概要
4章から中世編に入る。中世の始まりは、7世紀のイスラム教の成立である。このイスラム圏は、西アジアだけでなく、アフリカ大陸、スペイン、インドや東南アジアまで広がった。
時代的には、7世紀のイスラム教の成立から15世紀のオスマン帝国の成立までの歴史を見ていきます。
イスラム教の成立は、キリスト教圏に影響を与えるようになった。また、唐王朝にも大きな影響を与えた。
イスラーム教の成立とイスラーム帝国
- 預言者ムハンマドの時代
- 選挙で選ばれた正統カリフ時代
- アラブ帝国(ウマイヤ朝)
- イスラム帝国(アッバース朝)
- 地方政権の乱立
中世の始まりは、イスラム教の成立である。当時の西アジアは、東はビザンツ帝国、西はイラン(ササン朝)が支配していた。
ムハンマドはそのような中で、預言を受けイスラム教を広めた。当時、アラビアでは多神教が信仰されていた。そのため、ムハンマドらは迫害を受けた。しかし、武力によって、アラビアを統一。
正統カリフ時代には、イランを征服。ビザンツ帝国の大部分を征服した。
ウマイヤ朝時代には、スペインまで領土を拡大。アッバース朝時代には、タラス河畔の戦いで唐王朝に勝利。中央アジアをイスラム圏にし、唐王朝から中央アジアの交通権益を奪った。
イラクのバグダードが建設されたのもこの時代である。
イラン・エジプト・スペイン
イランとトルコ民族
イランは、この時期に多くの民族が訪れている。騎馬民族であるトルコ民族とモンゴル民族である。
トルコ系のセルジュークは、シーア派のブワイフ朝を追放。ビザンツ帝国へ侵攻し、十字軍のきっかけとなった。
13世紀には、モンゴル帝国が侵攻。バグダードへ侵入しアッバース朝を滅亡させた。
エジプトと十字軍
エジプトも。シーア派のファーティマ朝が倒れ、スンナ派のアイユーブ朝が成立した。そのリーダーがサラディンである。サラディンは、十字軍と戦い聖地エルサレムを守った。
その後、アイユーブ朝の軍人奴隷であったトルコ人たちが、下克上を果たしマムルーク朝を開いた。マムルーク朝はモンゴルを撃退し、聖地メッカを守った。その後、オスマン帝国に征服されるまで、カリフの地位を維持した。
スペイン
スペインは、ウマイヤ朝の時代にイスラム圏に入った。これは、15世紀のレコンキスタの時代まで続いた。
東南アジア・インド・アフリカ
インド
- 古代四王朝(ヴァルダナ朝)の滅亡
- 小国乱立時代
- イランや中央アジアのイスラム系地方政権が乱入
- デリー=スルタン朝の成立
- ムガル帝国へ
東南アジア
イスラム教は東南アジアまで広まった。現在、世界でイスラム教徒が一番多いのは東南アジアのインドネシアである。
この時代、東南アジアは2つの地域に分裂した。半島部(ミャンマー、タイ、ベトナム)では仏教(上座部仏教)が広がった。一方で、諸島部(マレーシア、インドネシア)では、イスラム教の国(マジャパヒト王国など)が成立した。
13世紀後半、モンゴル帝国のフビライが東南アジアへ侵攻。この混乱で、多くの王朝が滅亡した。
15世紀初頭、明王朝がイスラム教徒の鄭和の大航海が行われる。これにより、多くの東南アジア諸国が明王朝へ朝貢した。
そして、16世紀、大航海時代で多くのヨーロッパ人が来航する。
アフリカ
東アフリカ北部のエチオピアにはアクスム王国が存在した。
西アフリカでは、内陸部(ニジェール川上流)にイスラム系の王国が成立。金と岩塩で栄えた。
東アフリカでは、沿岸部にムスリム商人が拠点を築いた。この地にアラビア語の影響を受けたスワヒリ語が共通語になった。この地域は象牙と金の輸出で栄えた。14世紀初頭には、明王朝の鄭和も訪れいる。この時にキリンが明王朝へ献上された。15世紀末、喜望峰を回ったポルトガル時が登場する。
イスラム教の文化
イスラム文化の特徴は、融合の文化である。ビザンツ帝国でギリシャ哲学が禁止された影響で、多く学者がイスラム圏へ流入した。
このとき、ギリシャの学問がアラビア語に翻訳された。このギリシャ語に翻訳されたギリシャの学問が、12世紀にイタリアやスペインでラテン語に翻訳された。