今回から東西分裂前のローマ帝国を見ていきます。4世紀、ローマ帝国は、都をローマからコンスタンチノーブルに遷都した。キリスト教は、4世紀前半に公認され、4世紀末には国教化された。その過程でキリスト教の教義も徐々に固まった。
デオドシウス帝
ローマ帝国の分裂
95年にデオドシウス帝が亡くなると、ローマ帝国は再び東西に分割された。それぞれの国と2人の息子がそれぞれ皇帝になり統治した。
東ローマ帝国は、引き続きコンスタンチノーブルを中心に、バルカン半島や中東の東部、エジプトなどを統治した。東ローマ帝国は、後にビザンツ帝国と呼ばれるようになり、15世紀まで存続した。
西ローマ帝国は、かつての都ローマを中心に西欧を統治した。しかし、ゲルマン民族の侵攻により5世紀に滅亡した。
キリスト教の国教化
デオドシウス帝は、即位した翌年(80年)にキリスト教を国教化した。同じ年、ローマにサン=ピエトロ大聖堂を建立した。
92年には、キリスト教以外の宗教を禁止した。ローマ帝国版焚書坑儒である。94年を最後にギリシャの古代オリンピックが中止された。しかし、アカメディア(6世紀に廃止)は廃止されなかった。
80年に、サンピエトロ大聖堂を建立した。
ゲルマン民族の侵入
デオドシウス帝が即位する前、ローマ帝国はゲルマン民族の一派ゴート族の侵入に悩まされていた。前皇帝も、78年のアドリアノーブルの戦いで亡くなった。
ユリアヌス帝
キリスト教の最後の大迫害
4世紀半ば、ユリアヌス帝は、古来の多神教(ローマ神話、ギリシャ神話の世界)の復興を目指した。そのため、キリスト教の最後の迫害を行った。しかし、これはうまくいかず、キリスト教は再び公認された。
コンスタンティヌス帝
キリスト教の公認
コンスタンティヌス帝の最大の功績は、キリスト教の公認である。コンスタンティヌス帝は、あくまでキリスト教を公認しただけであり、他の宗教も容認している。
3世紀の戦乱期(軍人皇帝時代)で人々は不安を覚えた。それを救ったのがキリスト教である。4世紀に入るとキリスト教勢力は無視できない状態になった。
03年、前皇帝ディオクレティアヌス帝はキリスト教の大迫害を行った。13年、西ローマ皇帝時代にミラノ勅令で西ローマ帝国内のキリスト教を公認した。24年、コンスタンティヌス帝がローマ帝国を再統一すると、キリスト教の公認はローマ帝国全土に及ぶようになった。
コンスタンティヌス帝がローマ帝国を統一した翌年(25年)、キリスト教の教義をまとめる会議がニケーアで行われた。ニケーアはコンスタンティノーブル近郊の都市である。この会議でアリウス派が異端とされた。アリウス派とはイエスは人間であり、神ではないとする考え方である。アリウス派の人々はローマ帝国を追放され、バルカン島北部のゲルマン民族(ゴート族など)に布教をおこなった。
コンスタンティヌス帝は、ローマにサン=ピエトロ教会を作った。これは、1世紀に亡くなったペテロの墓である。この教会はローマ=カトリックの総本山になる。
コンスタンチノーブル遷都
コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を再統一すると都を東側の拠点ビザンティウム(現在のイスタンブル)へ移した。この地は、その後コンスタンティノーブルと呼ばれるようになった。
コンスタンティヌス帝は、ディオクレティアヌス帝と同じイラン風の専制君主制を採用した。軍隊を増強し、徴税を管理する官吏を大量にされた。この頃になるとローマ時代の自由な風土は亡くなっていた。
コロヌス(小作人)の移動の禁止
コンスタンティヌス帝は、軍事費の増大や官吏への給料で財は逼迫していた。税収を安定させるため、コンスタンティヌス帝はコロヌス(小作人)の移動を禁止する法律を制定した。これにより、下層身分は世襲化されるようになった。
ローマ帝国の再統一
ディオクレティアヌス帝は帝国を4分割して統治していた。コンスタンティヌス帝は西の副帝であった。コンスタンティヌス帝は13年にミラノ勅令を出してキリスト教徒を味方につけて、24年ローマ帝国を再統一した。
コメント
[…] ペテロやパウロも、当時ローマで布教活動を行っており、ネロ帝によって処刑された。ローマにあるペテロの墓には、4世紀に、コンスタンティヌス帝がサン=ピエトロ教会が建てられた。現在まで続くローマ=カトリックの総本山である。 […]