今日は、大河ドラマの最終回で本能寺の変が放映されます。これに便乗して、本能寺の変が行われたころ(1582年)の世界はどのような時代だったのでしょうか。
もくじ
A
問1
正解 1
地理の知識も必要とする問題です。イタリアと北アフリカの間にあって、レモンとオリーブが名産。よって、地域1はシチリア島とわかる。
① トルコ語ではなくアラビア語
問2
正解 1 あーX
地域2は、島国で、1851年に万国博覧会を開催。世界的に有名な博物館(大英博物館)→イギリス
14世紀から15世紀まで続いた戦争が百年戦争になるので、「ア」はフランス。
あ→ルール占領なので、フランス
い→カルマル同盟なので、スウェーデン
百年戦争の要因の一つにフランドル地方があるので、後半の選択肢は、「X」。なお、ノルマン朝が成立したのは11世紀
問3
正解 2 地域1(シチリア島)→地域3(アテネ)→地域2(イギリス)
地域3は、第1回オリンピックの開催からギリシャとわかる。
地域1のシチリア島は、第1回ポエニ戦争時なので、紀元前2世紀半ば。
地域2のイギリスは、カエサルのガリア遠征を撃退しているので、紀元前1世紀以降。
地域3のギリシャは、ポエニ戦争と並行して行われたマケドニア戦争時なので、紀元前1世紀初頭。
B
問1
正解 4 いー大院君、Y
石碑が建てられた1866年の朝鮮半島は、大院君が攘夷政策を行っていた。
なお、西太后は、19世紀末から20世紀初頭の清王朝の実力者。義和団の乱をつかって列強を追放しようとして失敗。
問2
正解 2
オに入るのは儒学
問3
正解 1 う→え→お
もくじ
A
問1
正解 2 ロシア=トルコ戦争のサン=ステファノ条約
19世紀のヨーロッパで講和条約を破棄したといえば、ロシア版三国干渉ことロシア=トルコ戦争のベルリン条約である。
問2
正解 2 bのブルガリア
講和条約の第一条は通常、1番の争点が記載される。ベルリン条約の最大の目的は、ロシアが、ブルガリアを通って地中海に出ることを防ぐことにあった。よって、「ア」に入るのは、黒海沿岸のブルガリアである。
問3
正解 3 あー誤 いー正
あ イタリア→オーストリア
い 正文
B
問4
正解 1イ―アメリカ ウーソ連
イ 連合国軍(GHQ)の中心の国
ウ サンフランシスコ講和条約で調印していない
問5
正解 3 Y→X→Z
X 中国とアメリカの共同宣言 → 1972年2月
70年代のベトナム戦争泥沼化を打開するため
Y 中国とソ連の条約→1950年 中ソ友好同盟相互援助条約
50年の朝鮮戦争に勝つための条約
Z 中国と日本の共同声明 → 1972年9月
日本は、アメリカに追随
問6
正解 2
51年のサンフランシスコ講和条約に中華人民共和国が呼ばれなかった理由
① × 国民党と共産党の連携は
第1次 1924年→北方の軍閥と戦うため
第2次 1937年→日本軍と戦うため
② 〇 アメリカが中華民国(国民党の台湾)を国連の正式代表とした → 国際連合成立時の1940年代後半
③ × 朝鮮戦争も1950年代で正しいが、中華人民共和国が支援したのは大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国
⓸ × 民主化運動の武力弾圧→89年の天安門事件
C
問7
正解 1あー『シャクンタラー』 W
エーサンスクリット語
↑古代インドで多くの文学作品を生み出す。
あー『シャクンタラー』4~5世紀のインドの戯曲
いー『ルバイヤート』12世紀のアラビアの科学書
WとYの判定は、現代文の問題である。
W-〇 アラビア語をインド人教育に用いるのに効果的だと考える公共教育委員がいる。
(2段落目)(公共教育委員の)残り半分は、アラビア語とサンスクリット語を押しています。
Y-× 東洋学者の中に、西洋の文献の優勢を否定する者がいる。
(3段落目)すぐれた…私(マコーリー)は彼ら(東洋学者)の中に1人も見いだせなかった。
問8
正解3 えーY
う ×→英語がイギリス統治以前に使われた実績はない
え 〇 英語とインド諸語を理解するインド人役人の育成
Y 〇
Z × 仏教徒→ヒンドゥー教徒
問9
正解 2
①タミル語→ 紀元前後から南インドで使われたいた
②ムガル皇帝シャー=ジャハーンがタージマハルを作った。
③影絵ワヤン→インドネシアの文化
⓸ウルグ=ベク → ティムール朝
共通テストを解いてみた 2021年 第3問
もくじ
A
問1
正解 4 いーポッカチオ Tー人文主義の思想
デカメロンは、16世紀のイタリアのルネサンス期の作家であるポッカチオによって書かれた。
あーペトラルカ 『叙情詩集』
うーエラスムス『愚神礼賛』(オランダ)
ルネサンスは、それまでのキリスト教中心の芸術家ら人間を中心とした芸術(人文主義)の思想が基調になっている。なお、ダーウィンの進化論は、19世紀半ば。
問2
正解5お(ぺすと)とY
デカメロンの本文から、1348年とあるので、14世紀半ばの百年戦争期にはやったペストである。ちなみに、「え」のコレラの流行と判明したのは19世紀に入ってからである。
X ー × オリエントとフィレンツェで症状が違う話がある。
Y ー 〇 農民の地位向上で、貴族が没落。
これにより、近世の絶対王政へ向っていく。
Z- × コロンブスが大西洋を横断したのは、15世紀末
問3
正解 〇
① × モンテ=カシノ→6世紀にベネディクスがイタリアで開いた修道院
インノケンティウス3世→12世紀末のローマ教皇で第3回十字軍を編成した。
② 〇 シトー修道院→11世紀末に作られたフランスの修道院
大開墾時代をもたらした。
③ × クリュニー修道院→11世紀のフランスの修道院で
改革運動を起こして、11世紀の叙任権闘争につながった。
クローヴィス → 5世紀後半にフランク王国を建国
⓸ × ヘンリ8世は、16世紀の宗教改革時にイギリス国教会を設立。修道院を解散して、教会財産を没収した。
ヘンリ3世 → 13世紀のシモン=ド=モンフォールの模範議会時の国王
B
問4
正解 4
科挙で重視したのは、仏教ではなく儒教である。
問5
正解 2 イ―革命家 ウー官僚 エー人民の中へ
「農民の覚醒」が革命とむすびつけられるかがポイント。イは革命を促す側なので、革命家。ウは革命を防止する側なので、官僚になる。また本文は、農業政策について書かれているので、「人民の中へ」が正解。「無併合、無償金、民族自決」は、ロシア革命直後のソ連の外交方針である。
問6
正解 3 いーアレクサンドル1世、X-千島樺太交換条約
農奴解放令から、50年代のクリミア戦争の敗戦処理を行ったアレクサンドル1世とわかる。クリミア戦争が終結すると、アロー戦争が行われる。日本は、この戦争時に日米修好通商条約を締結しているので幕末から明治初期の時代ということがわかる。
C
タイトルは、1984年となっているがリード文で、作者オーウェルが1950年に亡くなっているので、1950年以前のソ連で書かれた文章とわかる。
問7
正解 1
この本が書かれた1950年以前に起きた事象は①のみ
① スターリンの粛清 → 1930年代
② 文化大革命 → 1966年
③ 開発独裁 → 1960年代
⓸ 朝鮮民主主義人民共和国の世襲
→ 金日成は1974年に後継者を指名
問8
正解 2 四庫全書
18世紀の中国 → 清王朝の全盛期
四庫全書 → 18世紀の清代
永楽大典 → 14世紀の明代
資治通艦 → 11世紀の宋代
× 中国(宋王朝)が外国(遼)との盟約(澶縁の盟)を結んだことを隠すため
〇 漢人と異なる風俗を強制された事実(辮髪)を想起するのを避けるため。
共通テスト解いてみた 2021年 第2問
もくじ
A
問1
正解 3
よくあるグラフを使った年号問題である。500万ポンドに達したのは、グラフから1776年とわかる。
①メキシコがスペインの独立→1821年
②ボストン茶会事件→1773年
③トルコマンチャーイ条約→1828年
⓸神聖同盟(ウィーン議定書)→1815年
問2
正解 3 アーフランス イー紙幣を大量に発行する。
グラフ1より、貨幣が100万ドルを下回り続けているのは、1798年から1812年なので、ナポレオン戦争の真っただ中。よって、アは、フランスになる。イはグラフから紙幣の発行量が増えているので、「紙幣が大量に発行する」が選択される。なお、戦争時は、国家予算が多くなるので紙幣の発行量が多くなる傾向にある。
問3
正解 1 インド皇帝
写真で国王の顔は判断できないが、文中に鋳造時に国王の顔が書かれていることと写真の説明で1852年鋳造で描かれているのでヴィクトリア女王(在位1837年ー1901年)である。
① インド皇帝に即位(インド帝国の成立)
→ 1877年 ハノーヴァー朝ヴィクトリア女王
② グレートブリテン王国(スコットランドとイングランドの合併)→1707年 スチュアート朝アン女王
③ 統一法の制定
(宗教改革時のイギリス国教会関連の法律)
→1559年 テューダー朝エリザベス女王
⓸ハノーヴァー朝を開いた →1714年 ジョージ1世
B
アジア(中国)の貨幣の話である。
問4
正解 3
16世紀の中国経済についてのぶんしょう。
① 中国産の銀が日本に流入した。→×
16世紀、日本(石見銀山)産の銀が中国に流入した。
② 中国で地丁銀制が導入された。(人頭税の廃止)
→ × 18世紀初頭
③ 中国で各種税や雑徭を銀に一本化して納入させた。
→ 〇 16世紀の一条鞭法
⓸ アヘンの密貿易によって、大量の銀が流出した。
→ × 19世紀前半(19世紀半ばのアヘン戦争の要因)
問5
正解 3 エー青銅、オー秦、カー紙
エ 秦時代なので、春秋戦国時代と同じ青銅貨幣を使用
一方、オリエント(西洋)では金貨が鋳造されていた。
オ 貨幣の統一 → 秦の始皇帝の政策
カ 交紗→ 元王朝が発行した紙幣
問6
正解 4
「トルコ人の父」といえば、ケマル大統領である。そのため、第一次世界大戦後のトルコ革命期のもの以外を選択すれば〇
① トルコ大国民会議を開催
→〇 トルコ革命を主導した組織
② ギリシャ軍を撃退した
→〇 ギリシャ軍を撃退により、セーブル条約を破棄してローザンヌ条約を締結した。
③ カリフ制の廃止
→〇 カリフ制(王政)を廃止し、共和国にした。
⓸ アラビア文字を採用した
→× 西欧化政策により、アラビア文字からローマ字に変更した。現在でトルコはローマ字表記である。
共通テスト 解いてみた 2021年 第1問
先週行われた共通テストの問題を解いてみました。
もくじ
A
司馬遷の史記(紀元前1世紀初頭の武帝の時代)に描かれた秦の始皇帝死亡時(紀元前3世紀末)の話である。
問1
正解 3 うー孟子 Z-法家
「ア」にはいる人物は、秦の始皇帝がなくなった(紀元前3世紀末)の秦王朝のアドバイザーである。清王朝は法家を重視していたので法家の学者を回答する。
- あー孟子 儒家の学者の1人で、性善説を唱えた。
- いー張儀 縦横家(外交の学者)
- うー李斯 法家の学者
法家の学者は、紀元前3世の商鞅(しょうおう)、紀元前2世紀前半(秦王朝統一前)の韓非(かんび)、そして紀元前3世紀末(秦王朝時代)の李斯(りし)がいる。
後半は、法家の思想をせんたくすればOK
- Xー家族道徳を社会規範とする →儒家
- Y-血縁に関係なく無差別に愛すること →墨家
- Zー法律による秩序維持を通じて、人民を支配すること →法家
これ以外に、あるがままであるべきという道家がある。なお、紀元前1世紀初頭の漢王朝の武帝の時代に採用されたのが儒学である。
問2
正解 3
本文とは関係のない思想統制に関する問題である。
- 秦王朝の始皇帝の焚書坑儒は、医薬・占い・農業関連の書物は対象外にされたので→×
- エフィソス公会議は、5世紀に行われた公会議でネストリウス派を異端としたもの。禁書目録や異端弾圧が行われたのは、16世紀の宗教改革のころである。→×
- ゲシュタボは、ナチス時代の秘密警察 → 〇
- マッカーシーは、アメリカの政治家 → ×
問3
正解 2
紀元前1世紀(漢王朝の武帝の時代)の商業政策について、回答。漢王朝の武帝の政策が2つ含まれているので文章から商業の政策を選択する必要がある。
- 呉楚七国の乱→武帝の前の時代(紀元前2世紀半ば)の話なので→ ×
- 平準法→ 漢の武帝の商業政策の一つ
- 董仲舒→ 漢の武帝時代の儒教の学者
時代はあっているが、商業政策とは関係ないので→× - 三長制→ 魏晋南北朝時代の北魏(5世紀末)の農業政策→×
B
1789年が、フランス革命の始まりの年であることに気が付けば、フランス革命の農業政策と歴史的資料の関係に関する文章とわかる。
問4
正解 3 あーZ
- あー教会財産の没収は、90年の国民議会で決定
- いー国王の処刑は、93年の国民公会で決定。
総裁政府は、95年に成立。
後半は、現代文の問題である。
問5
正解 4
フランスで、嫌われた体制は、アンシャンレジームのこと。とくに、第二身分の貴族(荘園領主)が最も嫌われた。
年末年始、いかがお過ごしでしょうか。年が変わるとすぐに共通テストが行われます。私も共通テストを過去2年分解いてみました。今回はこの解答解説を行っていきます。
問題と解答は、下記のサイトからダウンロードしてください。
もくじ
パックス=ブリタニカ
50年代~70年代はイギリスの黄金期である。その象徴は、51年のロンドン万国博覧会である。この絶頂期の女王がヴィクトリア女王の時代である。そのため、ヴィクトリア時代とも呼ばれる。
50年代からのイギリスが黄金期を迎えられたのは、48年革命を平和裏に治めることができたためである。19世紀前半のフランスは相次ぐ市民革命で疲弊していた。18世紀末のフランス革命に始まり、七月革命、二月革命で国力は衰退していた。
一方で、イギリス国民もフランス国民と同じ不満を持っていた。しかし、イギリスは革命ではなく政権交代で乗り切ることができた。それを可能にしたのが立憲君主制である。イギリスでは政治は国王ではなく首相が担うようになっていた。そのため、政治に失敗したら首相を首にして新しい首相を擁立するだけで、国王自身は政治の責任を取る必要がなかった。
59年 ホイッグ党パーマストン首相 と自由党結成
ダービー首相が提案した選挙法改正案を否決。これに伴い、ダービー首相は議会を解散させた。これに対し、ホイッグ党パーマストンはピール派と合同を決意。自由党を結成した。自由党は総選挙に勝利。パーマストン内閣が復活した。
60年 英仏通商条約
パーマストン首相は、さっそくナポレオン3世と英仏通商条約を締結した。これにより、フランス産の安い農産物がイギリスに入るようになった。
自由貿易を求める2人
パーマストンを率いる自由党(ホイッグ党+保守党ピール派)は、ともに自由貿易によって、農産物価格の引き下げをもとめえていた。
一方、ナポレオンを支持していたのはフランス農民である。保護貿易で国内の工業製品を守るよりもヨーロッパ中に農産物を売るほうが良いと考えていた。
フランスの工業化が遅れる
これにより、フランスの工業化は遅れた。それが如実に表れたのは10年後の普仏戦争である。工業化を進めたビスマルク率いるドイツがナポレオン3世のフランスに勝利する。また、フランス蓄積した資本を自国の工業化ではなく対外投資に回した。エジプトのスエズ運河はその一例である。
60年 北京条約 ← アロー戦争
そのころ、清王朝は天津条約の締結を拒否した。英仏連合軍は再び軍艦を天津に向け、北京を占領した。清王朝は北京条約を締結した。
清王朝は外国公使の駐在をみとめいイギリスフランスとの対等外交を認めた。また、清王朝はさらに11港を開いた。北京近くの天津、長江の内陸部の港も含まれた。イギリスはこれにより長江流域をイギリスの勢力圏とした。このほかに、外国人の中国内地の旅行の自由、キリスト教布教の自由、アヘン貿易の公認も認められた。さらにイギリス領の香港の領土も拡大した。
北京条約は、天津条約よりも英仏にとって有利な内容となった。開港地も北京に近い天津港が追加され、賠償金の額も増額された。
この時、ロシアが仲介役を務めた。そのため、清王朝はロシアにウラジオストークを割譲した。これは新潟の向かい側である。新潟は日米修好通商条約で開港予定であったが延期された。
清王朝は、北京条約を受けて1861年に総理各国事務衙門を設置した。これにより、清王朝は対等外交を認めるようになった。また、長江流域の開港については太平天国の乱終結後という条項が付いていた。そのため、パーマストン首相は、ウォードやゴードン率いる常勝軍を上海に派遣した。
58年 第二次保守党ダービー首相
パーマストン首相は、57年の恐慌により、大きく支持を失った。さらに、ナポレオン三世の暗殺未遂事件の対応に失敗。これにより退陣した。
アジアへ進出
58年 インド直接統治
イギリス海軍は、インド大反乱を鎮圧した。インド大反乱で担がれたムガル皇帝を廃位。ムガル帝国を滅亡させた。また、イギリス東インド会社を解散させた。インドの直接統治が始まった。
58年 天津条約(中国、清王朝)
英仏連合軍は、アロー戦争で清王朝に勝利した。英仏は清王朝に天津条約を突きつけた。条約締結まで進んだが、清王朝皇帝はこれを拒否。天津条約は成立しなかった。
58年 日英修好通商条約(日本、江戸幕府)
アロー戦争の清王朝敗北の報は、日本にも伝わった。このころ、日本は江戸時代末期である。井伊直弼は、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好通商条約を締結した。
59年 ダーウィンの「種の起源」
ダーウィンは、太平洋のガラパゴス諸島で生物学研究を行っていた。その研究内容をまとめたのが「種の起源」である。「種の起源」が発表されたのがこの時期である。
59年 イタリア統一戦争
イタリア(サルディーニャ王国)は、クリミア戦争を共に戦ったフランス(ナポレオン3世)と密約を締結した。オーストリアへ侵攻に協力する見返りに、後の南フランスにあたるサヴォイア、ニースをフランスに割譲する約束をした。イタリアはオーストリアに開戦。オーストリアに勝利し、イタリア北東部のロンバルディアを獲得した。このロンバルディアは6世紀から8世紀にかけてランゴバルド王国があった地域である。
55年 ホイッグ党パーマストン内閣成立
ピール派は平和外交を進めていた。そのため、クリミア消極的であった。しかし、フランス側で参戦に踏み切った。これにより、廃止予定であった所得税が継続することになった。
クリミア戦争の泥沼化により、ピール派アバディーン首相が退陣。ヴィクトリア女王は、アヘン戦争を乗り切った外務大臣、ホイッグ党パーマストンを首相にした。当初ピール派はパーマストン内閣を支持していた。しかし、クリミア戦争の対応をめぐりピール派と対立。
56年 パリ条約でクリミア戦争終結
ホイッグ党パーマストン首相は、ナポレオン3世との連携を強めた。また、フランスはオーストリアを味方につることに成功。ロシアは孤立し、敗北。フランスの勝利でクリミア戦争は終結した。
56年 清王朝とアロー戦争勃発
クリミア戦争で接近したパーマストン首相とナポレオン3世はアロー戦争に踏み切った。このころ、清王朝では太平天国の乱が発生。この鎮圧に苦慮していた。
野党保守党は、アロー戦争反対を決議。アロー戦争反対法は可決した。これに対し、パーマストン首相は議会を解散させた。総選挙はホイッグ党の勝利となり、アロー戦争は継続した。
57年 ヨーロッパで大恐慌
クリミア戦争が終戦するとまもなく、ヨーロッパで恐慌が発生した。これにより、ヨーロッパ各国は植民地拡大を進めていくようになった。
57年 インド大反乱
イギリスが、アロー戦争に向かうとインドはこれを好機ととらえインドで大反乱が発生した。当時、インドはイギリス東インド会社が支配していた。
混乱するイギリス政治
ホイッグ党ラッセル首相
50年代、まだ自由党は存在しなかった。主力政党は、ホイッグ党、保守党、ピール派の3つである。ホイッグ党は、昔の反王党派の政党である。フランス革命で支持をあえいで長期の野党生活を過ごしていた。しかし、政権与党の保守党が分裂したことを機に与党に戻ることができた。
一方、ピール派は、保守党から分裂した政党である。分裂の原因は貿易政策である。フランスの農産品に規制をかけたい人たちが保守党に残り、フランス産農産品を受け入れたい人がピール派として保守党を飛び出した。
この時代、保守党の分裂によって、ホイッグ党政権が成立した。
52年 保守党ピール派アバディーン首相
52年、政治は大きく混乱した。与党ホイッグ党が分裂したのである。首相のラッセル派と外相のパーマストン派である。原因は、ナポレオン3世への対応である。ラッセル首相はナポレオン3世の皇帝就任に危機感を覚えた。しかし、パーマストン外相はナポレオン3世の皇帝就任を歓迎した。52年 ホイッグ党ラッセル首相、パーマストン外相を解任。パーマストン派閥と野党保守党が連携。ラッセル首相を辞任に追い込んだ。これにより、保守党ダービー首相が成立した。
保守党ダービー首相は保守党ピール派に入閣を要請した。しかし、ピール派はこれを拒否した。ダービー首相は少数与党となった。ダービー首相は地主優遇の予算案を提出した。この予算案を作ったのがディズレーリーであった。ピール派はこれに反発。予算は否決され、ダービー首相は辞任に追い込まれた。この時、野党ピール派を仕切ったのがグラッドストンであった。ちなみに日本ダービーの語源は、このダービー首相である。
ホイッグ党、保守党も内閣を維持できなかった。そのため、首相は第3党の地位に回ってきた。保守党ピール派である。ピール派のアバディーン首相が成立した。この時の大蔵大臣がグラッドストンである。グラッドストンは関税を引き下げその分を相続税で賄った。
クリミア戦争とナポレオン3世
フランスでナポレオン3世の誕生
このころ、フランスでは二月革命(48年革命)の混乱が続いていた。パリでは、資本家と都市労働者と旧王党派の三つ巴の対立ししていた。この争いにフランス農村は飽き飽きしていた。当時のフランスはフランス革命で地主階級がいなくなり、悠々自適な農業ライフを謳歌していた。そして、フランスの有権者の大部分はパリ市民ではなくフランス農村部の農民であった。彼らが支持したのがナポレオン3世である。ナポレオン3世は、かつての英雄ナポレオンの甥である。50年前のナポレオン黄金期のフランスをナポレオン3世に託したのである。
ナポレオン3世、中東にむかう
ナポレオン3世は、叔父のナポレオン同様戦争によって、支持を高めようとした。ナポレオン3世が手を付けたのは、ナポレオンが名声を高めたオスマン帝国であった。
ナポレオン3世は、オスマン帝国と連携してロシアに戦争を仕掛けた。クリミア戦争である。並行して、オスマン帝国から独立したエジプトではスエズ運河の建設を始めた。
54年 ウェストミンスター宮殿が再建
ウェストミンスター宮殿は、日本でいう国会議事堂に当たる建物。ビッグベンと呼ばれる時計台で有名な宮殿である。
ウェストミンスター宮殿は、11世紀、エドワード王が建てた宮殿。30年代に火災で焼失、これが再建された。
もくじ
ジェファソン大統領
反連邦派
第三代大統領ジェファソン大統領は、初の反連邦派の大統領である。
ジェファソン氏は、アメリカ独立戦争期には国務大臣(外務大臣)を担当。独立宣言を起草するとともに、ヨーロッパへ渡ってフランスなどで援軍交渉にあたっていた。
元々は、南部ヴァージニア州の農場経営者出身である。
ルイジアナ買収
ジェファソン大統領は、03年にフランスのナポレオンからルイジアナ西部を購入した。
ルイジアナはアメリカ中部に広がる大平野である。真ん中にミシシッピ川が流れていてミシシッピ川を挟んで東部と西部に分かれる。
共和党の分裂
共和党は、連邦派と反連邦派に分裂した。連邦派はナショナルリバブリカン党(国民共和党)を結成。反連邦派は、デモクラティックリバブリカン党(民主共和党)を結成した。
ナポレオン戦争
1800年代、ヨーロッパではナポレオン戦争が展開されていた。アメリカは当初中立の立場をとっていた。
ハイチの独立
フランス革命の影響を受けて、フランス領ハイチで奴隷解放運動が発生。ナポレオンはハイチに軍隊を派遣した。ハイチ軍はこれに勝利し、04年初の黒人共和国ハイチが誕生した。
ハイチの独立は、10年代から20年代にかけてのラテンアメリカの独立運動につながった。
イギリスは、07年に黒人奴隷貿易から撤退。33年ではイギリス領植民地での奴隷制度を禁止した。アメリカでも、東部の知識層も奴隷禁止の動きを進めた。これが50年代の共和党結成につながった。
1850年代のフランスは、ナポレオン3世の第二帝政の時代である。その代表格の戦争が、クリミア戦争である。ナポレオン3世は、50年代世界各地で戦争を展開した。
もくじ
英仏通商条約
60年、清王朝は天津条約の批准を拒否した。英仏両軍は再び軍艦を中国北部の天津港へ向かわせた。清王朝はロシア皇帝アレクサンドル1世を仲介役にして北京条約を締結した。北京条約は、天津条約よりも英仏に有利なものとなった。また、清王朝はロシア帝国にウラジオストーク(沿海州)を割譲した。日本政府は、58年の日米修好通商条約で開港を約束した新潟の開港を遅らせた。
北京条約を締結した60年、フランスのナポレオン3世とイギリスのパーマストン首相は、英仏通商条約を締結した。これにより、フランスはイギリスへ農産物の輸出量を拡大させた。一方で工業は衰退した。フランスの資本家は国内に投資せず、海外投資を積極的に進めるようになる。その中心が運河の建設であった。
イタリア統一戦争
(vsオーストリア)
天津条約が締結された58年、ナポレオン3世は、サルディーニャ王国(のちのイタリア王国)の宰相カブールと密約を締結した。フランスは、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国を支援する見返りに、南フランスのサヴォイアとニースをもらうことになった。
イタリア統一戦争とは、北イタリアのオーストリア領をめぐるサルディーニャ王国とイタリアの戦争である。ちなみに、オーストリアは1815年のウィーン会議で北イタリアを併合した。
同58年、レセップスがスエズ運河株式会社を設立。エジプトに地中海とインド洋を結ぶスエズ運河の建設を始めた。スエズ運河株式会社はフランス政府とエジプト政府が折半して出資して設立した。スエズ運河は69年に完成した。
59年4月、サルディーニャ王国(のちのイタリア)が、オーストリアに開戦。イタリア統一戦争が始まった。しかし、59年7月、フランス皇帝ナポレオン3世、イタリア統一戦争でオーストリアと単独講和した。サルディーニャ王国のローマ教皇領併合を懸念したためである。
北イタリアは、ロンバルディアがサルディーニャ王国領になったが、ヴェネツィアはオーストリアに残留した。
サルディーニャ王国は、イタリア統一戦争後、プロイセンに接近した。1866年のプロイセン=オーストリア戦争でヴェネツィアを、1870年の普仏戦争で中部イタリアのローマ教皇領を併合した。
イタリア統一戦争では、スイスのデュナン氏が負傷兵の救護活動を行った。クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍に心を打たれたからであるデュナン氏は1864年に国際赤十字条約を締結した。
アロー戦争(vs清王朝)
ナポレオン3世は、クリミア戦争を終結させるとイギリスとともに清王朝との戦争を開始した。アロー戦争である。
翌57年、ナポレオン3世は阮朝ベトナムを攻撃した。
57年には、広州(香港周辺)を占領。広州の総督はイギリス領インドのカルカッタへ連行された。
58年には、中国北部の天津港へ進軍した。それまで、ヨーロッパの戦争の舞台は江南地方に限られてきた。そのため、北京にいる高級官僚は危機意識が薄かった。しかし、中国北部の天津港が攻撃されると清王朝は降伏。天津条約(イギリス編を参照)を締結した。
58年、フランスは、幕末日本(徳川政権)と日仏修好通商条約を締結した。
クリミア戦争(vsロシア)
オスマン帝国は、フランス王室にイェルサレムの管理権を与えていた。しかし、フランス革命期にキリスト教が禁止され、それに伴い、イェルサレムの管理権を返還した。代わりにこの管理権を得たのがロシア帝国であった。
ナポレオン3世は、オスマン帝国にイェルサレムの管理権を再度お願いした。オスマン帝国はこれを快諾した。それに怒りを感じたのがロシア帝国である。53年、ロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国へ宣戦布告した。
ナポレオン3世は、叔父のナポレオンと異なり、外交が巧みであった。とくに、イギリスのパーマストン首相と友好関係を築いていた。そのため、クリミア戦争はロシアVSオスマン国・西欧諸国連合軍という形になった。
このころ、ヨーロッパの産業革命が急速に進んだ。ナポレオン3世は、クリミア戦争の最中の55年、パリ万国博覧会を開催した。この時期にフランスの鉄道網が整備された。パリ市街地も幹線道路が整備された。現在のパリの街並みはこの時に整備された。交通の便が良くなった一方、パリは攻め込みやすい都市となった。普仏戦争の敗北やパリコミューンの早期決着はこれが要因となった。
55年、ロシア皇帝ニコライ1世が亡くなると、ロシアは降伏した。次期ロシア皇帝アレクサンドル2世をパリに迎えて講和会議を行った。56年、パリ条約が締結された。
パリ条約では、オスマン帝国の領土の保全を認めるとともに40年のロンドン条約を再確認し、黒海の中立化を再確認した。
ちなみに、イギリスのナイチンゲールが活躍したのがクリミア戦争である。
第二帝政
48年の2月革命(48年革命)で大統領になったナポレオン三世は、52年国民投票により皇帝になった。ナポレオン三世は、農民、資本家、労働者の利害の異なる勢力に支えられていた。
英仏通商条約を締結し、自由貿易と国内産業育成に努めた。一方で、対外戦争を進めることで利害対立を外に向けさせた。
インフラの整備や、労働立法の改正で、ナポレオン三世は、労働者の支持を得ていった。一方で、工業化を進めることで資本家の支持も得た。