党人派と官僚派
50年代から60年代、党人派と官僚派が勢力争いをしていた。
官僚派とは、高級官僚出身の政治家である。代表格は吉田首相である。戦後、党人派の大部分はGHQによって公職を追放。選挙に出馬することができなかった。そのため、保守派の政治家が不足した。そこで代わりに政治家になったのが、高級官僚たちであった。
党人派とは、戦前から政治家だった人たちである。代表格が自民党の初代党首である鳩山一郎である。
安保闘争と岸首相
岸首相は、日清戦争勝利直後の96年の山口県に生まれた。東京帝国大学卒業後、農商務省に進んだ。当時のトップ省庁である内務省で、岸氏の判断は周りを驚かせた。
農商務省は、農林省(現在の農林水産省)と商工省(現在の経済産業省)に分離された。岸氏は商工省に配属された。その後、満州に配属された。ここで、軍部や財界、官界に広範な人脈を築いた。同郷の鮎川氏(財閥のトップ)や松岡氏(国連脱退時の外務大臣)も満州にいた。東京へ戻ると、東條内閣で商工大臣として入閣。しかし、その後次官に降格。これにより、岸元大臣は反東條派になる。
戦後は、A級戦犯として投獄された。48年に釈放。公職追放処分を受けて、民間企業の役員を歴任した。
公職追放解除後は、自主憲法制定を掲げて政党を設立。ただ、53年総選挙で大敗。吉田自由党に入党する。
56年、岸政権が成立。汚職、貧乏、暴力の三悪の追放を掲げ、減税を実施した。
また、米国とは一定の距離を置き、自主外交を展開した。
60年1月、アイゼンハワー大統領と会談。安保条約を改定。安保条約の不平等性を改善する一方で、相互防衛を約束した。
これにより、東京で安保闘争が起こる。60年7月岸内閣は退陣した。
石橋首相
56年自民党総裁選が行われる。決選投票までもつれ込み、わずか7票差で岸首相を破り、石橋氏が総理総裁になった。しかし、体調不良で2か月で退陣。次点の岸首相が後継総裁になった。
自民党は何故誕生したのか?
55年1月、鳩山首相は、衆議院を解散。比較第一党を確保するも、過半数をとることができなかった。
55年10月、社会党左派と社会党右派合流。日本社会党が結成された。これにより、社会党が第1党になった。これに脅威を感じ、鳩山首相の民主党と吉田前首相の自由党が合併。自由民主党が設立した。
鳩山首相は、自主外交を展開。ソ連と国交を回復し、国連に加盟した。
鳩山首相は、ソ連との国交回復を花道に、退陣した。
鳩山首相
鳩山首相は、帝国議会が設立される前の83年の東京で生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。地方議会を経て、1915年に衆議院に初当選。
終戦後に、自由党を結成。46年の総選挙で第一党になる。しかし、公職追放。首相の地位を吉田に預ける。
51年、公職追放を解除。
54年11月、民主党を結党。幹事長に就いたのが岸氏である。12月に鳩山政権が成立した。
吉田首相
52年4月、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は独立をはたした。この前後から、公職追放が解除。鳩山氏や岸氏が政界に復帰する。
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