18世紀後半のシリア・パレスチナ ヨーロッパとの関係が深まる

前回の復習 1800年代のシリア・パレスチナ

 19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀前半のオスマン帝国は少数民族の独立運動やロシアの南下政策に悩まされていた。

 ナポレオンのエジプト遠征でオスマン帝国とフランスの関係は、悪化。エルサレムの聖地管理権をロシアに渡した。

18世紀後半の国際情勢

 18世紀後半(1751年〜1800年)、日本は江戸時代。田沼意次の時代と寛政の改革の時代である。

 中国は、清王朝の時代。乾隆帝の時代である。乾隆帝がなくなると清王朝も衰退期へ入っていく。

 ヨーロッパは、英仏が植民地争奪戦を行っていた時代。七年戦争、アメリカ独立戦争がおき、18世紀末にフランス革命が起こる。

ヨーロッパに敗北

ロシア 黒海を巡る攻防

 18世紀後半のオスマン帝国は、ヨーロッパ諸国に領土を奪われた時代である。その国は2つある。ロシアとオーストリアである。

 ロシアは、エカチェリーナ2世の時代である。このとき、ロシアは、2回オスマン帝国へ侵攻した。

 68年、黒海北岸へ侵攻。74年、オスマン帝国は、敗北。クリム=ハン国の保護権をロシアに譲渡した。

 83年、ロシアはクリム=ハン国を併合。クリム=ハン国の人々は、オスマン帝国に支援を求めた。これによりロシアとオスマン帝国の戦いは再び始まった。これが第2次ロシア=トルコ戦争である。

オーストリア バルカン半島北西部

 第2次ロシア=トルコ戦争では、オーストリアはロシア側に参戦。バルカン半島へ侵攻した。

イギリスと同盟

 オスマン帝国は、ロシア・オーストリアと戦うため、89年、イギリスとスウェーデンと同盟を結んだ。

 92年、イギリスとスウェーデンが手を引いた。フランス革命の影響で、オスマン帝国に関与できる余裕はなくなった。翌93年、第1回そのため、オスマン帝国は、戦争継続は対仏大同盟

困難。ロシアのクリミア半島領有を認めた。

セリム3世の近代化政策

セリム3世

 セリム3世は、89年から07年までオスマン帝国の皇帝出会った。即位の日は、フランス革命の翌日(89年7月15日)で、フランス大使をはじめ、西欧の各国大使が表敬訪問をした。

軍隊の近代化

 セリム3世が行ったのは、軍制改革である。

 オスマン帝国の軍隊は、スルタン直属のイエニチェリと呼ばれる歩兵軍団と、地方を統治する騎馬軍団シパーヒーで構成されていた。

 ヨーロッパから軍事顧問を雇い、軍隊の近代化を実施した。これを「ニザーム=ジェディット」という。

ムハンマド=アリーの台頭

 軍隊の近代化で台頭してきたのが、ムハンマド=アリーである。

 98年、ナポレオンがエジプトへ侵攻。このときに派遣されたのがムハンマド=アリーである。

ナポレオンのエジプト遠征

 98年、ナポレオンのエジプト遠征。フランス軍がエジプト・シリアへ侵攻した。

 セリム3世は、ムハンマド=アリーを総司令官に遠征軍を派遣。さらに、イギリスの提唱した第2回対仏大同盟に参加した。