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トルコ・ギリシャ史

1世紀のローマ帝国

悪君ネロ帝

キリスト教の大迫害

 キリスト教の大迫害を実施。伝道師ペテロやパウロが殉職したのもこのころである。

 キリスト教徒らの怨霊は、ヴェスヴィオス火山を噴火させた。この噴火によってポンペイの街は火山灰で埋没した。

 ペテロやパウロも、当時ローマで布教活動を行っており、ネロ帝によって処刑された。ローマにあるペテロの墓には、4世紀に、コンスタンティヌス帝がサン=ピエトロ教会が建てられた。現在まで続くローマ=カトリックの総本山である。

ユダヤ戦争

 このころ、ユダヤ民族は反乱を起こした。ネロ帝はこの反乱を鎮圧させた。この戦争によってユダヤ民族は世界各地へ離散した。

キリスト教の歴史

ユダヤ人の宗教から世界宗教へ

 イエス=キリストが処刑されると、キリストの弟子(使徒)がキリスト教の布教を進めた。その主な拠点は小アジア(トルコ)であった。主に布教の中心は、ペテロパウロであった。

 ペテロは、イエス=キリストの弟子であり、ユダヤ人を中心に布教した。一方、パウロはイエス=キリストが敵視していてパリサイ派に属していた。イエス=キリストの処刑後にキリスト教へ改新した。パウロはパレスチナではエリート層であり、ローマ市民権を持ち、ギリシャ語も話せた。そのため、ユダヤ人だけでなく非ユダヤ人にも布教を行った。

預言者 イエスキリスト

 西暦1年はイエス=キリストが生まれた年とされている。イエス=キリストは、神からの預言を受け、ユダヤ教の改革運動を展開した。この改革運動は、ユダヤ人の貧困層に広まった。

 当時ユダヤ教の主流派であったパリサイ派は、ローマ帝国の提督にイエス=キリストの処刑を進言。30年、イエス=キリストは処刑された。

 これがきっかけに、ユダヤ人は各地で迫害を受けるようになった。

1世紀のユダヤ民族

 ユダヤ民族は、一神教であるユダヤ教を信仰していた。

 1世紀、ユダヤ民族はローマの属州で生活をしていた。当時のユダヤ教をうごかしていたのがパリサイ派であった。パリサイ派は、律法を遵守することを重んじた。裕福な人々は律法を守ることはそれほど苦ではなかったが、貧困層にとっては律法を守ることはかなりの苦行になった。

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ロシア史

1850年代のロマノフ朝ロシア帝国 クリミア戦争とニコライ1世

1850年代、日本にはペリーが来航。幕末の動乱が始まった。
 このころ、ロシア帝国は大きな戦争がおこった。クリミア戦争である。

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アメリカ史

1810年代のアメリカ ナポレオン戦争と米英戦争

 1810年代、ヨーロッパではナポレオン戦争の真っただ中にあった。アメリカは当初中立の立場をとっていた。しかし、イギリスとフランスが相互に海上封鎖を行った。これにより、アメリカはフランスに物が売れなくなった。そのため、アメリカはイギリスに宣戦布告した。

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トルコ・ギリシャ史

1850年代のオスマン帝国 世界が守ってくれたクリミア戦争

1850年代、アメリカは日本へペリーを派遣した。ペリー来航である。なぜ、アメリカはこのタイミングで日本へ使者を送ったのだろうか。この時、ヨーロッパは世界的な戦争に巻き込まれていた。クリミア戦争である。

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トルコ・ギリシャ史

2世紀のローマ帝国 五賢帝と東地中海

2世紀は、東西の2大帝国の全盛期である。ローマ帝国と漢王朝(後漢)である。バルカン半島やトルコ(小アジア)を含む東地中海世界はローマ帝国の属州となっていた。

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イラン・ペルシャ史

1850年代のカジャール朝イラン クリミア戦争の裏側で

1850年代、日本はペリー来航で江戸幕府が大きく揺らいだ。しかし、世界全体の関心事は、これではない。クリミア戦争である。当時の2大帝国、イギリスVSロシアが最高潮に達した瞬間である。

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アメリカ史

1820年代のアメリカ ミズーリ協定とモンロー大統領

 モンロー大統領は、ミズーリ州を自由州にしようとした。これに対し、南部の綿花農家の反発を受けた。これにより成立したのがミズーリ協定である。

 しかしこの事件により、東部の知識人層と南部・西部の自営のわだかまりが生じた。これがジャクソン大統領の登場につながった。

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アメリカ史

1830年代のアメリカ 西部開拓とジャクソン大統領

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中国史

1850年代の清王朝 太平天国の乱とアロー戦争

 香港近くの広東省で宗教反乱である太平天国の乱がおきる。江南の南京を首都に独自政府を樹立した。太平天国の乱で混乱中の清王朝に対して、イギリス・フランス連合軍がアロー戦争(第二次アヘン戦争)を仕掛ける。清王朝は敗北し、ロシア帝国を仲介して北京条約を締結する。

太平天国 が南京に政府を作る

 50年ごろの清国内は、アヘン戦争の賠償金や戦費のため重税が課され、多くの秘密組織(結社)が組織された。これらの秘密組織は中国各地で反乱を起こしていた。その中で一番大規模なものは、香港周辺の広東省太平天国であった。指導者は、洪秀全で、キリスト教をベースにして、儒教を攻撃対象とし、民間信仰の偶像を次々破壊した。51年太平天国は挙兵。53年長江流域まで勢力圏を広げ、南京を陥落。南京政府を作った。彼らは南京を天京と呼んだ。当時の広東は、近くの香港島がイギリスに奪われ、アヘン中毒者が多くいた。

 太平天国は、江南(中国の南半分)の大部分を制圧した。清王朝は、当初正規軍を派遣した。しかし、鎮圧することができなかった。南部の漢民族の知識層は、独自に軍隊を編成して太平天国の乱の鎮圧へ向った。その代表は曽国藩である。この功績により曽国藩などの漢民族知識層は、清王朝の高官につくようになった。

イギリス・フランス連合軍が
アロー戦争を起こす。

 太平天国の乱で混乱の最中、イギリスは、56年、ナポレオン三世のフランスとともに清王朝に対し、再度出兵を行った。アロー戦争(第二次アヘン戦争)である。
 当時のヨーロッパは56年にクリミア戦争終結したばかりで、一時的な安定期に入っていた。しかし、開戦翌年57年、ヨーロッパ各国は経済恐慌が起っていた。のためアジア・アフリカ市場への進出が各国の政策課題となった。クリミア戦争後の平和と恐慌による世論の形成が、アロー戦争を引き起こした。イギリスは、ヴィクトリア女王の黄金期で、2大政党制が確立していた。51年には世界最初の万国博覧会を開催した。当時の首相はホイッグ党(のちの自由党)で外交手腕の高いパーマストンであった。パーマストンは、58年にはインドのムガル帝国を滅亡し、イギリス領とした。フランスは52年に皇帝になったナポレオン三世の時代で、開戦前年の55年にはパリ万国博覧会を開催。アロー戦争が終結するとベトナム、メキシコなどに出兵するなど対外戦争を繰り返した。

 イギリス・フランス連合軍は、首都北京近くの天津港に迫り、58年天津条約を締結。アロー戦争の敗戦は日本の徳川幕府にも伝わり、徳川幕府は同じ58年日米修好通商条約を締結した。しかし、清王朝は、批准を拒否しイギリス施設の入京を武力で阻止。そのためイギリス・フランス両軍は再度出兵。北京を陥落させる。60年、ロシアの仲介で停戦。北京条約を締結する。

北京条約の内容は

 北京条約では、外国公使の北京駐在。天津など11港開港。外国人の中国内地の旅行の自由。キリスト教布教の自由を認めた。外国公使の北京駐在により、清王朝ははじめて異国との対等外交(朝貢以外の外交をみとめた)ことになった。また、開港した11港の大部分は長江流域であり、19世紀初頭には、長江流域はイギリスの勢力圏になる。また、北京近くの天津港開港や外国公使の北京駐在は、北京で働く中央官僚にも影響を与え、漢人官僚を中心に危機感を感じ、洋務運動のきっかけになった。ちなみに、解禁されたキリスト教布教は、雍正帝が18世紀(1706年)に禁止したものである。

ロシア ウラジオストークをえる。

 一方で、ロシアでは、天津条約を締結した58年にアイグン条約を締結し、中国東北部を一部割譲した。また、ロシアが仲介した60年北京条約では、沿海州中国東北部日本海沿岸)を割譲した。当時のロシアは、56年のクリミア戦争の敗戦で地中海への入り口である黒海の勢力圏を失った。そのため、太平洋岸の不凍港獲得が政治課題であった。ロシアは沿海州を獲得したことで日本海不凍港ウラジオストーク日米修好通商条約で開港した新潟の対岸)を得た。しかし、太平洋に出るには日本列島のどこかを横断せざるを得なく、これは明治新政府に脅威を与えた。一方、清王朝は、これにより日本海ルートを失った。

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トルコ・ギリシャ史

3世紀のローマ帝国 軍事皇帝時代の内乱期

軍人皇帝時代の内乱期

 五賢帝の時代の終盤に入ると、ローマ市民だけでは広大なローマ帝国を統治しきれなくなっていた。そのため、属州の上級市民にローマ市民権を与えて、協力を仰いだ。12年のカラカラ帝の時代には、属州をふくむすべての全自由人にローマ市民権が与えられた。

 五賢帝時代が終わると、帝国のまとまりが徐々にくずれはじめた。各属州の軍団長が独自に皇帝をたてる軍人皇帝時代に入った。

 84年ディオクレティアヌス帝がローマ帝国を再統一した。ディオクレティアヌス帝は属州を整理してローマ帝国を4分割して統治した。ディオクレティアヌス帝は従来のローマ風民主主義を否定。イラン風の専制君主制を導入した。

キリスト教の拡大

 1世紀に成立したキリスト教は、3世紀の軍人皇帝の内乱期に急激に拡大した。その理由は2点ある。3世紀の軍人皇帝時代の戦乱によって人々は不安になり、キリスト教を信仰するようになった。2つ目に、ローマの混乱によってキリスト教の取り締まりが緩くなったためである。

 ローマ帝国を再統一したディオクレティアヌス帝は、イラン風の統治を行おうとした。そのため、自らを神格化し、皇帝礼拝を強制した。これにキリスト教徒は反発。ディオクレティアヌス帝はキリスト教の大迫害を行った。

コロヌス制(小作人)による農業

 2世紀まで、ローマ帝国で主流となる農業スタイルは、ラティフンディアであった。ラティフンディアとは、戦争で獲得した広大な土地と戦争奴隷を使って大規模農園を経営する方法である。

 しかし、2世紀には領土の拡大は止まった。そのため、戦争奴隷の供給が止まった。これによって、ラティフンディアの経営者は労働力不足に悩まされた。

 軍人皇帝時代、内乱が相次いだため財政がひっ迫した。ローマ帝国は都市市民に重税を課した。貧困化した都市市民や残っている戦争奴隷に土地を貸し出し、小作料で生活するようになった。農園主から土地を借りている人たちはコロヌス(小作人)と呼ばれた。

 一方、異民族の侵入や内乱で、各属州は軍事力の増強が急務となった。提督(属州の長)は、都市に重税をかけるようになった。税金を納めるべき上級市民は都市を離れ、農場経営者へ変わった。また、パンとサーカスを行う余裕がなくなったので、下層市民も都市を離れた。彼らの多くは、コロヌスとなった。こうして、多くの都市は衰退していった。

ササン朝ペルシアの成立

 一方、ローマ帝国の東にあったパルティアは3世紀に滅亡。3世紀にササン朝ペルシアが成立した。

 シャープール1世の時代には、インドのクシャーナ朝を服従させた。シリア遠征の際には、ローマ皇帝を捕虜にした。