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トルコ・ギリシャ史

18世紀後半のトルコ・ギリシャ ロシアとクリミア半島を奪われる

 18世紀後半、日本は江戸時代後期。松平定信の寛政の改革のころである。

この時代、オスマン帝国は黒海の北部クリミア半島周辺をめぐり、ロシア帝国と戦争を繰り返していた。この戦争は突如として終わった。その理由がフランス革命である。しかしは、フランス革命は新たな敵を呼んだ。ナポレオンのエジプト遠征である。

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アメリカ史

2010年代のアメリカ オバマ大統領とトランプ大統領

今日から、アメリカ史編を始めます。今回は、共和党トランプ大統領と民主党オバマ大統領を比較しながら、共和党と民主党の違いを見ていきます。

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16世紀後半の世界 戦国時代の裏側で

おはようございます!sekaishiotakuです。本日で、「16世紀後半 戦国時代の国際情勢」は、おしまいです。今後もこちらのブログでは、同じ時代の国際比較のブログをやっていきたいと思います。このシリーズのまとめページを作りましたので、よかったら、下のリンクから飛んでみてください。

次回は、幕末編でペリー来航の1850年代をやっていこうと思いましたが、時代背景を考慮して世界大恐慌が発生した1830年代をアップしよう思います。

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アメリカ史

16世紀後半のアメリカ ポトシ銀山と価格革命

16世紀後半、日本は戦国時代のクライマックスを迎えようとしていた。そのころ、アメリカはスペイン人による開拓が進められていた。

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イギリス史

16世紀後半のイギリス エリザベス1世、スペイン無敵艦隊を破る

16世後半、日本では織田信長豊臣秀吉が天下統一に向かっていた安土桃山時代である。
 このころ、エリザベス1世の黄金期を迎えていた。エリザベス1世は、巨大帝国スペインと果敢に戦い続けた。それを支えたのが、新興地主ジェントリーらで構成されるイングランド議会であった。

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フランス史

16世紀後半のフランス ユグノー戦争でブルボン朝成立

フェリペ2世を撃退

 フランスでは、47年アンリ2世が即位。57年、スペインでフェリペ2世が即位すると、スペイン・イングランド連合軍がフランスへ侵攻。58年、フランスはイングランドに勝利。
 同58年、イングランドエリザベス1世女王が即位すると、フランスとイングランド・スペインは講和した。イングランドは大陸にあった唯一の領土カレーをフランスへ割譲した。

 当時スペインは、 神聖ローマ皇帝カール5世が引退。スペインと神聖ローマ帝国(ドイツ)の同君連合は解消された。しかし、スペインは新大陸のポトシ銀山から大量の銀を獲得していた。さらに、オランダや南イタリアを領有していた。そのため、16世紀後半もスペインは大国であり続けた。

 一方、イギリスは、フェリペ2世の妻、メアリ1世が治めていた。2人の間に子どもはなく、58年に亡くなる。イギリスを引き継いだのは異母妹のエリザベス1世であった。エリザベス1世が即位すると、スペインとの同盟は解消。フランスと講和した。

ユグノー戦争

ユグノー戦争勃発

 ユグノーとは、カルヴァン派のことである。カルヴァン派は商工業者を中心に普及した。アンリ2世は、ユグノーを弾圧。60年、シャルル9世が即位。幼い皇帝を母カトリーヌが支えた。62年、シャルル9世は、カルヴァン派を認める勅令を発する。これに対しカトリック教徒の諸侯が反発。ここにユグノー戦争が始まる。

カルヴァン派とは

 16世紀は、宗教改革の時代である。この時キリスト教に2つの宗派が誕生した。北ドイツのルター派とスイスのカルヴァン派である。ルター派は北ドイツの諸侯を中心に北海沿岸に信者を増やした。一方で、カルヴァン派はフランスを通じて西欧へ広まった

 カルヴァン派は、勤労や禁欲を奨励した。そのため、貯金も推奨した。そのため、商人を中心に広まった。フランスのカルヴァン派は、ユグノーと呼ばれた。しかし、カルヴァン派はオランダやイギリスへも広まった。

 当時、オランダは、スペイン領であった。オランダの領主はカルヴァン派にかなり寛容であった。カール5世時代もカルヴァン派は容認されていた。しかし、16世紀後半、フェリペ2世の時代へ移ると状況は一転した。フェリペ2世は、敬虔なカトリック教徒であった。そのため、プロテスタントの大弾圧を行った。これに反発したオランダ国民が起こしたのがオランダ独立戦争である。この戦争は17世紀前半までつづいた。

 一方、イングランドはエリザベス1世の時代である。イギリスはイギリス国教会制度を導入していた。しかし、その宗派は特に定まっていなかった。エリザベス1世時代はカルヴァン派とカトリック派が共存していた。しかし、17世紀に入ると状況は一変した。カトリックを信仰するスチュアート朝の時代に入った。カルヴァン派は各地へ亡命した。その一つが新大陸へ向ったピグリム=ファザーズである。そして、この対立がイギリス革命につながった。

サンバルテルミの大虐殺

 68年、オランダ独立戦争がはじまる。フランス国内の宗教対立は、カルヴァン派のオランダとカトリックのスペインの対立が相まって泥沼化した。72年、パリでカルヴァン派の大虐殺がおこなれた。サンバルテルミの虐殺である。ユグノー戦争の泥沼化でフランス全土は荒廃。

 フランスは、ユグノー戦争の影響で17世紀初頭に不況となった。同盟国のオスマン帝国もこの時期から衰退期に入り始めた。一方で、フランスの代わりに台頭したのが、イギリスとオランダである。この2国はアジア各国の植民地化を始めた。

ブルボン朝の成立でユグノー戦争が終わる

 74年、アンリ3世が即位。アンリ3世に後継者がいなかったため後継者争いが始まった。カトリック教徒のギース公アンリとユグノーブルボン家アンリである。81年、オランダ提督ウィレム1世は独立を宣言。84年、イングランドは、新大陸ヴァージニア植民地を開発。同84年、日本の遣欧使節団がスペイン国王フェリペ2世に謁見。このころ、パリはカトリック派が優勢であった。88年、フランス国王アンリ3世がカトリック側のギース公アンリを暗殺。しかし、89年、アンリ3世は熱狂的なカトリック教徒によって暗殺された。残ったブルボン家アンリがアンリ4世としてフランス国王になった。ブルボン朝の始まりである。 

ナントの王令で宗教の自由を認める

89年、アンリ4世が即位してブルボン朝が始まる。この200年後にフランス革命が勃発する。ただ、フランス国民の大部分はカトリック教徒である。そのため、93年アンリ4世ユグノーからカトリックへ改宗した。そして、93年、アンリ4世はナントの王令を出し、カルヴァン派を容認し、ユグノーを保護した。

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ロシア史

16世紀後半のロシア ロシア帝国のシベリア開拓

イヴァン4世の内政

常備軍の整備

 16世紀後半は、イヴァン4世(雷帝)の時代である。イヴァン4世は、皇帝権の強化を図っていた。常備軍を整備し、議会を設置した。対外戦争の敗戦で一時退位させられた。しかし、すぐに皇帝に復位。反皇帝派を粛清。皇帝権の強いロシアはこの時完成した。

農奴制の基礎を築く

 このころ、ロシアは地主層と小作人(地主に地代を払った農業をを行うもの)に分かれた。当時の小作人は農奴と呼ばれた。イヴァン4世は農奴制を強化する法律を禁止した。農奴の移動の禁止と逃亡農奴をかくまうことを禁止した。

 この農奴制に反発するものもいた。ロシア南部(黒海の北の穀倉地帯)の人々である。当時、彼らはコサックと呼ばれていた。この地域には、北部(モスクワなど)の農奴が多く逃げ込んでいた。

領土の拡張

東欧の国々

 イヴァン3世は、皇帝権を強化しなければならない事情があった。これがリヴォニア戦争である。バルト海沿岸地域をめぐるポーランドとの戦争である。ポーランドは、北欧の大国スウェーデンを味方につけた。この時、イヴァン4世は、イギリスのエリザベス女王に支援を求めたが、これは実現しなかった。ロシア帝国はこの戦争に敗北した。

 ポーランドは、このあとヤゲヴォ朝が断絶。選挙王制の時代に入る。

 また、ポーランドを支援したスウェーデンは、17世紀前半のドイツ三十年戦争でさらに名声を上げる。

オスマン帝国

 オスマン帝国は、ロシア南部のトルコ系のイスラム国家である。15世紀半ば、スレイマン1世の全盛期を迎えていた。
 オスマン帝国は、農奴制強化でコサックが反乱を起こすとこれを支援した。そのため、イヴァン4世は一時退位することなった。
 しかし、スレイマン1世が亡くなると、南ロシアのクリミアへ侵攻した。

コサックのシベリア開拓

 イヴァン3世は、元キプチャク=ハン国(モンゴルの4ハン国の一つ)から分裂した2つの国を併合した。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国である。これにより、ロシアはカスピ海北部まで国土を拡張した。

 また、コサックのイェルマークを使ってシベリア開拓を開始した。

リューリク朝の断絶

 イヴァン4世が亡くなると、強い皇帝が現れなかった。まもなく、リューリク朝は断絶。貴族同士の内乱の時代となった。この内乱は17世紀初頭のロマノフ朝成立まで続く。

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トルコ・ギリシャ史

16世紀のトルコ・ギリシャ オスマン帝国、スペイン無敵艦隊に敗北

スレイマン1世の全盛期

 16世紀半ば、オスマン帝国は最盛期を迎えていた。スレイマン1世の全盛期である。陸では、バルカン半島を手中に収め、第1回ウィーン包囲を行った。海では、プレヴェザの海戦で地中海を制圧していた。また、東のサファヴィー朝ペルシアからバグダード(イラク)を奪っていた。

フランスとの同盟

 16世紀、陸上では東欧ハンガリーをめぐり、神聖ローマ帝国と争っていた。海上(地中海では、スペインと海上戦を展開していた。この2つの国は同じ国王が治めていた。これがハプスブルク家のカール5世である。16世紀前半はこのカール5世がヨーロッパの大部分を治めていた。
 この時、このカール5世と戦っていた勢力があった。フランスのフランソワ1世である。オスマン帝国は、フランスと同盟を結び、フランス商人を保護した。
 しかし、16世紀後半になると、フランスは内乱状態に入る。ユグノー戦争である。

スペイン無敵艦隊に敗れる

6世紀後半、フィリペ2世の治世である。神聖ローマ帝国との同君連合は解消された。それでも、当時のスペインは、南イタリアやオランドを支配していた。フェリペ1世は、イングランドのメアリ1世と結婚。フランスとのイタリア戦争にも勝利した。スペインイケイケの時代であった。このスペインの繁栄を支えたのは、新大陸(ポトシ銀山)からもたらされる大量の銀であった。さらに、スペインに朗報が届いた。強的であったフランスの内乱が発生した。ユグノー戦争である。

 このイケイケのスペインが、オスマン帝国へ侵攻してきたのである。レヴァントの海戦である。スペインは、16世紀前半に行われたプレヴェザの海戦でオスマン帝国に大敗。地中海の制海権を失った。レヴァントの海戦はそのリベンジマッチである。スペインはレヴァントの海戦に勝利、リベンジを達成した。これにより、スペイン海軍は無敵艦隊と呼ばれるようになった。しかし、オスマン帝国は地中海の制海権は保持し続けていた。  

 この後、婚姻関係によりポルトガルを併合。当時のポルトガルは、中国のマカオやインドのゴアなどアジア各地に拠点を持っていた。また、スペイン自体もフィリピンの植民地化に成功。新大陸とアジアの交易路を確保した。これにより、スペインはアジアから新大陸(アメリカ)までの一大交易ネットワークを構築した。

サファヴィー朝ペルシャの台頭

 フェリペ1世の栄光も長くはなかった。イングランドでエリザベス女王が台頭すると、新興地主層やカルヴァン派が台頭した。オランダ独立戦争が勃発すると、オランダを支援。アルマダの海戦でスペイン海軍(無敵艦隊)を破った。

 イングランドとオランダは、アルマダの海戦に勝利するとアジア進出に向かった。この時、パートナーに迎えたのがサファヴィー朝ペルシアであった。サファヴィー朝ペルシアはイングランドやオランダの支援によって軍隊の近代化に成功。17世紀、このサファヴィー朝ペルシアがオスマン帝国に牙をむくことになる。

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イラン・ペルシャ史

16世紀のペルシア ペルシア版織田信長 サファヴィー朝アッバース1世

サファヴィー朝とは

 サファヴィー朝とは、16世紀初めにイラン北西部で成立したサファヴィー教団が建国した国である。現在のイランと同じシーア派(十二イマーム派)を国教とした。そのため、スンニ派のオスマン帝国(トルコ)やムガル帝国(インド)との抗争は絶えなかった。

軍事改革

 87年、アッバース朝の後継者争いを制して、アッバース1世が即位した。
 アッバース1世は、国王に即位すると軍事改革に当たった。特権階級のトルコ系騎兵軍団キジルバシュを弾圧した。これに抵抗するため、軍人奴隷を中心とした常備軍を整備した。
 この背景には、キジルバシュがオスマン帝国の常備軍イエニチェリに敗北したことにある。イエニチェリとは、キリスト教から改宗した常備軍で当時の最新兵器鉄砲を使用した。

イスファハーンは世界の半分

 アッバース1世は、新首都を建設した。これがイスファハーンである。アッバース1世は貿易を奨励。これにより、「イスファハーンは世界の半分」とよばれる大都市となった。

新興勢力イギリスとの支援

 アッバース1世の時代、イラク(バグダード)はオスマン帝国に奪われ、ペルシャ湾の要所ホラズム海峡はポルトガㇽが占領していた。

 アッバース1世はイギリス、オランダ、フランスとの同盟関係を結んだ。アッバース1世は、これらの国から最新壁っ鉄砲を輸入するとともに、貿易を奨励した。これらの国は、16世紀後半からアジアへ進出してきた国々である。

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インド史

16世紀後半のインド インド版織田信長 ムガル帝国

北インドの統一

  56年、北インドムガル帝国でアクバル帝が誕生した。 アクバル帝が即位したとき、ムガル帝国はデリーの一地方政権に過ぎなかった。しかし、アクバル帝は遠征を繰り返し、ベンガルバングラデシュ)、北インドパキスタン、アフガンを治めるインド帝国になった。

 ちなみに、インド全域を統一したのは、約100年後のアウラングゼーブ帝のころである。

内政面では検地を実施

 アクバル帝は、軍事だけでなく内政面であも結果を残した。支配層を組織化し、官位制度を導入した。(マンサブダール制)。アクバル帝は中央集権的な政治を行った。一方で、検地を行った。新首都アグラを建設。デリーから遷都した。

寛容な宗教政策

ムガル帝国は、イスラム教の国である。しかし、インド人の多数はヒンドゥー教を信仰していた。そのため、アクバル帝は民衆の支持を得るためヒンドゥー教にやさしい政治をとった。

 アクバル帝は、ヒンドゥー教の女性を后にむかえた。また、異教徒のみにかけていたシズヤ(人頭税)を廃止した。
 これにより、イスラム教とインド古来の文化が融合。インド=イスラム文化がとうじょうした。ペルシアから伝来した細密画(ミニチュアール)をベースにしたムガル絵画はその一例である。

16世紀は宗教改革の世紀である

 

インドで、アクバルがヒンドゥー教イスラム教の融合を進めていたころ。日本では、織田信長宗教改革を行っていた。キリスト教の布教を認める一方で、延暦寺の焼き討ちを行った。

 またヨーロッパでは16世紀の初頭にルターが「九十五か条の論題」を発表した。