1970年代のアメリカ ニクソンショック

1970年代、日本などの西側諸国では高度成長期が終わり、低成長期に入った。

80年代のアメリカ

 80年の大統領選挙でアメリカ国民は、強いアメリカを求めた。それを実現したのが共和党レーガン大統領であった。新冷戦を勝ち抜き、冷戦を終結させた。

民主党 カーター大統領

8年ぶりの民主党政権

 カーター大統領は、南部出身のリベラル派の政治家である。76年大統領選挙で、現職の共和党フォード大統領に勝利した。その要因は、黒人と労働者の支持であった。日米貿易摩擦で不況が長期化していた。そこに、ウォーターゲート事件によって共和党は完全に国民の信頼を失った。

人権外交で大統領選挙に敗北

 80年代に入ると、カーター大統領の人権外交が裏目にでた。それは、イラン大使館人質事件とソ連のアフガニスタン侵攻である。

 79年、親米派のハプレヴィー朝が倒れ、共和国(イラン=イスラム共和国)へ移行した。イラン革命である。イラン=イスラム共和国は、英米の石油メジャーが撤退した油田を国有化した。これにより、第二次石油危機が発生した。
 アメリカは前国王パフレヴィー2世の亡命を受け入れた。国王に身柄引き渡しを求めて、同78年11月、学生がイランにあるアメリカ大使館を占拠した。アメリカ大使館人質事件である。翌80年4月、カーター大統領は人質救出を指示。しかし、これは失敗した。

 79年のイラン革命は、隣国中央アジアのアフガニスタンへ波及した。アフガニスタンでは前年の78年に共産党政権が成立した。イスラムの考えに反した女性教育などが行われた。これにいイスラム教の聖職者は反発した。
 79年、イラン革命が勃発するとアフガニスタンで反政府活動が活発化した。同年12月、ソ連(ブレジネフ政権)は、共産党政権維持のためにアフガニスタンへ侵攻した。
 カーター大統領は、日本などの西側諸国とともに80年モスクワオリンピックをボイコットした。また、SALTⅡ(第2次戦略兵器削減条約)を批准しなかった。これにより、米ソは心霊背へ向った。

人権外交と中東和平

 カーター大統領の最大の功績は、エジプト=イスラエル和平の実現である。これにより、4度にわたる中東戦争は終結した。

 このほかにも、外交面でも数々の功績を残した。中米パナマにパナマ運河を返還。東アジアでは、米中国交正常化を実現。ソ連とは、SALTⅡ(第2次戦略兵器削減条約)を締結(前述のとおり批准はされなかった)。このようにカーターは数々の和平を実現した。

 一方で、アルゼンチンなど開発独裁を行い人権を抑圧していた国に対して、カーター大統領は経済制裁を行った。これを「人権外交」という。その代表例が、南アフリカのアパルトヘイト政策である。

スリーマイル島原発事故

 79年、アメリカ北東部ペンシルベニア州のスリーマイル島で原発事故が発生した。当時としては最大の原発事故である。これを超える原発事故は、2011年の福島第一原発事故(日本)と1986年のチェルノブイリ原発事故(ソ連)だけである。
 この事故によって、世界の原発政策は大きく変化した。

共和党 フォード大統領

ウォーターゲート事件

 共和党大統領ニクソン大統領は、72年のウォーターゲート事件で74年に辞任をした。これにより副大統領のフォードが大統領に就任した。

 副大統領は、大統領選挙本線の前に各党の大統領候補がそれそれ指名する。副大統領は、大統領が死亡や辞任などでかけたばあに大統領に昇格する。そのため、副大統領は、大統領ともに大統領選挙を戦う。しかし、フォードは、前副大統領が汚職で失脚していたため、大統領選挙を経ずに副大統領になっていた。

 ウォーターゲート事件とは、民主党本部に盗聴器を仕掛けたという事件である。民主党本部があったビルがウォーターゲートビルであったため、ウォーターゲート事件と呼ばれている。

オイルショックとサミット

 エジプトは、ナセル大統領がなくなり、サダト大統領が誕生した。ナセル大統領は、第3次中東戦争の敗戦で失脚し失意のうち亡くなった。73年10月、サダト大統領は、ナセル大統領の弔い合戦に出た。第四次中東戦争である。

 サダト大統領は、新たな戦略を用いた。これが石油禁輸である。石油禁輸を可能にしたのが68年に発足したOAPEC(アラブ石油輸出国機構)である。

 この石油禁輸は、低成長期に入った西側諸国大きな影響を与えた。これが第一次オイルショックである。これにより、第四次中東戦争は1か月で終結した。

 75年、フランス主導により、サミット(先進国首脳会議)が開催された。参加国は、アメリカ、イギリス、フランスに加え、第二次世界大戦の敗戦国、西ドイツと日本が参加した。

繊維交渉とロッキード事件

 フォード大統領の外交政策は、ニクソン大統領の政策を引き継ぎ、一定の成果を上げた。ソ連とは、SALTⅡ(第2次戦略兵器削減条約)の交渉を開始。ヨーロッパでは、ヘルシンキ宣言を成立。中国では、毛沢東と会談を行った。

 一方で、経済政策はうまくいかなかった。日本、西ドイツとの貿易摩擦。そこへ、第一次石油危機が襲った。

 74年、アメリカ大統領としては初めて、フォード大統領は日本を訪問した。その目的は日米貿易摩擦である。アメリカは日本に対して大幅な貿易赤字を抱えていた。これにより、国内産業は厳しい状況下にあった。フォード大統領は日本政府に輸出の自主規制を求めた。この時に交渉にあたったのが当時通産大臣(現在の経済産業大臣)の田中角栄であった。

 76年、アメリカの航空機メーカーのロッキード社の贈賄事件が発覚した。ロッキード社は、航空機受注のために日本などの多くの国の政財界に賄賂を贈った。この贈賄事件によって日本の田中角栄首相は逮捕された。

共和党 ニクソンショック

2つのニクソンショック

 ニクソン大統領は、68年の大統領選挙で民主党を破り、8年ぶりに政権を奪還した。共和党の勝利要因は表面的にはベトナム戦争の泥沼化である。しかし、その背景には経済の停滞があるとこは否めない。経済停滞を生んでいるのが日米貿易摩擦である。

 ニクソン大統領は、2つの大胆な政策を行った。訪中と金兌換停止である。

ニクソンショック① 訪中

 72年2月、ニクソン大統領はベトナム戦争終結のため中華人民共和国を訪問した。毛沢東と会談した。

 中華人民共和国の毛沢民にとっても好機であたった。50年代半ばのスターリン批判から中ソ関係は悪化し始めた。60年代後半になると、中ソの国境紛争が勃発。中国は新たなパートナーを模索していた。

 ニクソン訪中の前年71年、国際連合の代表権を中華民国(台湾)から中華人民共和国に替わった。

 ニクソン訪中後の72年9月、日本の田中首相も訪中を行った。この時、日中国交正常化が実現した。この時、上野動物園にパンダが贈られた。

ニクソンショック② 金本位制からの離脱

 ベトナム戦争によって、アメリカは財政難にあった。それにより金の流出が進んだ。

 当時の国際通貨制度は、第二次世界大戦中に固まった。すべての国は米ドルとの固定相場制を維持した。これに対し、アメリカは金とドルの約束した。これにより世界中が金本位制に復活した。

 しかし、金本位制は維持的なくなった。そのため、ニクソン大統領は金本位制を停止した。さらに輸入課徴金10%課した。しかし、これでもドルの流出は止まらなかった。そしてついに変動相場制へ移行した。これにより1ドル=360円から1ドル=270円前後に円高ドル安が進んだ。

SALT(ソ連)

 ニクソン大統領は、ソ連のブレジネフ書記長と会談。ここから70年代は核兵器軍縮交渉が始まった。72年、SALTⅠ(第1次戦略兵器軍縮交渉)を締結した。この交渉は70年代にわたって行われたが、80年のソ連のアフガニスタン侵攻で停止した。

ベトナム戦争

 共和党ニクソン大統領は、ベトナム戦争早期終結を公約に68年の大統領選挙に勝利した。69年にアジアへの軍事介入の抑制を表明した(ニクソン=ドクトリン)。

 ベトナム戦争は、67年からパリで和平交渉が行われていた。この交渉を優位に進めるため、東南アジアで軍事行動を起こした。70年のカンボジア侵攻と71年のラオス空爆である。ベトナム反戦運動が活発する中、国際的に批判を浴びた。

 72年、この状況を打開するため、ニクソン大統領は中国へ向った。

コメント

  1. […]  トランプ氏の外交政策は、孤立主義に近い。世界の警察という役割を捨て、アメリカの国益になるか否かで判断する。過去の大統領でいえば70年代のニクソン大統領に近い。 […]

  2. […]  40年代から始まった冷戦は、80年のソ連アフガニスタン侵攻でさらに強まった。しかし、米ソはその後明暗がくっきり分かれた。ソ連は、経済的に困窮。さらにチェルノブイリ原発事故で国民の支持を失う。これにより国家の維持が危うくなった。一方、アメリカは70年代の不況を乗り越え、レーガノミクスの成功で最高潮に達していた。 […]

  3. […]  ブレトンウッズ体制では、アメリカが金本位制へ復帰する。それ以外の国は米国ドルとの固定相場制を約束し、事実上の金本位制(ドル本位制)となった。この体制は、70年代のニクソンショックの時代まで続いた。 […]

  4. […]  トルーマン大統領は、中華人民共和国の建国を承認せず、台湾の中華民国を正式な国家とした。そのため、蒋介石が国際連合に参加した。中華人民共和国が国際連合に参加したのは70年代のニクソン大統領の時代で、国交が成立したのは、70年代末のカーター大統領のころである。 […]

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