中世後半の西ヨーロッパ

概要

 ここでは、中世後半の西ヨーロッパを見ていきます。時代は、11世紀から15世紀の時代を見ていきます。十字軍から大航海時代の直前までを見ていきます。

中世前半のヨーロッパ

十字軍

 紀元前11世紀に入ると外部勢力の侵入がほとんどなくなり安定と成長の時代に入った。三圃制で農業生産性が向上。農地の拡大も進んだ。修道院を中心とした開墾運動やオランダの開拓がその一例である。

 また、ヨーロッパ世界の拡大も進んだ。ドイツ騎士団の東方植民やスペインのレコンキスタ(国土回復運動)がその一例である。そして最も大きな対外戦争が十字軍であった。

 11世紀、セルジューク朝がエルサレムやビザンツ帝国へ侵攻した。このころ、東西教会が相互破門を行った。それにもかかわらず、ビザンツ皇帝はローマ教皇ウルバヌス2世に救援を要請した。

 当時のローマ教皇は、神聖ローマ皇帝と叙任権闘争の真っただ中にあった。そのため、神聖ローマ帝国ではなくフランスの諸侯で軍隊を結成した。11世紀末、フランスでクレルモン宗教会議を開催。第1回十字軍を結成。セルジューク朝に勝利し、イェルサレム王国を建国した。

 12世紀半ば、第2回十字軍。12世紀末、第3回十字軍が行われた。第三回十字軍は、アイユーブ朝(エジプト)がイェルサレム王国を再び奪われたためである。この戦いでは、フランス国王のほか、神聖ローマ皇帝、イングランド国王が参加。おーすスター戦となった。しかし、第3回十字軍は失敗した。13世紀初頭に行われた第四回十字軍からは海路でイェルサレムに向かった。しかし、第四回十字軍はスポンサーのヴェネツィアの影響でコンスタンチノーブルに向かった。コンスタンチノーブルからビザンツ皇帝を追放。ラテン帝国を建国した。13世紀後半に行われた第7回十字軍を実施。しかし、14世紀初頭の第8回十字軍はアナーニ事件で中止。これで十字軍は終わった。

十字軍は、聖地エルサレムを回復することができなかった。しかし、聖地巡礼を保護する宗教騎士団が結成された。現在も残るマルタ騎士団や東方植民に向かったドイツ騎士団はその代表例である。また、13世紀初頭の少年十字軍のようただの悲劇で終わるものもあった。

 十字軍は様々な思惑が絡んでいた。民衆は宗教的熱狂から参加した。ローマ教皇は11世紀に破門したビザンツ皇帝を排除しキリスト教のトップに立とうとした。また、諸侯は西アジアに新たな領土を求めた。また、ヴェネツィアなどのイタリア諸都市は商業利益の拡大のために十字軍を支援した。

 十字軍の失敗は、教皇の権威を衰退させ、諸侯の力をそいだ。

 一方でメリットを得たものもいた。十字軍を指揮した国王の権威は拡大。スポンサーのイタリア諸都市も交易が盛んになった。さらに、イスラム圏の文化がヨーロッパにもたらされたのもこの時代である。

商業の発展

 古代ローマは、貨幣経済が中心であった。しかし、外部勢力の侵入による混乱で、フランク王国の封建社会では貨幣経済は衰退。自給自足経済になっていた。しかし、11世紀の安定期に入るとムスリム商人やノルマン人の商業活動で貨幣経済が復活した。

 ノルマン人の交易活動や十字群によって、交通路が発達。遠隔地交易が盛んになった。

 遠隔地交易は、主に2つの商業圏で構成された。地中海商業圏と北ヨーロッパ商業圏である。

 地中海商業圏は、イタリア諸都市とムスリム商人の交易である。イタリア諸都市は、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどが主要都市となった。一方、ムスリム商人はアジア各地で集めた商人をエジプトのカイロでイタリア商人に販売していた。東南アジア産香辛料、中国産絹織物、アフリカ産宝石など高級品が中心であった。

 ミラノやフィレンチェなど内陸都市も、毛織物産業や金融業で大いに栄えた。

 北ヨーロッパ商業圏は、ノルマン人が開拓した北海バルト海の航路を使い、主にに日用必需品が売買された。リューベックなどの北ドイツ諸都市は、塩漬けの海産物や木材・穀物が売買された。フランドル地方(ベルギーオランダ)は、毛織物産業で発展した。イングランドのロンドンはフランドル地方向けの羊毛の輸出港として栄えた。

 2つの商業圏を結ぶため、ヨーロッパ内陸部にも商業都市が発達した。フランスのシャンパーニュでは定期市が開催。南ドイツのニュルンベルクやアウクスブルクも発展した。

中世の街並み

 中世の都市は、大きな教会の周辺で形成されることが多かった。

 当初は、封建領主の支配を受けていた。11世紀に入ると領主からの独立求める動きが活発化した。

 北イタリアは、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立が続く地域であったため、強い領主がいなかった。そのため、北イタリアの諸都市は領主である司教権力を倒して自治都市を形成した。

 北ドイツでは、神聖ローマ皇帝から特許状を得て、保険領主からの自治権を獲得した。この都市を帝国都市という。

 有力都市は、都市間で同盟を結んだ。北イタリアのロンバルディア同盟や北ドイツのハンザ同盟がその一例である。ハンザ同盟は、14世紀に全盛期を迎え独自の軍事力を持つようになった。

 一方、イングランドやフランスの都市は、国王との結びつきを強めた。これにより、国王の経済力は拡大した。

都市の自治

 都市は、周辺を城壁で囲み、市民たちは封建的束縛から逃れた。周辺の荘園から農奴たちが自由を求めて逃げ込むこともあった。

 各自治都市は、独自に行政組織を作った。それがギルドである。最初は、遠隔地貿易に従事する大商人による商人ギルドであった。しかし、大商人に不満を持つ手工業者が同職ギルド(ツンフト)を作って分離。参政権を求めて商人ギルドと戦った。(ツンフト闘争)。同職ギルドは、親方と呼ばれる経営者に限られた。ギルドは価格などを統一し、独占的利益を確保した。

 また、有力な商人も登場した。アウクスブルク(南ドイツ)のフッガー家は、神聖ローマ皇帝に融資しその地位を左右した。また、フィレンチェ(北イタリア)のメディチ家は、ローマ教会への寄進を通じて一族からローマ教皇を出した。

騎士の没落

 14世紀に入ると、封建社会は衰退していった。貨幣経済が浸透し始めた。荘園領主は、貨幣を獲得するため、賦役をやめ、生産物と貨幣で地代を納める仕組みに変えた。農民は、地代を納めるために、生産物を市場で販売するようになった。

 14世紀半ば、ペストの流行した。これにより農業人口が大幅に減少。農産物価格が高騰するとともに、領主の地代収入も減った。

 領主は、農民を確保するため、身分的束縛を徐々に緩和した。身分的束縛から解放された農民は、自営農民に成長していった。イングランドではヨーマンと呼ばれる独立自営農民が台頭した。

 経済的に困窮した領主は、農民への束縛を強めようとした。そのため、この時期に農民一揆が各地で発生した。フランスのジャックリーの乱やイギリスのワットタイラーの乱はその代表例である。

 封建的主従関係にも大きな影響が出た。それまで戦争は騎馬戦が主流であった。そのため、乗馬訓練を受けた騎士のみが軍人となった。しかし、14世紀から15世紀に火砲が発明。それにより、軍隊の中心は騎士から傭兵へ変わった。

 商人は、中央集権的な政治権力(強い国王)の出現を望んだ。国王は、商人と結んで諸侯を抑えるようになった。これにより、近代の絶対王政の時代へ向っていく。

 また、ペストの流行は、社会不安を増大させた。そのため、社会的少数派に対して不寛容になっていった。この時期、ユダヤ人などが激しく迫害された。

ローマ教皇の衰退

 十字軍の失敗により、ローマ教皇の権威は失墜した。これを利用した。イングランドやフランスでは聖職者への課税を検討し始めたい。(聖職者課税問題)。

 14世紀初頭、ローマ教皇ボニファティウス8世は、これに反発した。しかし、フランス国王フィリップ4世に捕えられ、憤死した。(アナーニ事件)

 フィリップ4世は、その後、教皇庁をローマからアビニョンへ移した。これは14世紀後半まで約70年続いた。これを「教皇のバビロン捕囚」という。

 14世紀後半、教皇庁はローマにもどったが、アビニョンでは別のローマ教皇を建てた。教皇が2人存在する時代に入った。これを教会大分裂(大シスマ)という。

 このような混乱の中、教会改革を進める動きがあった。異端審問や魔女裁判などはこの時期から始まった。この時期はペストの流行で社会不安が増大した時期である。異端審問や魔女裁判は頻繁に行われた。

 14世紀になるのと、大学が登場。神学の研究が行われた。14世紀後半、イングランドのウィクリフは、聖書こそ信仰の権威とし、腐敗したローマ教会を批判した。また、聖書の英訳を行った。これに共鳴したのがベーメンのフスは彼に共鳴。ローマ教会を批判した。

 15世紀初頭、神聖ローマ皇帝は教会大分裂を解決するためにコンスタンツ公会議を開催した。この時、フスは火刑に処せられた。これをきっかけに、ベーメンで反乱がおきた。(フス戦争)

 そして、16世紀の宗教改革へ

各国史

イギリスとフランス

身分制議会の成立

 13世紀から14世紀にかけて、国王は課税のために身分制議会を設置するようになった。

イギリス

 イギリスでは11世紀半ばにウィリアム1世によってノルマン朝が成立。戦争により国王になったので王権は強かった。

 12世紀半ば、ノルマン朝が断絶。血統からフランスの大諸侯ヘンリ2世がプランタジネット朝を開いた。プランタジネット朝は、イングランドとともにフランスの西半分を領有した。

 しかし、13世紀初頭、ジョン王の時代にフランス国王フィリップ2世によってフランス国内の領土の大半を失う。さらにインノケンティウス3世に破門。財政難から重税を課すと、貴族は反発。マグナ=カルタ(大憲章)をジョン王に認めさせた。これにより、国王は議会の承認がないと課税ができないことになった。

 ヘンリ3世は、マグナ=カルタを無視した。貴族のシモン=ド=モンフォールは反乱を起こした。13世紀末、エドワード1世の時代には模範議会が招集された。14世紀半ばには二院制が導入された。

 この頃から、騎士は軍事的性格を失い、ジェントリーと呼ばれるようになった。

フランス

 フランスは10世紀末にカペー長が成立した。しかし、その影響力はパリ周辺に限られていた。

 12世紀末のフィリップ2世の時代には、ジョン王からイングランド領の大部分を獲得した。フィリップ2世は第3回十字軍に参加した国王である。

 13世紀半ばには、ルイ9世アルビジョワ派十字軍を結成。南フランスに領土を拡大した。ルイ9世は、第6回、第7回十字軍を指揮した。

 そして、14世紀入ると、フィリップ4世が教会財産への課税を検討した。そして、三部会を開催。教会への課税を決定した。ローマ教皇ボニファティウス8世はこれに反発。フランスはローマ教皇を逮捕。ローマ教皇は憤死した。 

百年戦争

 14世紀、ローマ教皇の祟りが起きた。フランスのカペー朝が断絶した。ヴァロワ朝が成立した。

 しかし、これに待ったがかかった。イングランド国王エドワード3世が王位継承権を主張した。通常であればローマ教皇の裁定で決まるのだが、当時は教皇のバビロン捕囚の真っただ中。ローマ教皇の裁定をとることができなかった。これにより、イングラドとフランスの間で百年戦争が勃発した。

 イングランドには別の目的があった。ジョン王が失った失地回復である。その中心は毛織物産業で栄えたフランドル地方である。 

 初戦は、イングランドの長弓隊の活躍でイングランド優勢で進んだ。

 14世紀後半、フランスはペストの流行、農民反乱も重なり滅亡寸前までいった。

 15世紀にはいり、シャルル7世が即位。ジャンヌ=ダルクの活躍によりフランスが逆転勝利。カレーを除く全国土がフランス領になった。

 フランスでは、この百年戦争で諸侯・騎士が没落。シャルル7世は大商人と結び財政を立て直す。常備軍を設置し中央集権化を進めた。

バラ戦争

 15世紀後半、百年戦争に敗北したイングランドでばら戦争が置こる。これは、ランカスター家ヨーク家の王位継承争いである。結果、ランカスター家のヘンリ7世テューダ朝を開いた。

 このバラ戦争で多くの貴族が没落。テューダ朝は16世紀に絶大の権力をもつ。

 16世紀初頭、イングランドはウェールズを併合。アイルランドとスコットランドは独立を保ち続けた。

スペイン

 スペインは、8世紀初頭に西ゴード王国が滅亡。イスラムの勢力下に入った。ここから、北部のキリスト教徒とイスラム王朝の800年間に戦いが始まった。これがレコンキスタ(国土回復運動)である。

 12世紀には、北半分を回復。ここにカスティリヤ、ポルトガル、アラゴンの3つの王国が成立した。

 15世紀後半、カスティリヤとアラゴンが合併してスペイン王国が成立。

 15世紀末、グラナダ陥落で、レコンキスタ(国土回復運動)は終結した。

ポルトガル

 12世紀にカスティリヤから独立。15世紀後半、ジョアン2世が貴族の反乱を鎮圧。絶対王政を敷く。大航海時代へ。

ドイツ(神聖ローマ帝国)

 ドイツは、大諸侯の力が強く、皇帝権力はそれほど大きくなかった。神聖ローマ皇帝は、イタリア政策でたびたびイタリアへ出兵した。

 13世紀半ばに、シュタウフェン家が断絶。皇帝不在の「大空位時代」に入る。13世紀後半の神聖ローマ帝国の混乱はヨーロッパ全体に影響を与えた。ローマ教皇は、十字軍をフランス国王ルイ9世に依頼するようになる。また、フランス国王ルイ9世は、アルビジョワ十字軍で南フランスに領土を拡大した。

 大空位時代は、13世紀に終わるがその後も政治の混乱は続いた。このことがバビロンの教皇捕囚につながる。

 14世紀半ば、神聖ローマ皇帝カール4世は、ハプスブルグ家に皇帝の地位を奪われないように、「金印勅書」を発布。皇帝の選出権を七選帝侯に与えた。また、カール4世の登場でバビロンの教皇捕囚は終わる。

 七選帝侯などの大諸侯の領地である領邦に集約されていった。有力な諸侯は、独自に身分制議会を成立させた。

 15世紀以降、神聖ローマ皇帝は、ハプスブルク家が世襲するようになった。

 12世紀から14世紀にかけて、東欧への領土拡大運動が起こった。これを東方植民という。ドイツ騎士団領やブランデンブルク辺境伯領はこの時に成立した。13世紀半ばには、モンゴルの襲撃を受け、14世紀にはペストの流行に苦しんだ。15世紀になると、西ヨーロッパへの穀物供給基地として発展していった。

 一方、東欧のポーランド人も東方植民に対抗するため、14世紀にリトアニアと合併。ヤゲヴォ朝を開いた。

スイス

 スイスは、ハプスブルク家の領地である。しかし、13世紀末から農民による独立運動が展開。15世紀末には、神聖ローマ帝国から事実上の独立を果たした。これは、17世紀半ばのウェストファリア条約で国際的に承認された。

イタリア

 北部のヴェネツィアなどの都市国家群、中部の教皇領、南部の両シチリア王国が分裂していた。

 北部は、神聖ローマ帝国領であった。神聖ローマ皇帝は、イタリア政策でしばしば軍隊を送った。そのため、このあたりの諸侯は、神聖ローマ皇帝側についたギベリン派とローマ教皇側についたゲルフ派で頻繁に争いが起きた。

 この争いの影響でヴェネツィアなどの都市国家が成立した。

 南部は、12世紀前半にノルマン人が侵入。両シチリア王国が成立した。しかし、13世紀末、シチリアの晩鐘で、シチリア王国とナポリ王国に分裂した。

北欧

 北欧は、北海とバルト海を結ぶ重要な拠点を支配した。そのため、北海・バルト海を拠点にするハンザ同盟としばしば争った。

 13世紀、スウェーデンはフィンランドを征服。

 14世紀末、デンマーク、スウェーデンとノルウェーの同君連合(カルマル同盟)が成立。