17世紀前半、日本は江戸時代初期。徳川家康から徳川家光の時代に当たる。江戸時代の創成期である。
この頃、オスマン帝国は新たな脅威にさらされる。それは東方から現れた。サファヴィー朝イランのアッバース1世である。これにより、オスマン帝国は衰退期に入る。
前回までの復習
14世紀から20世紀初頭(第一次世界大戦)まで、北アフリカ、中東、バルカン半島(東欧南部)にわたる大帝国があった。オスマン帝国である。
しかし、17世紀後半にはいると、バルカン半島を狙う2つの強国が登場した。ロシア帝国とオーストリアである。
サファヴィー朝イランとの攻防
アッバース1世
16世紀末、東隣のサファヴィー朝イランでアッバース1世が即位。サファヴィー朝が全盛期を迎える。オスマン帝国はこの時、イラク(バグダード)やアゼルバイジャン(カフカス地方)を奪われた。
アッバース1世が巨大な力を持てた要因はイギリスのバックアップである。アッバース1世は、イギリスの支援の下軍隊の近代化に成功していた。これにより、ホルムズ島をポルトガル(スペイン)から奪還した。当時のイギリスは、エリザベス女王の全盛期であった。
一方、オスマン帝国と同盟関係にあったフランスは16世紀後半のユグノー戦争で国力が落ちていた。
アッバース1世死後
しかし、サファヴィー朝の繁栄も長くは続かなかった。アッバース1世が亡くなると、オスマン帝国はすぐにイラクを奪還した。当時、ヨーロッパはドイツ三十年戦争の真っただ中で、アジアに手を出す余裕はなかった。
ヨーロッパ外交
カピチュレーション
オスマン帝国はオランダにカピチュレーションを与えた。
カピチュレーションとは、非イスラム教徒の商人の保護特権で、関税を治める代わりに領事裁判権(オランダ商人は、オランダ商人が裁く)を与えた。
このカピチュレーションは、16世紀半ばに同盟国のフランス商人に与え多のが始まりである。16世紀後半、ユグノー戦争でフランスが衰退。アルマダの海戦に勝利したイギリス商人にもカピチュレーションを与えた。
ヴェネツィアに宣戦布告
三十年戦争が終盤に入るとフランスがオーストリアへ宣戦布告した。これに呼応して、オスマン帝国もヴェネツィアへ侵攻した。
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