1940年代前半の第二次世界大戦期。アメリカは当初中立を保っていた。日中戦争の講和のための日米交渉が決裂。日米開戦に踏み切るとイギリス陣営で参戦した。
独ソ戦が勃発すると、英米ソvs日独の構図が確立された。終戦が近づくと英米ソは戦後構想について協議を重ねるようになる。
民主党F=ローズヴェルト大統領
40年代前半、民主党ローズヴェルト大統領の時代である。30年代の世界恐慌をニューディール政策で乗り切り国民の支持を集めた。
44年、米英ソ戦後処理交渉
ヤルタ会談
45年1月、F=ローズヴェルト氏は4期目の大統領に就任した。しかし、この頃になるとF=ローズヴェルト大統領は体調を崩していた。
翌2月、クリミア半島(ソ連)でヤルタ会談が行われた。参加したのは、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)、スターリン書記長(ソ連)
ヤルタ会談について、4つの点が採択された。国際連合の件とドイツの戦後処理の件、ポーランドの件、ソ連の対日参戦である。
国際連合の件は、前44年11月のダンバートン=オークス会議で決裂していた。問題点はスターリン書記長が拒否権を求めたためである。拒否権とは、決議の際に常任理事国5か国の全会一致を求めるものである。
ドイツの戦後処理問題は、2つの点でもめていた。1つ目は主権を回復したばかりのフランスを参加させるかどうかである。スターリン書記長は、貢献のないフランスの参加には反対した。2つ目は、分割統治か共同統治かである。共同統治の場合、スターリン書記長の発言力がどうしても高まってします。チャーチル首相はそれを避けるために分割統治で進める必要があった。結論としては、フランスの参加は承認された。共同統治か分割統治かについては、折衷案が提示された。英米仏ソは担当エリアが定められた。ただ、重要なことは管理理事会が定めることとした。しかし、48年の通貨改革はこれを無視した政策でスターリンを激怒させた。これがベルリン封鎖のきっかけである。
ポーランド問題も、2つの点でもめていた。国境線と第二次世界大戦後の政治体制である。ポーランド国内には、ソ連が支援する共産党系の政権が樹立されていた。一方で、イギリスにはポーランド亡命政府が存在した。国境線についてはソ連の意見が容認された。一方で戦後の政権については自由選挙で決定することとなった。
ソ連の対日参戦は、この会議の最大のポイントであった。ヨーロッパ戦線のみを考えれば英仏のみで勝利することは確実であり、戦後秩序を考えれば強気の交渉ができた。しかし、対日戦線はそうではなかった。そのため、ソ連の協力を必要とした。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の3か月後(8月6日)に日ソ中立条約を破棄して対日参戦を行うことになった。個人的な見解だが、日米の対立によって40年代の冷戦を生み、80年代の日米協調(レーガンと中曽根首相)が冷戦の終結に結び付いたと考える。
国際連合成立憲章が決裂
44年8月から、米英ソはアメリカのワシントン州(西海岸)郊外のダンバートンオークスに実務者を集めて国際連合憲章の草案作成を行った。
国際連合は、有名無実化した国際連盟の代わりになる組織であり、41年8月の大西洋憲章実現のために組織された。
しかし、米英ソが合意的なかった点が1つあった。それが拒否権である。これは翌年のトップ会談(ヤルタ会談)に持ち越された。
ブレトン=ウッズ体制
30年代の世界恐慌、40年代の第2次世界大戦で世界経済は壊滅状態になっていた。44年7月、連合国44か国の通貨担当者がアメリカのニューハンプシャー州(東海岸)に集まった。
大きなポイントは事実上の金本位制への復帰である。金本位制は発券銀行(日本でいう日本銀行)が通貨と金の交換を約束することである。これにより、通貨の信用度が高まった。しかし、世界恐慌を原因に多くの国が金本位制から離脱した。
ブレトンウッズ体制では、アメリカが金本位制へ復帰する。それ以外の国は米国ドルとの固定相場制を約束し、事実上の金本位制(ドル本位制)となった。この体制は、70年代のニクソンショックの時代まで続いた。
この会議では、3つの組織を作ることが決定された。1つ目はIMF(国際通貨基金)である。国際通貨基金は46年3月に設立。47年3月に業務を開始した。ブレトンウッズ体制維持のために資金提供を行う機関である。変動相場制へ移行した現在でも存在し、1990年代のアジア通貨危機の終息に役立った。
2つ目は、IBRD(国際復興開発銀行)である。46年に開業。戦後復興資金の提供のため機関である。この組織は、1920年代のドイツの賠償金問題の反省から生まれた組織である。現在でも発展途上国への融資を行っている。
3つ目は、GATT(貿易と完全に関する一般協定)である。これは自由貿易の実現のために作られた期間である。これは30年代世界恐慌期のブロック経済の反省から組織されたものである。これにより、英仏植民地へアメリカ製品を売ることができるようにするための仕組みである。この協定は、1990年代に設立されたWTO(世界貿易機関)に引き継がれた。
パリ解放
フランスは、40年6月にパリが占領された。以後、ナチスドイツの支配下に入っていた。
前43年11月のテヘラン会談に合意に基づいて、44年7月英仏両軍はフランス北部のノルマンディに上陸。翌8月パリ解放。フランスがナチスドイツから解放された。ちなみにこれを指揮したのは後のアイゼンハワー大統領である。
このころ、アジア太平洋地域では、アメリカ軍がサイパン島を陥落させた。同じ頃、戦闘機B29が完成。アメリカ軍は日本への空襲が可能になった。
テヘラン会談
43年11月、F=ローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は、カイロ会談を終えるとその足でテヘラン(イラン)へ向った。ここで、米英ソによる初のトップ会談が行われた。当時のイランは英ソの勢力圏であった。米英は、イラン経由で物資をソ連へ送っていた。
この前月(10月)、米英ソの外相がモスクワで会談。テヘラン会談の開催と国際連合の結成について話し合われた。
チャーチル首相(イギリス)とスターリン書記長(ソ連)は2つの点でもめた。対ドイツ戦の戦略とポーランド問題である。
対ドイツ戦について、チャーチル首相は、バルカン半島からの上陸を主張したのに対して、スターリン書記長はフランスからの上陸を主張した。これについては、フランスからの上陸で合意した。
ポーランドの国境問題は、一旦合意できた。しかし、イギリス国内のポーランド亡命政府が反対。45年のヤルタ会談へ持ち越された。
また、ここで、日ソ中立条約の破棄も決定された。しかしそのタイミングについては45年のヤルタ会談へ持ち越された。
カイロ会談
43年11月、日本の東条英機内閣は大東亜会議を開催。大東亜共同宣言で「アジアの解放」を訴え、日本の正統性を主張した。
これをうけて、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)は、中華民国の蒋介石と会談。日本の降伏条件を話し合った。この内容がポツダム宣言に反映された。その内容は以下のとおりである。
- 日本は、満州(満州事変)と台湾・澎湖諸島(日清戦争で獲得)を中華民国に返還すること
- 日本は、1914年(第一次世界大戦)以降に獲得したタイへよう地域を手放すこと
- 朝鮮半島を独立させること
朝鮮半島の独立は、日米交渉期にはなかった条項である。
カイロ会談が終わると、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)はその足でイランのテヘランへ向った。
43年 北アフリカの戦い
ケベック会談
43年8月、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)はイギリス領カナダのケベックで会談をした。
イタリア降伏
北アフリカを制圧した米英連合軍は、イタリアへ標準を当てた。43年7月、カサブランカ会談(43年1月)をうけて、米英連合軍は南イタリアのシチリア島へ上陸した。これをうけ、イタリア国王はムッソリーニを解任。新政府を樹立。43年9月、イタリアは降伏した。
しかし、イタリアの戦争はこれでは終らなかあった。ナチスドイツがイタリアへ進駐。ナチスドイツと米英連合軍のにらみ合いが続いた。
ソ連、コミンテルンを解散
米英との協調路線を進めるため、ソ連のスターリン書記長は子コミンテルンを解散した。コミンテルンは10年代のロシア革命期に作られた各国共産党の連合組織である。しかし、冷戦が勃発した47年9月コミンフォルム(共産党情報局)として復活した。
カサブランカ会談
43年1月、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)はモロッコのカサブランカで会談。イタリア上陸作戦について話し合われた。
42年 連合国優勢に
ソ連軍、スターリングラードの戦いに勝利
ドイツ軍は、43年8月ソ連の石油基地をもとめてソ連へ侵攻した。この戦争は長期戦にあった。やがてロシアに極寒の冬が訪れた。翌44年2月、冬将軍によって、ソ連はドイツ軍に勝利した。
モロッコ上陸
42年11月、英米連合軍はモロッコへ上陸。アルジェリア・モロッコなどの北アフリカを制圧した。
ガダルカナル島
太平洋のガダルカナル島をめぐり日米が争った。日本軍は、補給に失敗し多くの餓死者を出し42年8月撤兵した。
ミッドウェー海戦
43年6月、太平洋のミッドウェーで開戦。アメリカ海軍は日本軍の暗号解読に成功。アメリカは日本に勝利した。日本軍はこの戦いで多くの軍艦を失った。
41年 日米交渉
日米交渉の内容
41年、日米は太平洋戦争回避のために交渉を続けた。しかし、交渉は決裂した。両国の主張は以下のとおりである。
日本の主張
- アメリカのあっせんによる日中戦争の解決
- 防共駐兵以外での中国からの撤兵
- フランス領インドシナ北部以外の東南アジアからの撤兵
- アメリカの満州国の承認
アメリカの主張
- 防共駐兵を含む日本からの撤兵
- フランス領インドシナを含む東南アジアからの撤兵
- 防共駐兵、満州国について、撤兵後に別途協議
太平洋戦争勃発
東条英機内閣は、最後通牒であるハル=ノートを拒否。英米との開戦に踏み切った。
12月8日、アメリカに対しては真珠湾攻撃を、イギリスに対してはマレー海戦を実施した。いずれの奇襲攻撃も成功裏に終わった。
日本は宣戦布告が遅れた。そのため、奇襲扱いにされた。F=ローズヴェルト大統領は事前に察知していた。しかし、これまでの敗戦は予想外であった。その後、F=ローズヴェルト大統領は対日戦争に慎重になった。
一方で、厭戦モードのアメリカ世論は、憎き日本という雰囲気になった。
ハル=ノート
11月、日本は近衛内閣が総辞職。陸軍出身の東条英機内閣が成立した。東条英機内閣は日米交渉を解決するために尽力した。
その最中、アメリカはハルノートを東条英機内閣を突きつけた。その内容は以下のとおりである。
- 東南アジアと中国からの完全撤兵
- 南京政府と満州国の否認
- 日独伊三国同盟の破棄
日本へ経済制裁(ABCD包囲網)
41年7月、日本軍はフランス領インドシナ南部へ進駐した。これに対し、英米は経済制裁に踏み切った。ABCD包囲網である。
大西洋憲章
41年8月、F=ローズヴェルト大統領とチャーチル首相(イギリス)が大西洋憲章を発表した。これにより、日本の中国支配とナチスドイツのヨーロッパの侵攻を非難した。
独ソ戦を展開中のソ連のスターリン書記長は、この大西洋憲章に賛成の意を示した。F=ローズヴェルト大統領は、これをうけて、武器貸与法をソ連にまで拡大した。
独ソ戦開戦
40年6月、独ソ不可侵条約を破棄。独ソ戦が始まった。ただ、日ソ中立条約は有効とした。
武器貸与法
41年3月、F=ローズヴェルト大統領は武器貸与法を締結した。これにより、アメリカはイギリスなど連合国の支援を始めた。しかし、アメリカ世論は、第二次世界大戦の派兵を認めなかった。
日ソ中立条約
41年1月、日独伊三国同盟を利用して日ソ中立条約を締結した。これにより、日本は日中戦争に集中できる状況になった。
40年 第二次世界大戦
日独伊三国同盟
40年6月、ナチスドイツはパリを陥落した。40年9月、有名無実化した日独伊防共協定の代わりに日独伊三国同盟を締結した。日本は、見返りにナチスドイツ支配下のフランス領インドシナ北部への進駐した。
このころ、日本は3月に南京汪兆銘政府を樹立した。これは英米が支援する蒋介石政府と対立した。日中戦争と和平交渉(日米交渉)を展開していた。
第2次世界大戦勃発
39年8月、独ソ不可侵条約を締結。翌9月ナチスドイツとソ連はポーランドへ侵攻した。ポーランド政府はイギリスへ亡命した。(ポーランド亡命政府)。イギリスとフランスはドイツとソ連に宣戦布告した。第二次世界大戦の始まりである。ソ連はこの時、国際連盟から除名された。
アメリカは、この時中立の立場をとった。ソ連を仮想敵国とした日独伊防共協定は有名無実化した。
日中戦争の泥沼化
太平洋戦争のバックグラウンドにこれに対し蒋介石は、中国内陸部の重慶に政府を置いた。アメリカは東南アジア経由で蒋介石政権を支援した。
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