1940年代後半のシリア・パレスチナ ユダヤ人国家イスラエル建国

前回の復習 1950年代のシリア・パレスチナ

 20世紀後半のパレスチナはアラブ諸国とイスラエルが争う中東戦争の時代である。50年代、アラブ諸国は第2次中東戦争に勝利。アラブ民族主義が最高潮を迎える。その象徴がエジプトとシリアのアラブ連合共和国である。

1940年代後半の国際情勢

 1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾。第2次世界大戦が終結。

 45年10月、新秩序を作るために国際連合が発足した。このまま、平和が訪れるものと思われた。しかし、中欧チェコスロヴァキアのクーデターをきっかけに冷戦が始まる。

イスラエル建国

イスラエルとは

 イスラエルは、地中海に面した中東のユダヤ人国家である。この国が建国したのが48年である。アラブ人を追い出して建国したので、周辺のアラブ諸国は反発した。これが4度に渡る中東戦争の始まりである。

パレスチナ難民とは

 イスラエルは、建国前はパレスチナと呼ばれていた。そこには、多くのアラブ人が居住していた。イスラエルが建国されると、多くのアラブ人が住む場所を奪われ、近隣のアラブ諸国へ移住した。これがパレスチナ難民である。

エジプトの承認と国際連合への加盟

 第1次中東戦争は49年に終結した。1月に停戦。イスラエルとアラブ諸国との講和交渉が始まる。2月、エジプトと講和。3月にレバノン、4月にヨルダンと講和した。5月、国際連合への加盟が承認される。そして、7月、シリアと講和し第1次中東戦争は完全に終結した。

 パレスチナの大部分は、イスラエル領土になる。南部のガザ地区はエジプト領になり、東部のヨルダン川西岸地区がヨルダン領になった。それ以外はすべてイスラエル領土になった。

第1次中東戦争

 第1次中東戦争は、イスラエル建国に反対するアラブ連盟がイスラエルに侵攻することで始まった。始まったのは48年5月である。

 アラブ連盟とは、エジプトを中心としたアラブ諸国の同盟である。第2次世界大戦末期の45年3月に結成された。

 イスラエルは、国際連合の分割案よりも広い地域を占領。49年に休戦協定を結んだ。このときの停戦ラインを「グリーンライン」という。

 ヨルダンがヨルダン川西岸地域を、エジプトがガザ地区を獲得し、アラブ人国家は消滅した。

 聖地イェルサレムは、国際連合の分割案ではアラブ人国家の中に入る予定であった。戦争の結果、国境上の都になり、東半分がイスラエル、西半分がヨルダン(ヨルダン川西岸地域)となった。

 イスラエルの拡大により、多くのアラブ人(パレスチナ人)が住居を失い周辺国へ亡命した。これがパレスチナ難民問題である。

国連パレスチナ分割案

 47年、国連総会はパレスチナ分割案を採択した。パレスチナ分割案とは、イギリス委任統治領であったパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割して独立する案であった。

 聖地イェルサレムはアラブ人国家に含められた。

 ユダヤ人は、これを歓迎し、翌48年にイスラエルを建国した。

 一方、アラブ人はこれを拒否。アラブ連盟は、イスラエルに侵攻した。これが第1次中東戦争である。

イギリスの丸投げ

 イギリスは、パレスチナのユダヤ人とアラブ人の対立に苦悩していた。パレスチナに帰還するユダヤ人と元々住んでいたアラブ人の対立である。イギリスは、移民制限などで和解案を何度も提示したが、失敗。

 イギリスのアトリー労働党政権は、パレスチナ問題を国際連合に丸投げした。

パレスチナ問題前史

 パレスチナは、元々ユダヤ人の国家が存在した。しかし、19世紀にはアラブ人が居住するようになった。

 19世紀末、フランスのトレフュス事件をきっかけに反ユダヤ主義が活性化。これにより、ユダヤ人国家の復活を求める運動が起こった。シオニズム運動である。

フランス軍、シリア・レバノンから撤退

シリアとは

 シリアは、45年10月に原加盟国として国際連合の承認を得た。(56年にアラブ連合共和国の発足により離脱。)シリアは、シリア共和国としてスタートした。しかし、クーデターによる政変が相次ぎ、70年代にアサド政権が成立するまで政治は安定しなかった。

 また、少数派の

レバノンとは

 

バアス党の成立

アラウィー派の反乱

 現在のアサド政権は、2代目である。初代アサド政権は、70年に成立した軍事政権である。70年代の2つの戦争で国民の支持を集めた。第四次中東戦争とレバノン内戦である。

 レバノン内戦で国際的に孤立する。

 80年代、イスラエル軍がレバノン南部に駐屯。レバノンはしばしばイスラエルの空爆を受けた。

 90年、シリアのアサド政権は、レバノンに派兵。これにより、レバノンは平和になった。