多くのヨーロッパ商人がシリアに移住するようになった。

1820年代の国際情勢

 1820年代、日本は江戸時代。徳川家斉の大御所政治の時代。江戸は、化成バブルに湧いた。浮世絵など江戸の文化はこの時期に形成された。

 中国は、清王朝の時代。白蓮教徒の乱やインド産アヘン問題で衰退期に入り始めた。

 ヨーロッパは、ナポレオン戦争が終結して、反動政治が行われていた時代。ラテンアメリカの独立運動やギリシャ独立運動で市民革命の勢いがつき始めた。

原因は、ギリシャ独立戦争の恩賞

 エジプト総督のムハンマド=アリーは、ギリシャ独立戦争の援軍の見返りに、シリア総督の地位を求めた。しかし、オスマン皇帝は、シリアではなくクレタ島のみであった。

第1次エジプト=トルコ戦争

 31年、エジプト総督のムハンマド=アリーは、シリアへ兵を進めた。

 フランス(七月王政)は、エジプトを支援。一方で、ロシアは、オスマン帝国を支援した。

 この会議で、シリアはエジプトからオスマン帝国へ返還された。その見返りに、オスマン帝国は、ムハンマド=アリーにエジプトとスーダン(エジプトの南)の世襲を認めた。

 これにより、エジプトは事実上の独立を果たした。

西欧諸国への約束 タンジマート

原因は、聖地管理権

 38年、オスマン帝国は、イギリスと通商航海条約を締結。この条約は不平等条約で、オスマン帝国は、イギリスに対して治外法権をみとめ、関税自主権を放棄した。

 この条約は、58年の日米修好通商条約のベースになった。

第二次エジプト=トルコ戦争

 39年、ムハンマド=アリーは再びオスマン帝国へ侵攻。

 フランス革命が起こると、フランスはカトリックを禁止。このとき、フランスは聖地管理権を放棄した。この時、かわりに聖地管理権を得たのが、ギリシャ正教会のロシアであった。

 カトリックのトップであるローマ教皇はこれをこころよく思わなかった。ナポレオン3世は、皇帝権威を高めるために、カトリックを利用した。ローマ教皇とナポレオン3世の関係が良好になると、ナポレオン3世はオスマン帝国に聖地管理権の返還を要求した。

タンジマート(西欧化政策)

ヨーロッパ商人がシリアへ

ヨーロッパ資本に依存

 56年、改革勅令が出された。これにより、タンジマート後半戦が始まる。61年、アブデュルアジト1世が即位した。

ロンドン講和会議

 40年、イギリスは、旧五国同盟参加国のうち、フランスをのぞく、プロイセン、オーストリアとロシアを招集。ロンドン会議を参加した。フランスは、エジプトへの肩入れが強かったため、参加できなかった。

 40年、イギリスの仲介で、第二次エジプト=トルコ戦争は終結。オスマン帝国は、ムハンマド=アリーにエジプトとスーダンの総督の世襲を認めた。一方で、シリアはオスマン帝国をだっかいした。