古代のインド

地理

 インドは、高い山脈やガンジス川のような大河が存在する。地形に富んだ国である。三方を海に囲まれ、北側はヒマラヤ山脈に守られている。そのため、異民族の襲撃も少なく独自の文化が形成された。そして、異国との争いになるのは、北西部のインダス川流域である。

 気候は、モンスーン気候である。南部は年間通じて暑い。しkし、北部は夏と冬の気温差が激しい。また、モンスーンのおかげで多雨である。ガンジス川流域のバングラデシュは今でも洪水に悩まされている。しかい、高温多雨な気候はコメなどの穀物が多く採れた。

 民族は、北インドのアーリア系と南インドのドラヴィダ系がいる。

インドの歴史

インドの歴史はざっくりと眺めると、次のようになる。

古代 インダス文明 → 古代四王朝→戦乱期

中世 戦乱期→デリー=スルタン朝

近代 ムガル帝国の時代

現代 イギリス植民地 → インドとパキスタン

インダス文明編

インダス文明

ここでは、インドに統一王朝ができる前の時代を見ていきます。」

紀元前2600年ごろ、インダス文明が起こる。

 インダス文明は、インド北西部のインダス川流域で起こった。青銅器が使われてた。都市国家が形成された。モヘンジョダロ遺跡ハラッパー遺跡などがその一例である。

 レンガ造りの建物が多く。大浴場(沐浴場)があり、排水設備も完備されていた。シヴァ神の像があり、ヒンドゥー教の原型はこの時代から存在していたと思われる。文字(インダス文字)も使われていたが解読ができていない。また、民族は不明である。

 紀元前1800年ごろ、インダス文明は衰退した。しかし、その理由は明らかになっていない。

アーリア人とヴェーダ時代

紀元前1500年ごろ、中央アジアからアーリア人がインド北西部に侵入した。

 彼らは、インダス川上流のパンジャープ地方(のちのカシミール地方)に定住した。彼らは、火や雷など自然神を崇拝した。彼らは、宗教的知識を「ヴェーダ」という文献まとめた。賛歌集『リグ=ヴェーダ』はヴェーダの一つである。

 紀元前1000年ごろ、アーリア人はガンジス川上流域に移動した。後のデリーのあたりである。

 ここで、アーリア人は先住民から農耕技術を学んだ。鉄製農具の使用を開始。牛を使った開墾を行うようになった。

 農業の生産性が上がり、農民以外の職業も誕生した。これによりヴァルナという階級社会が形成された。バラモン(神官)、クシャトリヤ(武士、王侯貴族)、ヴァイシャ(農民などの平民)、シュードラ(奴隷)の4つの階級が誕生した。奴隷(シュードラ)には、先住民などの被征服民族が該当した。

 バラモンは、ヴェーダにしたがって複雑な祭祀を取り仕切った。この宗教をバラモン教といい、紀元前10世紀から紀元前7世紀をヴェーダ時代と呼んだ。

 インドでは、この頃から信仰や職業による集団が形成された。この集団は、ジャーティと呼ばれた。インドではほかの集団との会食や結婚はタブーとされた。これをカースト制度いう。ちなみに、カーストの語源はポルトガル語で「血統」(カースト)でアある。

都市国家と宗教改革

 紀元前600年ごろ、アーリア人はインダス川中下流域まで移動した。後のベンガル地方である。

 城壁で囲まれた都市国家が形成。その都市国家にも後に序列ができた。最初のトップはコーサラ国で次にマガタ国がトップをとるようになった。

 この頃になると、バラモンをトップにしたバラモン教に疑問を感じるものが現れた。これにより、新興宗教が誕生した。仏教はその一つである。

 新興宗教として、ガウタマ=シッダールダ(ブッダ)が仏教を開いた。ヴァルダマーナがジャイナ教を開いた。バラモン教の改革運動の中でウバニシャット哲学が誕生した。また、シヴァ神などを信仰するヒンドゥー教が民間信仰として形成された。

古代四王朝

マウリア朝

紀元前4世紀半ば、インド北西部にアレキサンダー大王が侵攻。

紀元前4世紀終わり、チャンドラグプタがマウリア朝を開く。都は、パータリプトラに置かれた。

紀元前3世紀半ば。アショーカ王の全盛期。

 インド全域を征服した。晩年は仏教に帰依。仏典結集を行う。武力ではなくダルマ(法や社会倫理)による統治を行った。

紀元前2世紀前半、マウリア朝の衰退。

 アショーカ王の死後、人件費(軍人と官僚)の増大で財政が悪化。また、バラモン(バラモン教の神官)の反発もあり、衰退した。 

クシャーナ朝

 紀元前4世紀半ば、インダス川流域にアレキサンダー大王が侵攻。

 紀元前3世紀半ば、中央アジアでギリシャ民族のバクトリアがセレウコス朝シリアから独立。

 同じ頃、イランでは、パルティアがセレウコス朝シリアから独立。インドでは、マウリア朝のアショーカ王がインド全土を征服。

 紀元前2世紀前半、インドのマウリア朝が衰退。これにより、西北インド(インダス川流域)に異民族が次々親友した。

 1世紀、バクトリアの一派でイラン系遊牧民族のクシャーン人が、インドのパンジャーブ地方(インダス川上流)へ侵入。クシャーナ朝を開く。

2世紀半ば、カニシカ王の全盛期。

 中央アジアとガンジス川中流域に広がる国家を形成。同じ頃、南インドは、サータヴァーハナ朝の時代である。

 漢王朝とローマ帝国(五賢帝時代)の陸上交通路を抑える。ローマ帝国の金貨が数多く発見される。

 大乗仏教(菩薩信仰)がおこり、仏像が作られる。ヘレニズム文化の影響を強く受ける。(ガンダーラ美術)

3世紀、クシャーナ朝、ササン朝イランに服従。

 そのころ南インドでは、サータヴァーハナ朝の時代を迎える。紀元前1世紀に成立。3世紀に衰退した。紀元前1世紀にプトレマイオス朝エジプトを征服したローマ帝国と海上交易(季節風交易)が盛んであった。

グプタ朝

 4世紀に成立。チャンドラグプタ1世がマウリア朝にあこがれてガンジス川中流域(インド北東部)に建国。

 4世紀末、チャンドラグプタ2世のときに全盛期。北インド全体を征服。

 6世紀半ば、グプタ朝が滅亡。中央アジアのエフタルの侵入が要因と考えられる。

 分権制で、北インドは直轄領と従来の指導者を温存させた朝貢国で構成された。

 サンスクリット語が主要言語となった。サンスクリット語はバラモン(バラモン教の神官)が主に使用した言語で、バラモン教の復活で主要言語となった。

 宗教では、仏教やジャイナ教が重視された。北朝時代の僧侶である法顕もインド(グプタ朝)で修業した。また、バラモン教の再興も行われた。また、民間信仰のヒンドゥー教もこの頃に定着した。ヒンドゥー教は多神教で、シヴァ神ヴィシュニ神を主神とした。

 文化面では、サンスクリット語の文献が多数編纂された。紀元前2世紀から2世紀の法律をまとめた『マヌ法典』、二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』。戯曲『シャクンタラー』

 天文学や数学が発展。ゼロの概念が登場した。彫刻では純インド的なグプタ様式の仏像が作られた。代表作はアジャンター石窟の壁画である。

ヴァルダナ朝

7世紀前半、ハルシャ王ヴァルダナ朝を建国。グプタ朝と同じ北インドを統治したが、エフタルに奪われたインダス川流域は領土に加えることはできなかった。

 宗教では、支配層はおもにヒンドゥー教を信仰。しかし、ジャイナ教や仏教を保護した。 

 当時の仏教はどのような状況であったのであろうか。ヴァルダナ朝は、仏教を学ぶ者のために、ナーランダー僧院を建てた。7世紀前半には『大唐西域記』を書いた玄奘が修行した。彼は西遊記のモデルになった。陸路でインドへ向った。7世紀後半には。『南海帰寄内法伝』を書いた義浄が修行した。彼は、海路で帰国。シュリーヴィジャヤ王国(マレーシア)を訪れている。

 一方で、インド全体の仏教は衰退傾向であった。6世紀半ばにグプタ朝が滅亡すると、スポンサーであった商人が没落。一方で反仏教運動(バクティ運動)が盛んになった。

ラージプートの戦乱期

 7世紀半ば、ヴァルダナ朝が滅亡

 ヒンドゥー教の地方政権がインド国内に乱立した。

 インダスが下流域のベンガル地方では仏教勢力の地方政権が成立した。ナーランダー僧院を保護した。

  同じころ、イランではササン朝がイスラム勢力によって滅亡。8世紀に入るとイスラム教徒がインドへ侵入するようになる。

南インド

 ドラヴィダ系の国家が建設。紀元前後からタミル語を使い始める。

 1世紀、ギリシャ人が、エジプトからインド洋にかけての交易記録書『エリュトゥーラ海案内記』

 1世紀から2世紀、ローマ帝国が、プトレマイオス朝エジプトを滅亡させると、ローマ帝国と南インドの交易が盛んになる。このころ、インドと漢王朝(後漢の光武帝)との海上交易も盛んになった。東南アジアには港市国家が建設された。スリランカ・扶南(ベトナム)・チャンパー(ベトナム)・シュリーヴィジャヤ王国(マレーシア)がその一例である。

 チョーラ朝は、紀元前3世紀に建国。4世紀に一時衰退。9世紀に復活。10世紀から11世紀にかけて北宋王朝(中国)との交易で大いに栄える。この時期に東南アジアやスリランカに遠征した。13世紀に滅亡。